太田述正コラム#11017(2019.12.31)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その11)>(2020.3.22公開)

 また、「1912年、長沙の湖南全省公立高等中学校(現在の長沙市第一中学)に入学<した>際に明治維新に関心を持ってい<たところ>、父に幕末の僧月性の詩「将東遊題壁」を贈り、意気込みを示した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1
という毛沢東は、月性が、「尊王論、海防論<を>具現化し・・・た著書「仏法護国論」<を>一万ヶ所の寺に配<り、>・・・「内海杞憂」では、その実践的な面を訴え、「清狂吟稿」<で>は、千編以上書いた詩をまとめ・・・「今世名家文鈔」<で>は、篠崎小竹<(注10)>をはじめ、当時の関西における最も優れた儒者4人の文章を・・・全8巻・・・<に>編纂し・・・<てこれが>当時のベストセラーとな<ったこと、>「護国論」と「清狂吟稿」は、松陰の遺書である「留魂録」において<も>書き留められて<いたこと>」、
https://kanko.oobatake.net/gessho
を知っていたとしても私は驚かない。

 (注10)しのざきしょうちく(1781~1851年)。「大坂に生まれ・・・9歳で篠崎三島[(しのざきさんとう)]の[大坂の]私塾梅花社に入門し、古文辞学<(徂徠学)>を受ける。三島に後継ぎがなく13歳の時に望まれて養子となる。しかし、・・・養家を抜け出し、江戸に遊学。尾藤二洲に学び古賀精里の門をくぐって朱子学者に転向する。その後、養父・三島に詫びて和解がなり、梅花社を継いでいる。三島にも勝って塾は栄え、多くの門弟を育てた。詩・書に優れ、書籍を刊行しようとする者のほとんどが小竹に序・題・跋などの文章を求めるほど人気があった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%A0%E5%B4%8E%E5%B0%8F%E7%AB%B9
https://www.tripadvisor.jp/LocationPhotoDirectLink-g298566-d10516416-i218133317-Baikasha-Osaka_Osaka_Prefecture_Kinki.html ([]内)

 そうだとすれば、月性が儒教も深く学んだこと、『今世名家文鈔』がベストセラーになるくらい当時の日本で儒教が盛んであったこと、も、毛沢東は心に刻んだとしても不思議ではない。
 毛沢東が、更にまた、この月性と一緒に入水自殺を図り、自分は助かったところの、<維新の元勲の一人、>「西郷隆盛<が、>・・・陽明学<と>禅を学<び、>・・・<朱子学の>『近思録』を輪読する会を・・・つくった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E9%9A%86%E7%9B%9B
ような、儒教大好き人間であったことについても、知らないはずはなかった、とも私は思っている。
 ところで、「加々美光行<(注11)は、>・・・その著作「裸の共和国」の中で、毛沢東にもっとも大きな思想的影響を与えたのは 王船山<(王夫之)>であると書いている。・・・

 (注11)1944年~。東大文(社会)卒、アジ研入所、愛知大法教授、同大中国学部諸大学部長。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E3%80%85%E7%BE%8E%E5%85%89%E8%A1%8C

 <これは、>辛亥革命後の1914年、この王船山に傾倒していた湖南開明派の劉人煕が船山学の普及のため、湖南省長沙の地に「船山学社」を創設し<、>1919年に劉人煕が死去したあと、閉鎖状態になっていたものを、1921年、湖南第一師範学校を卒業した毛沢東がマルクス主義の教育と宣伝のために「湖南自修大学」として再開した<ところ、>もっぱら自学自習に重点が置かれており、最盛期には200人ほどの学生が学んでいたという<が、>1923年、危険思想を教えているという理由で、軍閥政府によって強制的に閉鎖された<ことを踏まえての指摘だ。>・・・
 「<その加々美いわく、>陽明学にせよ、船山学にせよ、天人合一思想といわれる<ところの、>天と人というものは一体のもので、人は本心にもとずく行動をおこすとき、本当に自分の心というものを探り当てたときに現れてくるもの、それは宇宙の摂理(天命)に通じていると<する>・・・主意主義の・・・思想で<ある、と。>」
http://www.shakaidotai.com/CCP146.html 
 「<こういったことから、加々美だけではなく、一般に、>毛沢東<は、王夫之に>感銘を受けたと<されているところ、本当にそうだろうか。>・・・
 王夫之<(おうふうし。=王船山。1619~92年)は、>・・・郷試に・・・及第する・・・が、翌年の会試は途中の農民反乱のために北京に辿りつくことができず、そのまま・・・1644年・・・の李自成による北京陥落及び呉三桂が李自成に対抗するため清軍を迎え入れたことによる明の滅亡を迎え<、>その後、清軍が南進するや、・・・1648年・・・、反清挙兵を計画するが失敗して敗走、南明の永暦帝の下で明朝再興活動に身を投じて行人となった・・・が、権力者となった張献忠の残将に睨まれて処刑されかけて辛うじて衡陽に逃れ、さらに清の追及を受けて各地を転々、晩年になってようやく衡陽近郊の石船山内に腰を据えて「明朝の遺民」として生涯を送った<、という人物だ>。
 <この王の思想は次の通りだ。>
 貧困と逃亡の日々の間にも学問著述に努め、四書五経を始め老荘思想や仏教など・・・も幅広<く学び、>・・・明王朝が朝廷党争・将領離叛に明け暮れ、ついには民衆反乱・外夷(清)侵略によって滅んだことから、強い華夷思想と身分秩序の確立の必要性を表し、陽明学、特に李贄<(李卓吾)(注12)>の思想を激しく批判した。

 (注12)りたくご(1527~1602年)。「 26歳の時に郷試に合格したが進士とはならず地方官を歴任した。・・・
 その思想は陽明学左派(泰州学派)に属<し、>・・・の真髄は童心説にある。「童」が童子、赤ん坊と言う意味であり、人間が生まれたままの自然状態である。「童心」とは偽りのない純真無垢な心、真心を言う。これは陽明学の「良知」を発展させた先に李卓吾が到達したものである。李卓吾によれば、誰もが持つこの「童心」は人間が成長して社会生活を営み、文明化されるにつれて、道理や見聞、知識を得るなど外からもたらされるものによって曇らされ、失われるという。
 この思想が危険視されるのは、当時正統イデオロギーとなっていた朱子学における聖人に至る道を否定している点にある。朱子学では心を性と情に分かち性こそ理とする「性即理」をテーゼとするが、性を発露するために読書などによって研鑽を積まねばならないとする。しかるに李卓吾はそのように多くの書物を読んでど道理や見聞を得ると言う研鑽そのものが「童心」を失わせるとして排し、否定的に捉えるのである。そして「童心」を失った者が成す文や行動がいかに巧みであろうと仮(にせ)であって、真なるものでは無いとする。
 李卓吾が仮(にせ)、端的に言えば偽善者と非難する具体的な対象は士大夫たちである。・・・
 士大夫的価値観への嫌悪・反発が明確に吐露されている例として、それまで儒者によって貶められてきた歴史上の人物や文学の顕彰が挙げられる。たとえば秦の始皇帝や馮道といったそれまで高く評価されてこなかった人々を再評価し、また『西廂記』・『西遊記』・『水滸伝』を『史記』や『離騒』とならぶ古今の至文と評価している。それらをはじめ、十数種類にのぼる批評の文章入りの本を書き、通俗文学の地位を大いに高めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%8D%93%E5%90%BE

 <そして、>その一方で尚古思想を厳しく切り捨てて、中華民族を復興して新しい政治を確立する必要を唱えた。
 そのために強力過ぎる皇帝権力を抑えて郡県制を軸とした分権制度を確立し、豪農の土地兼併や商人の営利活動を規制して、中小の自営農民を保護する体制確立を求めた。その思想は清末の反清民族活動にも強い影響を与えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%A4%AB%E4%B9%8B
 以上を踏まえ、私は、加々美とは違って、毛沢東は、(そのどちらもが儒者であった点は同じであるところの、)李卓吾と王夫之のうち、王ではなく李の方から、はるかに大きな思想的影響を受けたと見るに至っている。

(続く)