太田述正コラム#10999(2019.12.22)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その5)>(2020.3.13公開)

—————————————————————————————–
[疑り深い人のために]

 諭吉(1835~1901年)の儒教批判を真に受けてはいけない理由を改めて記しておく。
 彼の生い立ちは以下の通りだ。↓

 「父・百助は、鴻池や加島屋などの大坂の商人を相手に藩の借財を扱う職にあり、藩儒・野本雪巌や帆足万里に学び、菅茶山・伊藤東涯などの儒教に通じた学者でもあった。百助の後輩には江州水口藩・藩儒の中村栗園がおり、深い親交があった栗園は百助の死後も諭吉の面倒を見ていた。・・・<父百助は、>、身分格差の激しい中津藩では名をなすこともできずにこの世を去った。そのため息子である諭吉はのちに「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」(『福翁自伝』)とすら述べており、自身も封建制度には疑問を感じていた。兄・三之助は父に似た純粋な漢学者で、「死に至るまで孝悌忠信」の一言であったという。・・・
 1836年・・・、父の死去により中村栗園に見送られながら大坂から帰藩し、中津(現:大分県中津市)で過ごす。・・・
 5歳ごろから藩士・服部五郎兵衛に漢学と一刀流の手解きを受け始める。・・・18歳になると、兄・三之助も師事した野本真城、白石照山の塾・晩香堂へ通い始める。『論語』『孟子』『詩経』『書経』はもちろん、『史記』『左伝』『老子』『荘子』に及び、特に『左伝』は得意で15巻を11度も読み返して面白いところは暗記したという。このころには先輩を凌いで「漢学者の前座ぐらい(自伝)」は勤まるようになっていた。・・・
 福澤の学問的・思想的源流に当たるのは亀井南冥や荻生徂徠であり、諭吉の師・白石照山は陽明学や朱子学も修めていたが亀井学の思想に重きを置いていた。<このように>、諭吉の学問の基本には儒学が根ざしており、その学統は白石照山・野本百厳・帆足万里を経て、祖父・兵左衛門も門を叩いた三浦梅園にまでさかのぼることができる。のちに蘭学の道を経て思想家となる過程にも、この学統が原点にある。・・・
 1854年・・・、19歳で長崎へ遊学して蘭学を学ぶ。・・・
 <その後、藩命に逆らって、大阪に向かい、>大坂の中津藩蔵屋敷に居候しながら、・・・蘭学者・緒方洪庵の適塾・・・で学<んだ>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89

 以上を踏まえれば、諭吉は、1歳の時に死別した父百助に、儒学の才がなく、また、その他の才もなかったからこそ、うだつが上がらない生涯を送った、ということが、自分は成功者たる儒者達に囲まれて成長したこともあり、分かっていたはずなのに、彼は、あろうことか、全く無関係である「門閥制度」のせいにしている、ということを、納得できるはずだ。(コラム#10560参照。)
 諭吉は、自身が儒学で頭角を現したからこそ、藩から二度にわたって蘭学を学ぶための国内留学に派遣される、という栄誉に浴したに違いないところ、彼が、他人の儒学の才を見極めることができるはずの人間であると同時に、「門閥制度」が必ずしも「敵」ではないことも知っていたはずの人間として、父親がうだつが上がらなかったとすれば、本人に儒学の才がなく、かつまた、「藩の借財を扱う職」においてもさしたる実績を挙げ得なかったからだ、と考えなかった方がおかしい、ということだ。
 とすれば、諭吉は、肉親の情、という私事(わたくしごと)でもって、筆を曲げることがある人物だ、ということになる。
 その上でなのだが、にもかかわらず、そんな諭吉が、父がのめり込んでいた儒教、かつまた、自分の「立身出世」をもたらしてくれた儒教、をこきおろす、というのは不自然極まりない、と思わなければならないのだ。
 (何の直接的な記憶もない父をそこまで敬慕する諭吉は、むしろ、儒教、しかも「孝」を何よりも尊ぶところの支那流正統儒教、に染まり切っていたのではないか、と揶揄したくなるが・・。)
 それが、諭吉にとって、敬慕する亡き父百助を冒涜するに等しい(ということが諭吉には当然分かっていないはずがない)ことに思いを致せば、なおさらだろう。
 となれば、諭吉はまたもや筆を曲げた、ということになるわけだが、その理由は今度は何か、と考えれば、慶應義塾以外には考えにくい。
 すなわち、彼自身が作り、その経営に当たっていたところの、慶應義塾という事業体の利益、という私事のために、彼は、またもや、筆を曲げたのだ、と。
 (理由として、私の知る限りでは、それ以外のものが今のところ考えられない、というのがより正しい書き方かもしれないが・・。)
 そもそも、諭吉自身が、本心から儒教、とりわけ日本の儒教、を否定するはずがない。
 「徳川幕府は朱子学について孟子的理解に立ち、湯武放伐、易姓革命論を認めており、そ<れは、>天皇を将軍が放伐してよいこと<を意味>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E7%8E%8B%E8%AB%96
していた、という環境の下で、「陽明学に影響を受け<た>・・・吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛<らが、>幕末の維新運動<に決定的な役割を果たした>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%BD%E6%98%8E%E5%AD%A6
ことなど、まさに、維新運動の渦中を潜り抜け、その恩恵を十二分に享受して生きていた諭吉としては、熟知し抜いていた事柄であるはずだからだ。
—————————————————————————————–
 
(続く)