太田述正コラム#10913(2019.11.9)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その17)>(2020.1.30公開)

 「・・・板垣参謀長の西北視察に話を戻す。
 板垣は最後に綏遠省を訪れて中国国民党系の軍閥、傅作義と会談した。・・・
 板垣が局地防共協定を提案して抱き込みを図ったが傅作義はそれをことわった・・・。・・・
 その後、板垣参謀長の部下、田中隆吉が関東軍参謀兼任のまま徳化特務機関長として・・・内モンゴルに乗り込んでき<て、>・・・関東軍司令部の許可なく徳王率いる蒙古軍を使嗾して、軍事挑発を仕かけるが失敗、逆に百霊廟の特務機関を傅作義軍に占拠されてしまう。
 これを奪回しようとして撃退され潰走、日本人特務機関員29名を失うという信じ難い大失態を演じた。
 これが悪名高い綏遠事件<(注38)>である。・・・

 (注38)「1936年中国綏遠省 (現内モンゴル) 東部で起った,日本の関東軍指導下の内モンゴル軍と国民政府軍との武力衝突事件。 1930年代に入って高まった内モンゴルの自治運動は,満州国の成立 (1932.3.1.) に刺激され,34年4月百霊廟には徳王を中心とする内蒙古政務委員会 (蒙政会) が成立し,国府は同委員会に内モンゴル一帯を範囲とする自治権を与えた。36年1月徳王は,かねてから内モンゴルの軍事戦略的価値に着目していた日本軍の指導のもとに,察哈爾 (チャハル) 盟を結成するにいたったため<国民政府>と対立し,その結果,蒙政会は徳王を中心とする内モンゴル軍政府と国府系の綏遠省蒙政会に分裂し,両者間には小ぜりあいが続いた。同年11月中旬,日本の関東軍飛行隊の支援のもとに進撃した内モンゴル軍は,傅作義の綏遠軍と衝突したが,同月下旬百霊廟を占領され敗北した。蒋介石も 10月下旬,二十数万の中央軍を北上させ,綏遠軍支援態勢を整えた。12月百霊廟を奪還しようとした内モンゴル軍は綏遠軍に壊滅的打撃を受け,敗退した。一方,全国各界救国連合会,全国学生救国連合会の指導のもとに広範な援綏運動が展開され,11月以来上海,青島,天津などで労働者のストライキが相次いだ。こうして綏遠事件は,抗日運動を高揚させることになり,西安事件 (36.12.12.) を経て,半年後の日中戦争勃発の伏線となった。」
https://kotobank.jp/word/%E7%B6%8F%E9%81%A0%E4%BA%8B%E4%BB%B6-82816
 「<綏遠事件の前、>これを止めようとした石原莞爾参謀本部戦争指導課長は関東軍本部を訪問し、陸軍中央部の指示に反する内蒙工作を中止するよう要望したが、武藤章第二課長以下の関東軍幕僚は冷笑的な態度で接し、また工作の主導者である板垣はかつての上司であり、石原の「二度と柳の下に泥鰌はいない」という忠告も無視した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E5%BE%81%E5%9B%9B%E9%83%8E

⇒関東軍が徳王に、1936年1月、対国民党政府挑発行動をとらせたのは、当時、参謀次長(事実上の参謀総長)であった杉山元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
の事実上の指示に基づくものであったに決まっており、その時期までには、綏遠事件での「対国府挑発」も「敗北」も、それによる支那における排日運動の激化も、更には日支戦争の勃発も、全て陸軍中央において、綿密な作戦計画が策定されていて逐次実行に移されて行った、と、私は見るに至っています。(太田)

 田中隆吉の部下だった内田勇四郎は、作戦のあまりの杜撰さが心配でたまらなくなり、事前に直訴したら田中がカンカンになって怒り出したので、「自分の立場を過信して出世欲に捕らわれた人は恐いと思った」と書き記している。
 綏遠事件のあおりで寧夏省のアラシャン特務機関も撤収を余儀なくされ、設立されたばかりのオチナ特務機関は僻遠の地で完全に孤立してしまった。・・・
 オチナ特務機関は・・・8ヶ月持ちこたえたが、1937年7月に盧溝橋事件が勃発・・・するやいなや、機関員は中国国民党軍に拘束され、蘭州へ連行されて市中引き回しのうえ、全員処刑された・・・。・・・
 田中<は、>上官である武藤章大佐にさえ<この成行>を正確に報告し・・・なかった。・・・
 後年、極東国際軍事裁判の市ヶ谷法廷で、武藤<と>・・・板垣・・・はいわゆる「A級戦犯」として、検察側証人<の>・・・田中<と>・・・対峙することにな<り、>・・・田中は・・・<彼らに>不利な証言を繰り返し<、この2人>を死刑に追い込んだ・・・。・・・」(86~88)

⇒少なくとも、田中は、上で記したような構図の中では、走り使いでしかなかったはずであり、関岡が、その「独断」なるものを含め、田中に焦点を当てて綏遠事件を描いているのは誤りです。
 (誰でも分かる単純な具体的事実を一つだけ挙げれば、まるで関東軍による全面的支援を公然と示すのが目的であるかのような、関東軍司令官直轄と思われるところの「関東軍飛行隊」の出動を、一介の関東軍参謀が、しかも、その立場においては、ラインではなく、スタッフ(参謀)に過ぎなかった田中が、「指示」できるはずがありません。)
 いずれにせよ、極東裁判の時の田中の言動と、彼の綏遠事件の時の言動とをストレートに結び付けるわけにはいかないでしょうね。(太田)

(続く)