太田述正コラム#10903(2019.11.4)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その12)>(2020.1.25公開)

 1933年1月、関東軍は陸軍きってのモンゴル通といわれた松室孝良<(注28)>大佐を内地の連隊から呼び寄せて関東軍司令部付とし、熱河省の承徳特務機関長に任命した。・・・

 (注28)まつむろたかよし(1886~1969年)。京都府出身、陸士、陸大。「1925<~26>年・・・<及び、>1928<~29>年・・・馮玉祥顧問・・・1933年(昭和8年)1月、関東軍司令部付(チチハル特務機関長)に転じ、熱河特務機関長、騎兵学校教官、第7師団参謀長を経て、1936年(昭和11年)3月、陸軍少将に進級し支那駐屯軍司令部付(北平特務機関長)となる。同年12月、騎兵第4旅団長に転じ、1937年(昭和12年)8月に待命となり、同月、予備役に編入された。1937年12月から1938年(昭和13年)5月まで上海で政権工作を行った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%AE%A4%E5%AD%9D%E8%89%AF

⇒第二次上海事変(1937年8~10月)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89
中にわざわざ諜報畑の松室を予備役(民間人!)に編入して待機させた上で、事変「終了」直後に上海に派遣したのは、当然、中国共産党との連絡(コラム#省略)要員としてですが、彼が、1943年5月に、「大東亜戦争といふと東アジアや南の地域を占領して満足してしまふが、それはよくない。今度の戦争は対米英であるので、アメリカに上陸して、勝利しなければならない。」と講演で語っている
https://josaiya.hatenablog.com/entry/20180504/1525426882
ことからして、彼に杉山構想の全部は明かされていなかったと思われます。(太田)

 当時、関東軍は満州帝国の四周を睨み、土居原賢二少将率いるハルピン特務機関がシベリアでの諜報活動、板垣征四郎少将率いる奉天特務機関が華北分断工作、そしてこの松室孝良大佐率いる承徳特務機関が内蒙工作を展開するという三正面作戦を構えたのである。
 着任して9ヶ月の1933年10月、松室は・・・「蒙古国建設に関する意見」を起案し・・・関東軍司令部に送付した。・・・
 <彼は、>「蒙古国の建設は帝国の大亜細亜政策を容易にす」として次のように主張する。
 モンゴル国家の成立は、甘粛省、東トルキスタン(新疆)などのイスラーム系民族の奮起を促して必然的に「回教国」の建設機運をもたらし、またチベットにもモンゴル国家を通じて日本との提携機運を助成し、ここに中国本土の外側をめぐって、日本を中心とする満州国、モンゴル、回教国、チベットの環状連盟を形成し、<支那>をして提携せざるを得ない状況に導く。
 更にこの環状連盟が、外モンゴル、中央アジア、ペルシャ、インド、インドシナに与える政治的影響は絶大であり、ついには全アジア民族の奮起を促し、アジア復興を達成し得ること夢想に非ざるべし……云々。・・・
 この意見書を提出するやいなや、松室は満州北部のチチハル特務機関長に左遷されてしまう。・・・
 だが、松室の奇想天外な構想は、歳月をかけて関東軍内部に滲透していき、・・・1936年1月、関東軍参謀部による「対蒙(西北)施策要領」(極秘関参謀第九号)として機関決定されるに至る。
 これは関東軍が工作の対象を内モンゴルから外モンゴル、東トルキスタン、青海省、チベット、つまり西北全域に拡大することを始めて明確に打ち出した文書として重要である。・・・」(70~76

⇒満州国を作ったのは、そもそも、(支那本体の親ソ化阻止を含むところの、)日本の対ソ(露)防衛のための緩衝地帯の設置が最大の目的であったところ、そもそも、かかる緩衝地帯は、ソ連(ロシア)の支那との間の全国境地帯に設置されてしかるべきであることから、関東軍は、松室の意見書の有無とは無関係にこの施策要領を策定したと思われます。
 チチハル特務機関長赴任時期を関岡が勘違いしている可能性があります(「注28」参照)が、松室が左遷されたのが事実だとすれば、かかる緩衝地帯の設置を推進することが「<支那>をして提携せざるを得ない状況に導く」、と書いたためでしょう。
 帝国陸軍内の島津斉彬コンセンサス信奉者達にしても横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者達にしても、そうすることが、松室とは正反対に、支那(中国国民党政権)との不可逆的衝突をもたらす、という(論理的かつ常識的な)認識を抱いていたはず(コラム#省略)ですから、松室は戦略的思考に難があるという意味で無能だとみなされた可能性はあります。
 (引用しませんでしたが、関岡は、松室が左遷されたのは「自身の構想」を周りに吹聴していたからだろうとしているところ、帝国陸軍が、そんな人間を、左遷だったとしても、引き続き諜報分野に留めるはずがありますまい。)
 だからこそ、横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者達は、国際的に認められた権益を持つ満州、から、更に外へと打って出るかかる施策は絶対に露見しないように遂行しなければならないと思っていた一方で、島津斉彬コンセンサス信奉者達は、どう遂行しようと早晩露見するのは必定であって、その結果、支那(中国国民党政権)との不可逆的衝突をもたらすからこそ着手させたかった(コラム#省略)のですからね。(太田) 

(続く)