太田述正コラム#10963(2019.12.4)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その42)>(2020.2.24公開)

 中国共産党史における「三区革命」に対する評価は錯綜している。
 国民党蒋介石政権と戦ったという観点から毛沢東時代には肯定的に評価されていたが、ウイグル人の独立運動が問題視されるようになってくると歴史的評価が変わってくる。

⇒この前後の文章にも、また、前出の「<日本経由で内モンゴル入りしていた>ウイグル人独立運動家たちは日本の敗戦後、東トルキスタンに戻っていったが、1949年に中国共産党が東トルキスタンを「和平解放」した際に全員殺害された」にも、典拠が付されていませんが、論理的には、この二か所は矛盾しています。(太田)
 
 東トルキスタン共和国政府の母体となったクルジャ解放組織が、もともと左右の寄り合い所帯だったことに焦点があてられ、そのなかでイスラーム志向が強く、反漢、反共を唱えたイリハン・トレを「革命に寄生した分裂主義者」と断罪する一方、ソ連帰りのアバソフらのグループを「進歩的分子」として区別するようになった。

⇒仮に、中共当局に関し、というか、毛沢東に関し、本件での心変わりがあったとすれば、それは、彼(ら)が、ソ連から核ミサイル技術を供与してもらうために、スターリンに対して、心ならずも胡麻を擂る方針を採った(コラム#省略)ことの一環であったと見ていいでしょう。(太田)

 <同組織が、>当初からソ連の影響下にあったことは、中国共産党側の公式文献・・・も認めている。・・・
 <話を戻すが、>突然、<その>ソ連が方針転換してしまう。
 ・・・1945年2月のヤルタ会談で、スターリンは対日参戦する条件の一つとして、外モンゴルの主権を放棄するよう蒋介石を説得することをルーズベルトに要求した。
 ルーズベルトから圧力を受けた蒋介石は、外モンゴルの独立を承認する見返りに、東トルキスタンから手を引くことをスターリンに要求した。
 既に外モンゴルを衛星国化していたスターリンは、その既成事実を蒋介石に呑ませることに取り敢えず満足した。・・・
 スターリンにとってウイグル人のの独立への願いなどはどうでもよく、単なる取引材料の一つに過ぎなかったわけだ。

⇒このように、ソ連と中国国民党は、米国を巻き込みつつあい争ったわけですが、その後、中国国民党政府が国共内戦に敗れて事実上消滅するとともに、ソ連崩壊に伴い、ロシアもまた、アバソフが住んでいたことがあって、スターリンの故郷でもあったところの、その領土であったグルジアも、そして、西トルキスタン一帯も、更には、保護国のモンゴルまでも、失ってしまう(注97)のですから、どちらも、愚かというか、哀れというか。
 杉山構想は、何とまあ遠くまで射程に捉えていた恐ろしい構想であったことか、と、改めて感慨がこみ上げてきます。
 
 (注97)「<ソ連の保護国であった>モンゴル<は、>・・・中ソ対立でモンゴルがソ連を支持したことによ<って>・・・中華人民共和国と・・・政治的対立があった。また、中華民国は1946年1月にいったんモンゴルの独立を認めたが、後ろ盾のソ連が国共内戦で中国共産党を支援したことを理由に承認を取り消した。そのため、戦後台湾に逃れた中華民国は以降も長くモンゴルを自国領と主張することになった・・・。1955年、モンゴルなど東側5か国と、日本など西側13か国の国際連合加盟が国連安保理で一括協議された。しかし、中華民国がモンゴルの加盟に、領有権を主張して拒否権を発動したため、ソ連は報復に日本の国連加盟に拒否権を発動した。モンゴルの国連加盟は、1961年まで持ち越しとなった(日本の国連加盟は1956年)。・・・[1985年以降、ジャムビィン・バトムンフ書記長<・・1974年に首相に、1984年にモンゴル人民革命党書記長に、就任していた・・>が進めていた体制内改革により、その土壌は作られていた<のだが、>]1989年末、ソ連・東欧情勢に触発されて」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E5%9B%BD
「都市在住の知識人に主導された民主化革命<が起き、>・・・1990年3月15日、モンゴル人民革命党中央委員会・・・総会<は>、・・・ツェデンバル元書記長の下で政治迫害された人々に対する名誉回復<し>、ソ連滞在中だった元書記長の党籍剥奪を決定。バトムンフ書記長と政治局員全員の辞任を承認すると共に、外国経済関係大臣だった穏健派のポンサルマーギーン・オチルバトを新書記長に選出<するとともに、>民主各派は複数政党制の採用と、政府に対するモンゴル人民革命党の党の指導性を否定することを要求<し、>モンゴル人民革命党は、これらの要求を受け入れ、複数政党制と大統領制を採用。貿易の自由化と、ソ連軍撤兵を実現した。1992年の新憲法制定によって、制度面での民主化は完成した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%8C%96%E9%81%8B%E5%8B%95 ([]内)

 なお、モンゴルの民主化革命については、機会があったら、もう少し掘り下げた、整理、分析をしたい、と思っています。(太田)

(続く)