太田述正コラム#10955(2019.11.30)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その38)>(2020.2.20公開)

 北田正元<(注90)は、>・・・1934年11月から1938年3月まで初代アフガニスタン公使をつとめている<人物だ>。・・・

 (注90)1888~1978年。東大法卒、外務省入省、在アフガニスタン日本公使、在ペルー日本公使、在ボリビア日本公使を歴任し、1940年退官。義父は浜口雄幸。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%94%B0%E6%AD%A3%E5%85%83

 北田<は、>・・・英国、ソ連、中国といった大国の狭間にあって懊悩している中央アジアや東トルキスタンの被抑圧民族は、日本が提唱する「アジア人のアジア」という大アジア主義の理念に心底共鳴し、民族自決の具現化である満州建国を極めて好意的に受け止め、・・・自分たちもその恩恵にあずかることを期待する空気さえある、という<趣旨の公電を本省に送ってい>る。・・・

⇒北田のこの趣旨の主張に対し、本省も帝国陸軍も関心を示した様子がないのは、外務本省はもとより、帝国陸軍も、新疆省には殆ど関心がなかったことを示しており、そのことは、北田がその後、(外務本省による彼のアブナイ個人プレイを封じるための人事であった可能性がありますが、)南米駐箚となり、しかもそのまま退官させられていること、が裏付けています。(太田)

 大正末期に林銑十郎が見抜いていた通り、イスラーム信仰に裏打ちされた揺るぎない反共精神を堅持するウイグル人は、文字通り防共回廊の最適のパートナーであった。
 だからこそソ連は日本とウイグル人の提携を警戒したのである。

⇒再度、そんなことはなく、独裁的社会主義とイスラム教とはむしろ親和性がある、ということを強調しておきましょう。(太田)
 
 北田は1936年5月4日付で・・・「アミール・ホタン」手記を・・・外務大臣に送付している。
 <東トルキスタンから亡命してきていた>ムハンマド・イミン<(アミーン)>・ボグラがペルシャ語で書いた原稿を、・・・公使館の・・・通訳生が翻訳したものである。・・・
 そのなかで・・・<アミーン>は、・・・次のように訴えている。

 東「トルキスタン」の回教民は、久しきにわたり支那の虐政と専制により常時束縛を蒙り来たり、従って近代式の学校の新設も見られず、国民の向上発展の要因たる科学の普及を見ず、また隣邦諸国との通信機関に役立つべき新聞雑誌の公刊も許されず、また一般住民は集会を禁ぜられ、もし回教民にして人類の享受すべき正当なる権利を主張し、または国体組織を計画して相互申し合わせ等を行い、これが省政府の探知するところとなる場合には、死刑または長期の懲役に処せらるるなり。

 これを読むと、現在の中国共産党支配下のウイグル人の境遇は、軍閥時代の苛斂誅求とほとんど何も変わっていないことに驚かされる。

⇒「1940・・・年、重慶国民政府の蒋介石は・・・アフガニスタン<の>・・・アミーンと連絡を取り、国民党政府の首都である重慶へと招いた。1942年、アミーンは英領インド政府に日本のスパイであるとして逮捕され、国民政府の交渉を経て釈放され、新疆へ戻った。この後アミーンは中国国民党に入党し、・・・1945年5月、中国国民党第六回全国代表大会が開かれ、アミーンは中央監察委員、中央組織部専員の候補になる。1946年、新疆省政府委員兼建設庁長に就任する。1947年国民党中央監察委員に就任する。1948年12月、・・・新疆省政府副主席に任命された。彼は、中華民国の公的な保護のもとテュルク系民族の自治を得るため、またソビエトの支援を受けた第二次東トルキスタン共和国(・・・Second East Turkestan Republic)をふくむ新疆のすべての共産党勢力を打倒するために、国民党との同盟を宣言した。・・・1949年9月、中共の人民解放軍が新疆省に進入し、ムハンマド・アミーン・ブグラは再度インドへ亡命した。その後トルコへ亡命し、・・・1950年代、アミーンは・・・墨玉県やイェンギサール県やロプ県やホータンなどで多くの反乱を策動した。1954年、ムハンマド・アミーン・ブグラ・・・は台湾に赴き、中華民国の国民党政府に新疆への主張を取り下げるよう説得を試みた。 彼らの要望は拒絶され、台湾は「新疆は<支那>の統合された一部」であるとの主張を断言した。1959年,・・・<中共によって>アミーンの<新疆>残存勢力<は>消滅させられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%96%E3%82%B0%E3%83%A9
という、アミーンのその後の軌跡を踏まえれば、彼は、ウイグル人の独立のためにはどんな勢力とも組む人間であったということであり、彼の日本の大アジア主義賞揚は、関岡の受け止め方とは違って、その時点で日本を利用するためのリップサービス以上でも以下でもなかった、と思った方がいいでしょうね。
 また、関岡は、現在の「ウイグル人の境遇は、・・・ほとんど何も変わっていない」と記しているけれど、変っていないのは「または」以下の部分だけである(典拠省略)ことに照らせば、かかる記述はいかがなものでしょうか。(太田)

(続く)