太田述正コラム#10082005.12.19

<チャールス1世を断頭台に送った男(その3)>

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今回の投票結果が、昨年と変わらず12位(あるいはそれ以下)で終わるようであれば、今年一杯で本コラムの執筆は取りやめ、来年のしかるべき時期から、本コラムの本数を大幅に減らした上で、有料コラムとして再開を期したいと思います。他方、10位以内に食い込めば、無条件で本コラムを続けます。

読者の皆さんによる評決の結果が出るのはもうすぐですね。)

4 チャールス裁判におけるクックの功罪再考

 

 (1)最初に

 ここで改めて、チャールスの裁判に限定してクックの功罪を考えてみましょう。

 (2)功績

  ア 君主無答責の否定

 何と言ってもクックの第一の功績は、君主(元首)無答責を否定するという法理を編み出したことです。

 君主は窃盗程度を犯しても無答責かもしれないけれど、重罪については責任を負い、逮捕・訴追され有罪となり刑を執行されることがある、という法理です。

 このチャールスの裁判が、30年戦争の終わりを劃したウェストファリア条約締結(イギリスは締結していない)の翌年に行われたことは興味深いものがあります。

 ウェストファリア条約は君主無答責・・君主がその臣民の自由を侵しても君主の座を逐われることはない・・を前提として、個々の君主が統治する領域内における宗教的または民族的少数派に一定の権利を与えたものであり、国際法はこの条約から始まったとされています。

 このような状況下で、クックは、コモンロー等から君主無答責を否定する法理を生み出したのです。

 この法理は、水平派の政治家リルバーン(John Lilburne1615?57年)、そして恐らく詩人のミルトン(John Milton1608?74年)、更には哲学者のロック(John Locke1632?1704年)、らを通じて北米植民地やフランスに大きな影響を与え、米独立革命やフランス革命をもたらしたのです。

  イ 人道に対する罪の創造

クックの第二の功績は、自国民の大量虐殺といった行為は、身の毛のよだつ人道に対する罪であり、実行者はもとより、実行者の管理者も、それがいかなる人間であろうと責任を免れるわけにはいかない、という法理を創造したことです。

この法理に基づき、後世、げーリング(Hermann Goering)らのナチスの指導者達はホロコーストの責任を問われ、チリのピノチェット(Augusto Pinochet)、ユーゴのミロシェヴィッチ(Slobodan Milosevic )、イラクのフセイン(Saddam Hussein)らが裁かれることになったわけです。

 (3)

 クックの打ち出した、元首もまた無答責たりえないという法理と、人道に対する罪という法理は、人類共通の財産となったわけですが、チャールスの裁判当時には、これらは罪ではなかったのであって、チャールスはこれらの罪を遡及的に適用されて断罪されたことになります。

 このこととも関連していますが、(前述したように、チャールスの裁判は比較的公正な手続きに則って行われたとは言っても、)この裁判の法廷は、それまでに存在したことのない特別法廷であり、最高裁たるイギリス上院への控訴も認められていませんでした。またそれは、兵隊が要所要所を固める、という異常な法廷でもありました(注9)。

 

(9)チャールス裁判の20世紀版が、先の大戦に係る日本の政府や軍の首脳が「裁かれた」極東裁判だ。ここで彼らは、人道に対する罪の管理責任も問われたとはいえ、戦争を開始した責任なる罪を遡及適用され、絞首刑に処せられた者も出た。(太田)

 もっとも、だからといって、クックの功績がこの罪によって帳消しにされるわけではありません。

5 なぜ共和制期が「誤解」されてきたのか

 このように見てくると、英国の唯一の共和制の時代は、決して英国史における逸脱の時代などではなく、英国史にとってプラスの意味で最も重要な時代であった・・従って世界史にとっても最も重要な時代でもあった・・と言えそうです。

 では一体どうして、共和制の時代はイギリス史にとっての逸脱の時代だという通説がこれまで流布していたのでしょうか。

 それは、この時代におけるキーパーソンであったと言っても過言ではない、クックに対する評価の低さです。

 クックが軍人でもなければ議員でもない、単なる一法曹に過ぎなかったこともその一因でしょう。

 クックは典型的なビューリタンでしたが、ピューリタンに対する偏見がこれまであった、という点も挙げなければならない(注10)でしょう。

 

 (10)ピューリタンは姦通は死に値すると主張したとか劇場を閉鎖したとか言われているが、それはプレスビテリアン(長老派)の所業だ。ピューリタンは娯楽が大好きであり、タバコ狂であり歌や踊りには目がなかった。彼らはエリザベス女王の後を継いだスチュアート朝のジェームス1世とチャールス1世(いずれもカトリシズムにシンパシーを感じていた)によって弾圧され、その少なからぬ部分が英領北米植民地に逃れた。彼らは聖書を文字通り受け止めるとともに、1215年のマグナカルタに、市民的自由を保証した文書という新しい生命を与えた人々だった。そして、クックを初めとするピューリタンは、1628年にチャールス1世に権利の請願(Bill of Rights)を行う。チャールスは一旦はこれを受け取りつつ、翌1629年に議会を解散してしまい、以後11年もの間議会を召集しなかった。これが清教徒革命の伏線となる。(http://www5c.biglobe.ne.jp/~paruwees/Histoly_5_8.html1219日アクセス)も参照した。)

 更に、保守党(Tory)からすれば、クックは、国王を裁判にかけたという反逆罪の極悪人以外のなにものでもありませんでした。自由党(WhigLiberal)からすれば、クロムウェルは事実上イギリスの国王になった人物であり、それなりに評価するけれど、専制者の除去(tyrannicide)であろうが国王殺し(regicide)であろうが、そんなことをやった人間であるクックと自分達を同一視されたくはなかったのです。そして左翼は左翼で、水平派(コラム#529)に目を奪われ過ぎてきたのです。(その水平派は、立派なごたくを沢山並べ立てはしたけれど、結実したものはほとんどなく、しかも最後は国王派と野合をやってのけた連中です。)

(続く)