太田述正コラム#10917(2019.11.11)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その19)>(2020.2.1公開)

 「・・・<やがて、>蒙古<聯>合自治政府<(「注40」参照)>が成立し、首都を張家口とし、徳王が主席に就任した。・・・
 徳王は今度こそ「国」という名称にこだわったが、結局「邦」という漢字(モンゴル語ではどちらも「オロス」)を使うことで妥協が図られ、「内蒙古自治邦」を対内的に名乗ることが認められただけだった。・・・
 理由は三つある。
 まず、・・・いわゆる満州蒙古の帰属問題がある。・・・
 モンゴル国家が誕生すれば、当然、東部内蒙古の併合要求が沸き起こり、へたをすれば満州帝国との国境問題に発展する恐れがあると考えられたのである。
 二番目に、「察南自治政府」や「普北自治政府」と合併されたことで顕在化した問題がある。
 そもそもなぜ合併が行われたかというと、察南・普北の両地域は、北京と包頭を結ぶ京包(けいほう)線の沿線で人口が稠密であるうえ、石炭や鉄鉱石など資源が豊富で産業も発展しており、この地域を除いた純然たる内モンゴルだけでは経済的な自立が困難だったからだ。
 だが、察南・普北の住民、特に最大の都市、張家口にはモンゴル人はほとんど住んでおらず、大部分が漢人であったため、合併の結果、蒙古連合自治政府の領域内では全人口の95%が漢人であるといういびつな人種構成になってしまい、漢人住民にも配慮せざるを得なくなったのである。

⇒さすがに、ようやく、私の指摘が聞こえたかのような記述を関岡がしていますね。(太田)

 三番目として、陸軍中央が進めていた「梅工作」すなわち汪兆銘担ぎ出し工作の影響がある。
 これは、重慶に立てこもった蒋介石と袂を分かった汪兆銘に親日政権を樹立させるというもので、自民党の第24代総裁、谷垣禎一氏の祖父、影佐禎昭大佐が推進していた。

⇒梅工作については、既に詳しく紹介したことがある(コラム#10289)ので立ち入りませんが、「影佐禎昭大佐が推進していた」というよりは、影佐もまた、杉山元らが動かしていた駒の一つに過ぎない、という認識が必要です。(太田)

 当時の中国国民党は蒋介石であれ汪兆銘であれ、内モンゴルはもちろん外モンゴルさえ独立を承認しない方針だったため、汪兆銘は蒙古<聯>合自治政府をあくまでも南京政権の一地方政権として扱い、日本もこれを容認した。・・・
 1940年に徳王が重慶の蒋介石と内通したことが発覚したが、迫りくる大東亜戦争開戦を前に複雑化する国際情勢に鑑みて、徳王の背信は不問に付された。・・・
 ・・・西川一三<(前出)>がモンゴル語を学んだ興亜義塾は1939年4月に厚和に設立された。
 設立の母体となったのは善隣協会という団体である。
 これはもともと笹目恒雄<(注43)>(つねお)という篤志家が大正末期から私財を投げうって個人で運営していた戴天義塾というモンゴル人のための日本語教育の私塾を発展的に改組した組織である。・・・」(92~95)

 (注43)道名は笹目秀和(1902~97年)。「茨城県生まれ。中央大学法学部に入学。・・・22歳、大学生の笹目は中国大陸を旅行した。・・・モンゴル<から>・・・帰国した笹目は・・・叔母に資金を出してもらい、モンゴルから留学生を呼ぶ事業を始める。しかしそのお金を仲間に騙されて取られてしまい、<出口>王仁三郎に助けを求めると、<大本の>横浜別院を使えと言われ、そこに留学生たちを住まわせる。その後、資産家の祖父にお金を借りて、東京・目黒区駒場に留学生寮「戴天義塾」を設ける(昭和2年3月)。昭和3年(1928年)には北京に「満蒙義塾」を開設する。・・・戦争後、ソ連により抑留され、シベリアで11年4ヶ月の強制収容所の生活を送る。昭和32年(1957年)に帰国。東京都奥多摩の大岳山に多摩道院を開き、活動を行なう。」
https://onipedia.info/wiki/%E7%AC%B9%E7%9B%AE%E7%A7%80%E5%92%8C ←信頼性に疑問あり。(太田)
 「善隣協会<は、>・・・1933年,・・・笹目恒雄などが中心となり,林銑十郎,山本条太郎など軍部,財界の援助をうけて・・・東京において・・・発足した・・・対モンゴル友好工作機関・・・。モンゴルでの各種調査研究のほか,医療,畜産,教育など広い活動を行った。のち東京の善隣協会と現地張家口の蒙古善隣協会に分かれ,別に蒙古研究所,西北研究所,回教圏攷究所などを設けた。《蒙古大観》など単行本のほか,《蒙古》(もと《善隣協会調査旬報》《同月報》)や《蒙古学》《蒙古学報》《回教圏》などの定期刊行物も発行した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%96%84%E9%9A%A3%E5%8D%94%E4%BC%9A-1180560

⇒教派神道の一つである大本(大本教)の出口王仁三郎の島津斉彬コンセンサス(アジア主義)信奉者達との関り(注44)については、機会があれば、追究してみたいですね。(太田)

 (注44)「新宗教「大本」の二大教祖の一人<である>・・・王仁三郎<(おにさぶろう。1871~1948年)>は・・・大本の右翼化・愛国化を進め・・・精神運動団体「昭和神聖会」・・・の発会式には後藤文雄内務大臣、文部大臣、農林大臣、衆議院議長、陸海軍高級将校、大学教授など政財界の指導者層が参加した。この他、石原莞爾や板垣征四郎といった急進派の陸軍将校や久原房之助(政治家)も王仁三郎の信奉者であり、あるいは影響を受けている。<その一方で、>農村救済運動を筆頭に、国内外の問題について政府の対応を批判。岡田内閣の打倒さえ訴えたという。さらに・・・美濃部達吉らが唱えた天皇機関説に対しては「神聖皇道」の観点から厳しい批判を加えた。・・・1935年(昭和10年)1月に、昭和神聖会は皇族を主班とする皇族内閣の創設を天皇に直接請願する署名を集める。・・・日本政府は・・・大本の神話・教義が天皇(現人神、天皇制)の権威や正統性を脅かしかねないという宗教的な理由<もあって、>・・・王仁三郎と母体である大本を治安維持法によって徹底排除することを意図<するに至ったが、>・・・満州国指導者層は・・・王仁三郎に同情的であり、支援の手をさしのべている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E5%8F%A3%E7%8E%8B%E4%BB%81%E4%B8%89%E9%83%8E

(続く)