太田述正コラム#10062005.12.18

<チャールス1世を断頭台に送った男(その1)>

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1 始めに

私は英国史の通説に従い、かつて(コラム#61で)「あの冷静で常識的なイギリス人すら、一時的に(カルヴィニズムの系譜につながる)ピューリタニズムにかぶれ、イギリス史における唯一のaberration(=常軌の逸脱)たる、内乱(1642-49年。49年に国王処刑)・共和制時代を経験することになります。そのイギリスが本来の姿に戻ったのは、王政復古(1660)と名誉革命(1688)によってです」と記したところです。

しかし、この通説を覆すような本が出ました。Geoffrey Robertson, The Tyrannicide Brief, Chatto & Windus です。

ロバートソンが何を言っているかを、まずご紹介するところから始めましょう。

(以下、http://books.guardian.co.uk/reviews/biography/0,6121,1669119,00.htmlhttp://www.opendemocracy.net/globalization-institutions_government/tyrant_2979.jsphttp://www.abc.net.au/rn/arts/booktalk/stories/s1465515.htmhttp://www.timesonline.co.uk/article/0,,23111-1811442,00.htmlhttp://72.14.203.104/search?q=cache:i2VE2p48NV4J:www.hcourt.gov.au/speeches/kirbyj/kirbyj_brgr.pdf+The+Tyrannicide+Brief&hl=jahttp://www.amazon.co.uk/exec/obidos/tg/stores/detail/-/books/0701176024/customer-reviews/203-3483009-0380748http://pukeko.net.nz/?p=69http://enjoyment.independent.co.uk/books/interviews/article315955.ece(いずれも1217日アクセス)による。)

2 チャールス1世の処刑まで

 イギリスの1640年代は激動の時代でした。国王チャールス1世と議会の対立が続き、国王派と議会派との間で内戦が起き、1649年には、チャールスは議会派によって断頭台に送られます。

 農民の子でピューリタンであるクック(John Cooke)は、法曹として、「代表なきところに課税なし」と叫んで議会派の先頭に立った一人でした。

 チャールスは自分の臣民達である国王派を率いて、同じく自分の臣民達である議会派に戦いを挑み、当時のイギリスの人口の10分の1を死に追いやります。

 やがて議会派はこの内戦に勝利するのですが、この時点までは、議会派といえども、大部分は君主制支持者達でした。議員としてただ一人、王制廃止を主張したマーテン(Henry Marten)はロンドン塔に送られたくらいです。

 当時、ピューリタンより過激だったのがプレスビテリアンであり、彼らが自分達の考えを国全体に押しつけようとした時、クックは、「人々に教会に行くことを強制することは、彼らを偽善者にすることだ・・宗教の問題を剣で解決することは許されない」と反対しました。

 クックは、イギリス史上初めて(つまりは世界史上初めて。以下同じ)、議会主権・裁判官の独立・人権(恣意的な逮捕や勾留からの自由・黙秘権・国家と宗教の分離(宗教的寛容))、すなわち専制からの自由なる新しい理念を、チャールスの裁判を通じて構築するとともに、イギリス史上初めて、(貧困が犯罪を生み出すとの考え方を打ち出し、この考え方を踏まえ、)社会保障制度や健康保険制度を提案し、また、囚人の待遇改善や死刑を反逆罪と殺人罪だけに限定することや債務不履行による投獄制度の廃止を提案し、その上、土地登記制度・酒屋の免許制・商法の制定・薬への名称や効能のラベル貼り、等まで提案しました。

 彼は、法曹に係る様々な提案・・司法扶助制度(国選弁護人制度)、法廷用語のラテン語・フランス語から英語への切り替え、弁護士費用の明示と上限設定、裁判の迅速化、弁護士報酬の10%の慈善事業への寄付、等・・も行いました。

 クックが恐ろしく先見性のある人物でもあったことは、最後の10%の寄付という一点を除き、後世すべてがイギリスで・・(「英語」を「自国語」に置き換えれば)世界で・・実現していることが示しています。

 チャールスが「逮捕」された1948年時点で、クックを含む議会派は、チャールスとの交渉を通じ円満にことを収めようと考えていたのですが、チャールスが全ての提案を拒否し、密かに内戦の再燃を企てたことで、チャールスは自らの墓穴を掘ったのです。

 こうなれば仕方がないというわけで、議会派はチャールスを裁判にかけることにしたのですが、誰も検察官役を引き受ける者がいません。意を決してこれを引き受けたのがクックでした。彼には法曹は、顧客の依頼を断ってはならない、という信念があったのです。(これもまた、後世制度化されます。)

 クックの予期に反し、チャールスは、お前達には自分を裁く法的権限はないとして(注1)、無罪を主張した上で容疑を晴らそうとはしませんでした。

 (注1)奇しくも、サダム・フセインが、イラクの法廷で述べた言葉と全く同じだ。

 そこでクックは、イギリス国王はあくまでも国家の一機関(office)に過ぎず、イギリスの法に基づいてその権限を行使しなければならないとした上で、チャールスは、彼が保護すべき非戦闘員たる臣民を内戦の戦禍に晒し、(国王派軍による掠奪・破壊・強姦等もあって)その生命・身体・自由・財産を損ない、また、捕虜になった戦闘員たる臣民を拷問したことについて、管理責任(command responsibilityがあり、チャールスは臣民を裏切ったのであって、かかる専制(tyranny)を行ったチャールスは大逆罪を犯した、という法理をつくり出してチャールスを断罪し(注2)、その有罪を立証したのです。

 (注2)1世紀半近く後のフランス革命の際に、この法理を援用してルイ16世が断罪され、有罪とされた。

 イギリス法では、貴族が反逆罪を犯した場合は、首切りの刑に処せられることになっていたので、チャールスは断頭台の露と消え、イギリスは共和制になり、クロムウェルが護民卿(lord protector)に就任し、クックは植民地アイルランドの首席裁判官に任命されます。

(続く)