太田述正コラム#10927(2019.11.16)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その24)>(2020.2.6公開)

 三番目に、大川周明による「大川塾」の開塾がある。
 これはインドやイスラーム圏などアジア各地で独立運動を支援する人材を養成する教育機関で、正式名称は「東亜経済調査局付属研究所」<(注56)>と称し、満鉄、外務省、陸軍参謀本部の三者共同出資で設立された。

 (注56)「1908年に満鉄の調査機関の一つとして東京支社の管轄下に設置され、当初は世界経済の調査分析を担当していたが、1920年代以降<(1921~38年)>大川周明によって主宰されるようになると、次第に東南アジア地域の調査研究に活動の重心を移した。1929年から財団法人として満鉄から独立、大川を理事長とした。1939年の満鉄調査部の拡充に伴い再び満鉄に統合され、「大調査部」に属してイスラム世界・東南アジア・オーストラリアを担当地域とする分局となった。回教圏研究所と並ぶ戦時期イスラム研究の中心として、前嶋信次など第二次世界大戦後の代表的な中東研究者・アジア研究者を<所員として>育てたことでも知られる。・・・
 <なお、>大川の学位論文の基になった「特許植民会社制度に関する研究」は・・・ここで<所長になる前の時代に、>業務の一環として執筆された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E7%B5%8C%E6%B8%88%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%B1%80

 大川塾にはアラビア語班、ペルシャ語班などが開講されており、その講師陣のなかからイスラーム学の世界的権威となった井筒俊彦<(注57)>や、アラビア史の前嶋信次<(注58)>、ペルシャ史の蒲生礼一<(注59)>など、戦後日本のイスラーム研究の泰斗となった優れた研究者が輩出した。

 (注57)1914~93年。慶大文(英文科)卒、同助手。「父の井筒信太郎はオイルマン<だが>、書家で、在家の禅修行者<であったので、井筒俊彦は、>坐禅や公案に親しんで育つ。
 戦時中は軍部に駆り出されて中近東の要人を相手としたアラビア語の通訳として活躍。保守思想家でイスラム研究者でもあった大川周明の依頼を受け、満鉄系の東亜経済調査局や回教圏研究所で膨大なアラビア語文献を読破し、イスラーム研究を本格化した。前嶋信次はその時の同僚で、のち共に慶應義塾大教授(東洋史)。1958年に『コーラン』の邦訳を完成させた。・・・慶應義塾大学文学部教授・・・ロックフェラー財団研究員・・・カナダ・マギル大学客員教授・・・慶應義塾大学言語文化研究所教授・・・カナダ・マギル大学イスラーム研究所正教授・・・イラン王立研究所教授<、を歴任。>・・・
 仏教は単なる宗教の一つではなく、諸宗教が宗教であることの限界を超えてメタ宗教を目指す過程で必ず仏教のような思想形態があらわれるというのが井筒の思想<の到達点。>・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E7%AD%92%E4%BF%8A%E5%BD%A6
 (注58)1903~83年。東大文(東洋史学科)卒。「イスラム史を志し、アラビア語を学ぶ。一時、台南第一中学校教諭や台北帝国大学助手となり、戦時中は南満州鉄道東亜経済調査局に勤めた。戦後は1951年から1971年まで慶應義塾大学教授でイスラム史を研究紹介。・・・
 『アラビアン・ナイト』<の>・・・日本ではじめて<の>アラビア語原典からの翻訳<を行った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E5%B6%8B%E4%BF%A1%E6%AC%A1
 (注59)1901~77年。東京外国語学校卒。1925年同講師、1950年東京外国語大学教授」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%94%9F%E7%A4%BC%E4%B8%80

⇒私は、井筒俊彦訳の『コーラン』(岩波書店)を持っており・・コーランは英訳で読んだので、こちらは置いてあるだけなのですが・・、井筒の名前だけは良く知っていたものの、思想家としての井筒については、殆ど知りませんでした。
 仏教・・恐らくは禅・・をメタ宗教的なものと捉える(「注57」)という、私の考えと一見似通ったところの、井筒の思想そのものを取り上げた論考をネットですぐ見つけることができませんでしたが、彼の『意識と本質』(1983年)のさわりの要約紹介の試みであるところの、「「本質」とは、「Xとは何か」という問いに対する(正しい)答えである。例えば「君主とは何か」への正解が「仁愛なり」なら、仁愛が君主の本質だ。だが、「正解」が簡単に見つかるわけではない。本書によると、その「見つけ方」に関して三つの考え方がある。瞑想(めいそう)の果ての直観や悟りなど深層の意識の働きを通じて本質を見極めることができるとするもの(朱子学など)。マンダラのようなイメージやシンボルを通じて本質を捉えられるとするもの(密教など)。事物に正しい言葉=名前を与えれば、普通の表層の意識で本質を認識できるとするもの(儒教の名実論など)。この分類を使うと、一応は第一の種類に入れられるが、この三分類そのものからあと一歩ではみ出すという極限にあるのが禅だとわかる。無心(意識の究極的原点)に至り、事物の本質など存在しないと悟れ、と説くのだから。本質と見えたものは、言葉による世界の区分け(分節)が生み出す錯覚だ、と。禅とは逆の極限が、カッバーラーと呼ばれるユダヤ教神秘思想。禅と反対に、本質がまさに言葉とともに無から創造されるとする。ただし、その場合の「言葉」は神の言葉である。」
https://book.asahi.com/article/11581296
を読むと、彼は、「枢軸の時代」の哲学者や宗教者達が追求したものは人間主義の回復であった、という私の結論にかなり接近はしたけれど、ついに到達することはできなかったように思われます。
 彼にとって不幸だったのは、彼に「神秘哲学」を用いたタイトルの著書が計4冊、や「神秘主義」を用いたタイトルの著書が1冊あり、また、「形而上学」という著書が1冊あること、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E7%AD%92%E4%BF%8A%E5%BD%A6 前掲
が示唆しているように、彼が、「枢軸の時代」の哲学者達や宗教者達の営みの最大公約数を、人間存在の根本的意味を見出そうとする神秘主義的な諸営みと受け止め、それらを形而上学的、換言すれば、合理論的、に解明しようとしたことではないでしょうか。
 そうだとすれば、彼が、口幅ったいけれど、私のように、「枢軸の時代」の哲学者達や宗教者達の営みの最大公約数を、人間社会の諸問題の根本的な解決を目指す世俗志向的な諸営みと受け止め、それらを、心理学的、人類学的、歴史学的、に、換言すれば、経験論的、に解明しようとしなかったことが惜しまれます。
 とまれ、毛沢東はさておき、和辻哲郎、廣松渉、と並ぶ、私の先達の一人として、これに更に、井筒俊彦、も加えるべきかもしれませんね。(太田)
 
(続く)