太田述正コラム#10899(2019.11.2)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その10)>(2020.1.23公開)

 「・・・1917年、ロシア革命を経て誕生したソビエト政府は、早くも2年後の1919年にコミンテルン(第三インターナショナル)を結成し、世界革命に乗り出した。

⇒「ソビエト政府(ロシア政府)は・・・自国の勢力圏ないし緩衝地帯の拡大に乗り出した」と的確に書いて欲しかったところです。(太田)

 1921年、外モンゴルの首都フレーにコミンテルン代表が送り込まれてモンゴル革命が引き起こされ、初代元首ボグド・ハーンは軟禁状態に置かれた。
 1924年にボグド・ハーンが崩御すると、モンゴル人民党はモンゴル人民共和国の成立を宣言し、首都フレーをウランバートル(モンゴル語で「赤い英雄」の意)と改称した。
 人民政府は君主制を廃止すると同時に、8代270年も続いてきた活仏制度をも廃絶して、ジェプツンダンバ・ホトクト8世の輪廻転生を認めなかった。
 更にラマ僧の特権を剥奪し、寺院の財産を没収し、出家に許可制を導入するなど過激な宗教弾圧政策を展開した。
 そして・・・チョイバルサン<(注25)(コラム#634、635)>は・・・1952年に死亡するまでの13年間、スターリン顔負けの恐怖政治を敷いた。」(68)

 (注25)「幼くしてチベット仏教の僧院に入るも脱走した。クーロン(庫倫、現ウランバートル)のロシア領事館付属学校に入学し、1914年にロシアのイルクーツクに留学。1918年に帰国して独立運動に参加、1920年に・・・モンゴル人民党(後のモンゴル人民革命党)の結成に携わる。
 1924年のモンゴル人民共和国成立後は国家小会議議長に、1929年に人民委員会主席に、1936年に内相に、1937年9月に全軍総司令官、同年12月、首相代理に任命され、1939年から1952年に没するまで首相兼外相を務めた。1936年から1938年にかけて大規模な粛清を行い、「モンゴルのスターリン」とも呼ばれた。この粛清は、1936年まで首相を務めたゲンドゥンらが、対日宥和政策を取ろうとした点、スターリンからの当時モンゴル国内に約11万人いたチベット仏教僧を打倒せよとの助言を拒否しスターリンと対立した点から、モンゴル首脳部の政策転換、チベット仏教僧の排除を行うためにソ連側が計画した。チョイバルサンはこの計画を受けて、これを自らの独裁権確立に利用しながら、多くの人民を「日本のスパイ」として処刑した。
 1936年、ソ連と相互援助議定書を締結して赤軍の駐留を認め、ソ連の衛星国としてのモンゴルの立場を築くとともに同年に内務大臣として秘密警察を創設、1937年に全軍総司令官に就いて自国軍の近代化を推し進めた。・・・
 1945年8月9日に始まったソ連の対日宣戦では、ソ連と共に日本に宣戦布告をして満州や内モンゴルに侵攻し、ソ連軍の勝利に貢献するとともにモンゴル人民共和国の国際的認知の第一歩を記した。この布告書には「モンゴル人が統一国家となるため」とあり、同年8月10日のラジオ放送では「本日政府の命令に基づいて、我が軍は越境し、内モンゴル地域に速やかに進攻した。これは血を分けた内モンゴルを解放し、自由を獲得するためである」と汎モンゴル主義を訴える演説した。この呼びかけは満州国軍(興安軍)や内蒙軍の背反逃亡、内モンゴル人民共和国や東モンゴル自治政府などの樹立、後には蒙古聯合自治政府の主席だったデムチュクドンロブ(徳王)の亡命を満州や内モンゴルに引き起こすことになる。当初のチョイバルサンは外モンゴルをゴンチギン・ブムチェンド、内モンゴルをデムチュクドンロブに任せて自身は全モンゴルの統治者となることを考えていた。ソ連軍が内蒙古に投入した師団は1個だったのに対してモンゴル軍は4個もの師団を派遣して内蒙古東部から内蒙古西部まで進駐していたが、占領した内蒙古を放棄する代わりに中華民国にモンゴル人民共和国の独立承認を迫ったスターリンによって内外モンゴル統一は実現せず、占領地のソニド右旗を慰問で訪れたチョイバルサンは中国共産党との連携を指示したことでウランフが内モンゴルを支配することになった。この際に得られた日本軍や民間人の捕虜はモンゴル国内での強制労働にも使役され(シベリア抑留)、犠牲者を出した。
 ・・・1946年には中華民国にモンゴルの独立を認めさせるも翌年の1947年の北塔山事件では中華民国軍と新疆で武力衝突するなど摩擦が続き、中国との国交樹立は1949年の中華人民共和国成立まで待つことになる(台湾に逃亡した中華民国は独立の承認を撤回)。・・・
 社会主義政権崩壊後の現在でも、チョイバルサンに対する評価は・・・、戦争に勝利して独立を維持して後の諸外国からの国家承認と国際連合加盟の基礎を築き、モンゴル国立大学の創設と識字率の向上に代表される教育政策やモンゴル縦貫鉄道建設のようなインフラ整備など国内の近代化を推し進めた点で必ずしも低くないという。モンゴル国立大学には今も彼の銅像が建っている。
 モンゴル東部にある生誕地のドルノド県バヤン・トゥメンは、彼の名を冠して首府チョイバルサン市に改称された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%B3

⇒私は2001年の参院選落選後、選挙直前に『防衛庁再生宣言』を出版してくれた、当時、日本評論社の編集長(その後社長)だった、高校同級生(東大文卒)の黒田敏正君の好意で、同社から出版する本の校正を1年ほどやったことがあり、その折、チョイバルサンの時代のモンゴルを取り上げた大著の原稿の校正も手掛けたことから、いかにチョイバルサンが(スターリンの「指示」の下とはいえ)ひどいことをモンゴル人やブリャート・モンゴル人にやった(コラム#634)か、また、日本にも多大な迷惑をかけたか、を知って嫌悪感を抱き、現在に至っているのですが、「注25」からも分かるように、「民主」化以降のモンゴルが、その時代の清算を十分に行っていないにもかかわらず、モンゴル出身の力士達の活躍くらいにしか、現在の日本人一般の関心が向けられていないことに、残念な思いを抱いています。
 なお、私が、本の書評シリーズで、校正者や出版社に辛口であるのは、自分自身や友人のことなので口幅ったいけれど、校正者としての私や、(彼にとってはいつも通りのことだったのでしょうが)編集者としての黒田君・・が、いかに校正に真剣に取り組んだか、を知っており、それと比較して歯痒い思いを禁じられないからです。(太田)

(続く)