太田述正コラム#11192(2020.3.28)
<皆さんとディスカッション(続x4391)/G・B・サンソムの日本史観と戦後日本4–弥生性をめぐって(日本篇)(続き)>

<太田>(ツイッターより)

 ジョンソン英首相がコロナ陽性(熱、咳あり)で自宅で自己隔離態勢へ。
https://www.bbc.com/news/live/world-52058788
 既に陽性が判明していた、英保健相(上掲)からうつったか。
 チャールズ皇太子といい、さすがジョン・ブル、純粋ゲルマン人として、指揮官が先頭に立って敵に突撃しているからこそ、と褒め殺しをするボク。

<V.moNZvs>(「たった一人の反乱(避難所)」より)

3/27 23:00 各国のコロナ情勢 (1位~15位)
米国 85,762(+327) 死者1,306(+11)
中国 81,340(+55) 死者3,292(+5)
イタリア 80,589 死者8,215
スペイン 64,059(+6,273)死者4,858(+493)
ドイツ 47,373(+3,435)死者285(+18)
イラン 32,332(+2,926)死者2,378(+144)
フランス 29,155 死者1,696
スイス 12,311(+500)死者207(+15)
イギリス 11,658 死者578
韓国 9,332(+91) 死者139(+8)
オランダ 8,603(+1,172)死者546(+112)
オーストリア 7,393(+484) 死者58(+9)
ベルギー 7,284(+1,049)死者289(+69)
ポルトガル 4,268(+724) 死者76(+16)
カナダ 4,043 死者39

(16位~27位省略)

28位 日本 1,387 死者47
※イタリアの情報は朝方更新(上掲は古い)
※最新の情報などは下記URL
https://www.worldometers.info/coronavirus/

<太田>

 その他の記事の配信は、明日回しにします。

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<STK>

 太田さん、・・・「皆さんとディスカッション(続x4390)」によれば、paypalは私のアカウントが原因と言っている訳ですが、<随分昔の話になりますが、>私はメインで2つのメールアドレスを使っていて、前のメールアドレスでのpaypalのアカウントがなぜか不調で、詳細は忘れましたが、なぜか自動で引落が出来なくなり、忙かったこともあり、自動退会で有料コラムが配信されなくなり、幹事も降りた形のなってしまったようです。
 <その後、暫く経ってから、>新しくgmailで新規にpaypalアカウント作成し有料コラムの購読を再開し、2回くらいは自動で更新されたようですが、今回は出来なかったようです。
 前のメールアドレス<の時>と同様な事が起きたのかなと思われます。
 私としてはpaypalが何かおかしいと思うのですが、今回の原因を究明するほどまでの意義は見いだせないです。
 よって自動更新が出来なければ今回同様お知らせくだされば幸いです。
 お手数にはなりますが。
 また「皆さんとディスカッション(続x4390)」に私が「クレーム」を入れたかのように書いてありますが、私は「問い合わせ」のつもりです。
 細かいところですが、指摘しておきます。

<太田>

 そりゃ、あくまでもPayPalに対して使った言葉なので、ご理解のほどを。

<太田>

 昨日、Yahooカードが届いたので、PayPayに同カードから自動チャージできるようにした。
 で、さっそく、久しぶりの、PayPayによるスーパーでの代金支払いを行った。
 (楽天Pay/楽天カード、の場合は、使うと、両方からメールで通知があるが、PayPay/Yahooカード、の場合はどちらからも通知がありませんが、会社によってポリシーが随分違うものだ。)
 また、AUPayに同カードを紐付けるのはできたが、自動チャージはできないことが分かった。
 AUからは2枚も「カード」が送られてきていて、片方のにはおよそクレカ機能はなさそうだし、もう片方のにはマスターカードのロゴが入っているが、プリペイドカード、とも注記されているところ、(どこのでも構わないので)クレカを使って自動チャージできるようにするにはどうしたらいいのか、週明けにでもAUのサポートに聞いてみるつもりだ。
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 一人題名のない音楽会です。
 久しぶりに近藤由貴のピアノ演奏を取り上げます。
 今回はフランス・クラシック小特集です。

0:00〜サティ:グノシエンヌ第1番/Satie: Gnossienne No.1
3:30〜サティ:ピカデリー/Satie: Le Piccadilly
5:10〜サティ:ジムノペディ第1番/Satie: Gymnopédie No.1
8:44〜サティ:ジュ・トゥ・ヴ (あなたが欲しい)/Satie: Je Te Veux (コラム#10322で紹介したバージョンなら雑音なし)
https://www.youtube.com/watch?v=f58WMPydiPo

0:00〜ラヴェル:組曲「マ・メール・ロワ」より パゴダの女王レドロネット (ピアノソロ版)/Ravel: Laideronnette, Impératrice des Pagodes from Ma Mère l’Oye (Mother Goose Suite) Piano Solo Ver.
3:11〜ラヴェル:ボレロ (ピアノソロ版)/Ravel: Bolero (Piano Solo Ver.)
8:41〜ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ/Ravel: Pavane pour une infante défunte (Pavane for a Dead Princess)
15:17〜ラヴェル:「夜のガスパール」よりスカルボ/Ravel: Scarbo from Gaspard de la nuit
https://www.youtube.com/watch?v=3zczmV7PTKU
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       –G・B・サンソムの日本史観と戦後日本4–弥生性をめぐって(日本篇)–

1 始めに
 (1)難問
 (2)戦後における日本の弥生性研究の貧困
  原因第一:戦後日本の軍事「放棄」
  原因第二:戦後日本における天皇軽視
  原因第三:戦後韓国の歴史学の不毛
 (3)結論

2 前史
 (1)ディスクレーマー
 (2)弥生時代
 (3)小国分立時代–拡大弥生時代濫觴期
 (4)ヤマト王権フェーズI:国家連合時代–100年前後~266年より少し前–拡大弥生時代初期
 (5)ヤマト王権フェーズII:連合政権国家時代–266年より少し前から?
[連合政権国家時代の中期]
[日本の刀剣]
[鎧]
[倭・高句麗戦争を巡って]
[応神天皇]
 (6)ヤマト王権フェーズIII:統一国家時代
  ア 両翼軍制時代
[雄略天皇]
  イ 片翼軍制時代
[鎮護国家]
  ウ 無翼軍制(軍制崩壊)時代

3 日本における弥生性の確立へ
 (1)厩戸皇子–聖徳太子コンセンサス立ち上げ
[蝦夷]
 (2)天智天皇–聖徳太子コンセンサス実現へ着手
[白村江の戦い]
[対蝦夷戦]
 (3)天武朝時代–聖徳太子コンセンサス抑圧
  ア 天武天皇による唐流軍制策定着手
  イ 持統天皇による唐流軍制策定完了
[藤原不比等]
[橘諸兄]
[吉備真備]
[藤原広嗣]
[藤原仲麻呂]
——————————- ここまでが、前回分。ここからが、今回分。

 (4)復活天智朝時代–聖徳太子コンセンサス実現へ再着手
  ア 光仁天皇による聖徳太子コンセンサス実現への再着手態勢構築
  イ 桓武天皇による聖徳太子コンセンサス実現への再着手開始
[健児制]
[「徳政論争」なるもののネタ元]
[封建制]
[光仁・桓武期における東と西の治安]
[武士]
 (5)桓武天皇構想の形成と実施
  ア 始めに
  イ 桓武/嵯峨プロジェクト
[平氏]
[非鎮護国家教仏教継受政策]
  ウ 清和/陽成/宇多プロジェクト
[源平藤橘]
[武家の神社]

 (4)復活天智朝時代–聖徳太子コンセンサス実現へ再着手

  ア 光仁天皇による聖徳太子コンセンサス実現への再着手態勢構築

 光仁天皇(709~782年。天皇:770~781年)は、「<天智天皇の孫であり、>764年・・・には藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)鎮圧に功績を挙げ<た、とされている。>・・・
 [「<功績と言っても、仲麻呂によって、>白壁王<の時に>参議を経ずに中納言に抜擢<されていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BB%B2%E9%BA%BB%E5%91%82
にもかかわらず、恵美押勝の>乱の際に仲麻呂側に加担しなかった、というだけのことのようだが・・。>]
 <天皇>即位後、<天武天皇の玄孫、>(井上内親王を皇后に、<彼女との間に生まれたところの、従って天武天皇系の>他戸親王を<井上内親王の姉であるところの前天皇、称徳天皇、の「遺言」に基づいて>皇太子に立てるが、・・・772年・・・3月2日、皇后の井上内親王が呪詛による大逆を図ったという密告のために<まず>皇后を廃され、<次いで>5月27日、皇太子の他戸親王も皇太子を廃された。
 翌・・・773年・・・高野新笠所生の山部親王が皇太子に立てられた(のちの桓武天皇)。・・・
 ・・・775年・・・、井上内親王・他戸親王母子が幽閉先で急死した。・・・同じ日に二人が亡くなるという不自然な死には暗殺説も根強い。これによって天武天皇の皇統は完全に絶えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E4%BB%81%E5%A4%A9%E7%9A%87 

⇒その背景として光仁天皇の、天武王朝に対する怨念、怒りがあったことはもとよりですが、その最大の狙いは、聖徳太子コンセンサスの実現にあたっては、相対的に弥生性に富む、秦氏等の渡来勢力の全面的な協力を得ることが不可欠であることから、渡来系の母親を持つ山部王(後出)を、当時としては既に高齢であったところの自分、の後継に据える必要があったからでしょうね。(太田)

 「光仁天皇<は、>・・・780<年>2月、対新羅朝貢強要を一方的に放棄し、つづいて3月、大規模兵士削減を行<った。>・・・

⇒要は、光仁天皇は、役に立たずむしろ有害であったところの、天武朝の軍制の廃棄に、こういったことを口実にして、すなわち、巨大な軍事力を維持する必要はなくなったとして、着手した、ということでしょう。(太田)

 ・・・<しかし、>その<一方で>、政府は<774年に>20数年間に及ぶ大規模な蝦夷征服戦争<(三十八年戦争)(前出)>をおこし、<811>年<までに>ほぼ征服を達成した。・・・

⇒その証拠に、光仁天皇は、祖父の天智天皇が開始(久方ぶりに再開)した対蝦夷戦争を、一見、上記と矛盾するようですが、改めて再開し、しかも完遂させたわけです。(太田)

 律令国家は、降伏した蝦夷に・・・「姓」を与えて「俘囚」とし、現地で支配するとともに、「内国」に強制移住させる政策を採った。」(下向井龍彦(注77)「武士形成における俘囚の役割」より)
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=2&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjcqcTewJTnAhVQw4sBHVicClwQFjABegQIBRAB&url=https%3A%2F%2Fwww.semanticscholar.org%2Fpaper%2F%25E6%25AD%25A6%25E5%25A3%25AB%25E5%25BD%25A2%25E6%2588%2590%25E3%2581%25AB%25E3%2581%258A%25E3%2581%2591%25E3%2582%258B%25E4%25BF%2598%25E5%259B%259A%25E3%2581%25AE%25E5%25BD%25B9%25E5%2589%25B2-%253A-%25E8%2595%25A8%25E6%2589%258B%25E5%2588%2580%25E3%2581%258B%25E3%2582%2589%25E6%2597%25A5%25E6%259C%25AC%25E5%2588%2580%25E3%2581%25B8%25E3%2581%25AE%25E7%2599%25BA%25E5%25B1%2595%252F%25E5%259B%25BD%25E5%25AE%25B6%25E3%2581%25A8%25E8%25BB%258D%25E5%2588%25B6%25E3%2581%25AE%25E8%25BB%25A2%25E6%258F%259B%25E3%2581%25AB%25E9%2596%25A2%25E9%2580%25A3%25E3%2581%2595%25E3%2581%259B%25E3%2581%25A6-%25E4%25B8%258B%25E5%2590%2591%25E4%25BA%2595%2Fe03171c9bf8d6febed0c0cadf5a64340a449364f&usg=AOvVaw3IjbH0ibwoS995hvnqWUiT

 (注77)1952年~。広島大卒、同大修士。同大助手、助教授、教授。
https://home.hiroshima-u.ac.jp/shimoken/shimomukai.html
https://researchmap.jp/ss3119ts/

  イ 桓武天皇による聖徳太子コンセンサス実現への再着手開始

 桓武天皇(737~806年。天皇:781~806年)は、「白壁王(後の光仁天皇)の長男(第一王子)として・・・産まれた。生母は百済系渡来人氏族の和氏の出身である高野新笠。当初は皇族としてではなく官僚としての出世が望まれて、大学頭や侍従に任じられた(光仁天皇即位以前は山部王と称され<てい>た)。
 父王の即位後は親王宣下と共に四品が授けられ、後に中務卿に任じられたものの、生母の出自が低かったため立太子は予想されていなかった。しかし、藤原氏などを巻き込んだ政争により、異母弟の皇太子・他戸親王の母である皇后・井上内親王が・・・772年4月・・・に、他戸親王が・・・7月・・・に相次いで突如廃されたために、翌・・・773年1月・・・に皇太子とされた。その影には式家の藤原百川による擁立があったとされる。

⇒復活天智朝の光仁天皇と藤原氏主流とはほぼ一心同体なのであって、光仁天皇は藤原百川らと示し合わせて、この上からのクーデタを断行した、ということでしょう。(太田)

 ・・・781年4月30日・・・には父から譲位されて天皇に即き、翌日の・・・5月1日・・・には早くも同母弟の早良親王<(注78)>を皇太子と定め、11日後の・・・5月12日・・・に即位の詔を宣した。・・・783年5月23日・・・に百川の兄・藤原良継の娘・藤原乙牟漏を皇后とし、彼女との間に安殿親王(後の平城天皇)と神野親王(後の嵯峨天皇)を儲けた。

 (注78)さわらしんのう(750?~785年)。「出家して東大寺羂索院や大安寺東院に住み、親王禅師と呼ばれていた。天応元年(781年)、兄・桓武天皇の即位と同時に光仁天皇の勧めによって還俗し、立太子された。その当時、桓武天皇の第1皇子である安殿親王(後の平城天皇)が生まれていたが、桓武天皇が崩御した場合に安殿親王が幼帝として即位する事態を回避するため、早良が立てられたとみられる。また、皇太弟にもかかわらず早良親王が妃を迎えたり子をなしたとする記録が存在せず、桓武天皇の要求か早良親王の意思かは不明であるものの、不婚で子孫が存在しなかった(早良の没後に安殿が皇位を継げる)ことも立太子された要因と考えられている。
 しかし・・・785年・・・、造長岡宮使・藤原種継暗殺事件に連座して廃され、乙訓寺に幽閉された。無実を訴えるため絶食し、淡路国に配流される途中に河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市の高瀬神社付近)で憤死した。
 種継暗殺に早良親王が実際に関与していたかどうかは不明である。しかし、東大寺の開山である良弁が死の間際に、当時僧侶として東大寺にいた親王禅師(早良親王)に後事を託したとされること(『東大寺華厳別供縁起』)、また東大寺が親王の還俗後も寺の大事に関しては必ず親王に相談してから行っていたこと(実忠『東大寺権別当実忠二十九ヶ条』)などが伝えられている。種継が中心として行っていた長岡京造営の目的の一つには、東大寺や大安寺などの南都寺院の影響力排除があった<、という背景がある。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒早良親王は鎮護国家教仏教勢力(即、旧天武朝勢力)に取り込まれている、という判断の下、桓武天皇が実弟を誅殺した、ということでしょう。(太田)

 また、百川の娘で良継の外孫でもあった夫人・藤原旅子との間には大伴親王(後の淳和天皇)がいる。
 ・・・785年・・・には、早良親王を藤原種継<(注79)>暗殺の廉により廃太子の上で流罪に処し、親王が抗議のための絶食で配流中に薨去するという事件が起こった。

 (注79)737~785年。「藤原式家、参議・藤原宇合の孫。・・・784年・・・桓武天皇は平城京からの遷都を望むと、・・・種継は、山背国乙訓郡長岡の地への遷都を提唱した。・・・同年長岡京の造宮使に任命される。事実上の遷都の責任者であった。遷都先である長岡が母の実家秦氏の根拠地山背国葛野郡に近いことから、造宮使に抜擢された理由の一つには秦氏の協力を得たいという思惑があった事も考えられる。実際、秦足長や大秦宅守など秦氏一族の者は造宮に功があったとして叙爵されている。
 遷都後間もない・・・785年・・・種継は造宮監督中に矢で射られ、翌日薨去・・・暗殺犯として・・・十数名が捕縛されて斬首となった。事件直前・・・に死去した大伴家持は首謀者として官籍から除名された。事件に連座して流罪となった者も・・・複数にのぼった。
 その後、事件は桓武天皇の皇太弟であった早良親王の廃嫡、配流と憤死にまで発展する。もともと種継と早良親王は不仲であったとされているが、実際の早良親王の事件関与有無は定かでない。しかし家持は生前春宮大夫であり、・・・他の逮捕者の中にも皇太子の家政機関である春宮坊の官人が複数いたことは事実である。その後長岡京から平安京へ短期間のうちに遷都することになったのは、後に早良親王が怨霊として恐れられるようになった事も含めて、この一連の事件が原因のひとつになったといわれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A8%AE%E7%B6%99

 これを受け、・・・785年12月31日・・・に安殿親王を皇太子とした。また、同年・・・交野柏原(現在の大阪府枚方市)において、日本で初めて、天を祀る郊祀<(注80)>を行った。

 (注80)「<支那>文化の導入を通じた律令政治の再建を意図するとともに、天皇の母方である渡来人系の和氏一族を通じて<支那>文化に親しんでいたこと、壬申の乱以来の天武天皇系皇統が断絶して天智天皇系皇統が再興されたことを「新王朝」創業に擬え、「新王朝」の都である長岡京で天に対してその事実を報告する意図があったと言われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%8A%E7%A5%80

⇒「注80」については、「律令政治の再建を意図する」は完全な誤りであり、「律令政治の廃棄を意図する」が正しく、また、「「新王朝」創業」ではなく、「天智王朝の復活」が正しい、わけです。桓武天皇は、光仁天皇の遺志に基づいて、かかる儀式を執り行ったのでしょう。(太田)

 ・・・787年・・・に、交野柏原において、2度目の郊祀を行った。・・・
 平城京における肥大化した奈良仏教各寺の影響力を厭い、天武天皇流が自壊して天智天皇流に皇統が戻ったこともあって、当時秦氏が開拓していたものの、ほとんど未開の山城国への遷都を行う。初め・・・784年・・・に長岡京を造営するが、天災や後述する近親者の不幸・祟りが起こり、その原因を天皇の徳がなく天子の資格がないことにあると民衆に判断されるのを恐れて、わずか10年後の・・・794年・・・、長岡京から艮方位(東北)に当たる場所の平安京へ改めて遷都した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%93%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87

 「<桓武天皇は、>792<年>には軍団兵士制を全廃した。・・・

⇒これ↑は、即、律令制の廃棄、を意味します。↓(太田)

 <これら>は、公地公民制=編戸制・班田制・・・を維持する必然性を失わせた。・・・
 「東北から俘囚を移配した記事は弘仁8年(817)を最後にあとを絶つ。・・・
 政府は、主として対蝦夷動員・京の護り・対新羅警戒を想定して、俘囚を特定の国に重点的に移配したことが読みとれる。・・・
 俘囚たちは、騎馬個人戦術・疾駆斬撃戦術によって群盗海賊追捕に活躍したのである。・・・
 受領<を通じての>給養<によって>・・・保障された安定した生活と狩猟特権=武芸訓練がそれを可能にした。・・・
 勇敢富豪層は、ともに戦った俘囚たちから蕨手刀<(反りのある刀)>と疾駆斬撃戦術を学び、自らのものにしていったのであろう。・・・
 群盗追捕のために給養していたはずの俘囚が、逆に群盗化するという皮肉な事態に直面した政府・受領は、・・・貞観12年(870)、・・・俘囚を陸奥国に還住させる政策に転じた。・・・」(下向井龍彦<(前出)>
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=2&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjcqcTewJTnAhVQw4sBHVicClwQFjABegQIBRAB&url=https%3A%2F%2Fwww.semanticscholar.org%2Fpaper%2F%25E6%25AD%25A6%25E5%25A3%25AB%25E5%25BD%25A2%25E6%2588%2590%25E3%2581%25AB%25E3%2581%258A%25E3%2581%2591%25E3%2582%258B%25E4%25BF%2598%25E5%259B%259A%25E3%2581%25AE%25E5%25BD%25B9%25E5%2589%25B2-%253A-%25E8%2595%25A8%25E6%2589%258B%25E5%2588%2580%25E3%2581%258B%25E3%2582%2589%25E6%2597%25A5%25E6%259C%25AC%25E5%2588%2580%25E3%2581%25B8%25E3%2581%25AE%25E7%2599%25BA%25E5%25B1%2595%252F%25E5%259B%25BD%25E5%25AE%25B6%25E3%2581%25A8%25E8%25BB%258D%25E5%2588%25B6%25E3%2581%25AE%25E8%25BB%25A2%25E6%258F%259B%25E3%2581%25AB%25E9%2596%25A2%25E9%2580%25A3%25E3%2581%2595%25E3%2581%259B%25E3%2581%25A6-%25E4%25B8%258B%25E5%2590%2591%25E4%25BA%2595%2Fe03171c9bf8d6febed0c0cadf5a64340a449364f&usg=AOvVaw3IjbH0ibwoS995hvnqWUiT 前掲

⇒律令制が軍団制のためのものであった、という認識を持っている日本の古代史学者がいることはいましたね!
 とまれ、蝦夷と戦うことにより、或いは、投降した蝦夷と共同で戦うことにより、桓武天皇は、蝦夷の戦法や武装、ひいては弥生性を朝廷の軍人達に継受させようとした、と、私は見ているわけです。(太田)

 「また、蝦夷を服属させ東北地方を平定するため、3度にわたる蝦夷征討を敢行<(コラム#コラム#11164)>、・・・789年・・・に紀古佐美を征東大使とする最初の軍は惨敗したが、<794年>の2度目の遠征で征夷大将軍・大伴弟麻呂の補佐役として活躍した坂上田村麻呂を抜擢して、・・・801年・・・の3度目の遠征で彼を征夷大将軍とする軍を送り、田村麻呂がアテルイら500人の蝦夷を京都へ護送した・・・802年・・・に蝦夷の脅威は減退、翌・・・803年・・・に田村麻呂が志波城を築いた時点でほぼ平定された。
 しかし晩年の・・・805年・・・には、平安京の造作と東北への軍事遠征がともに百姓を苦しめているとの藤原緒嗣<(注81)>(百川の長子)の建言を容れて、いずれも中断している(緒嗣と菅野真道<(注82)>とのいわゆる徳政論争)。

 (注81)おつぐ(774~843年)。「藤原式家、参議・藤原百川の長男。・・・父・百川は光仁・桓武の2代の天皇の擁立に活躍したが、緒嗣が5歳の時に参議在任中に病死。・・・802年・・・29歳の若さで父・百川と同じ参議に昇進し公卿に列した。これは生前に百川へ十分報いる事の出来なかった桓武天皇からの恩返しであると同時に、緒嗣の才能に期待をかけた人事である。・・・その3年後に・・・徳政論争<が行われた。>・・・<皮肉なことに、>808年・・・緒嗣は中納言・坂上田村麻呂の後任として、陸奥出羽按察使を兼務して東北地方への赴任を命じられる。・・・<その後、>1歳年下である藤原北家の藤原冬嗣が新設された蔵人頭に任命されて政治の中枢に立ち、・・・<やがて>官位でも緒嗣を追い抜き、北家が台頭していく事となる。・・・緒嗣の死後に式家が政治の中枢に立つ事は二度となかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%B7%92%E5%97%A3
 (注82)菅野真道(741~814年)。「百済系渡来氏族で、百済第14代の王である貴須王(近仇首王)の子孫。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E9%87%8E%E7%9C%9F%E9%81%93

⇒桓武天皇が、渡来人系をいかに重用したか、が、ここからも分かりますね。(太田)
 で、徳政論争についてですが、そんなもの、桓武天皇が名君との印象を後世に残すために緒嗣に言い含めたやらせに決まっています。(すぐ下の、囲み記事参照。)
 平安京も概成したし対蝦夷戦も終える潮時だった、ということです。
 しかし、後者は相手のあること故、終戦処理を念には念を入れて緒嗣を現地に派遣してそれにあたらせた、ということでしょう。(太田)

 また、軍隊に対する差別意識と農民救済の意識から、健児制を導入したことで百姓らの兵役の負担は解消されたが、この制度も間もなく機能しなくなり、9世紀を通じて朝廷は軍事力がない状態になった。その結果として、9世紀の日本列島は無政府状態となり、結果として、日本列島は16世紀の織豊政権樹立まで、700年近い戦乱の時代に陥った。そのような状況において、有力な農民が自衛のために武装して、武士へと成長することとなった。

⇒このくだりは、完全な間違いである、というのが私の見解です(後述)。(太田)

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[健児制]

 健児制は、唐流軍制を全廃し、一方で、武家/封建制、は創出に着手したばかりであったことから、繋ぎの軍制、として桓武天皇が本格的導入を行ったもの、と捉えることができる。↓

 「8世紀初頭に本格運用され始めた律令制においては、国家の軍事組織として全国各地に軍団を置くこととしていた。軍団は3〜4郡ごとに設置されており、正丁(成年男子)3人に1人が兵士として徴発される規定であった。・・・734年・・・に出された勅(天皇の命令)には、「健児・儲士・選士の田租と雑徭を半分免除する」とあり、もともと健児は、軍団兵士の一区分だったと考えられている。・・・738年・・・には、北陸道と西海道を除く諸道で健児を停止しており、これにより健児は一旦、ほぼ廃止することとなった。
 その後、・・・762年・・・になって、健児が一部復活した。伊勢国・近江国・美濃国・越前国の4か国において郡司の子弟と百姓の中から、20歳以上40歳以下で弓馬の訓練を受けた者を選んで健児とすることとされた。健児の置かれた4か国はいずれも畿内と東国の間に位置しており、当時最大の権力者だった恵美押勝(藤原仲麻呂)により、対東国防備の強化のため、少数精鋭を旨とする健児を復活したのだとする見解もある。
 桓武天皇は、・・・792年・・・、陸奥国・出羽国・佐渡国・西海道<・・九州とその周辺の島々
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%B5%B7%E9%81%93 ・・>諸国を除く諸国の軍団・兵士を廃止し、代わって健児の制を布いた。この時の健児は<762>年と同様、郡司の子弟と百姓のうち武芸の鍛錬を積み弓馬に秀でた者を選抜することとしており、従前からの健児制を全国に拡大したものといえる。これにより、一般の百姓らが負担していた兵役の任務はほぼ解消されることとなった。・・・
 健児の任務は諸国の兵庫、鈴蔵および国府などの守備であり、郡司の子弟を選抜して番を作り任に当たらせ、国府におかれた健児所が統率した。・・・
 なお、軍団・兵士が廃止されなかった地域、すなわち、佐渡・西海道のような国境地帯では海外諸国の潜在的な脅威が存在し、陸奥・出羽では異民族を討伐する対蝦夷戦争が継続していた。これらの地域では従前の大規模な軍制を維持する必要があったため、軍制の軽量化といえる健児制は導入されなかったのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%A5%E5%85%90

⇒その後も、復活天智朝は、累次、繋ぎの軍制的なものを繰り出していくことになる。(太田)
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 <桓武天皇は、>文化面では『続日本紀』の編纂を発案したとされる。また最澄を還学生(短期留学生)として唐で天台宗を学ばせ、日本の仏教に新たな動きをもたらしたのも桓武天皇治下で、いわゆる「南都六宗」と呼ばれた既存仏教に対しては封戸の没収など圧迫を加えている。・・・

⇒大和国から山城国への首都の移転そのものが、鎮護国家教仏教勢力から朝廷を解放するためだった、と、私は見ているところ、最澄の唐への派遣は鎮護国家教仏教ではないところの、より「まとも」な仏教継受のため(後述)であり、鎮護国家教仏教への圧迫は、読んで字の如しです。(太田)

 治世中は2度の遷都や東北への軍事遠征を主導するなど、歴代天皇の中でもまれに見る積極的な親政を実施したが、青年期に官僚としての教育を受けていたことや壮年期に達してからの即位、母親を通じて騎馬民族の戦闘技術を学んだことが、これらの大規模な政策の実行を可能にしたと思われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%93%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲

⇒私見では、「母親を通じて」は「遣唐使OB達や藤原氏主流から、そして、蝦夷を通じて」でなければいけません。(太田)
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[「徳政論争」なるもののネタ元]

〇漢の文景の治

 「前漢の文帝、景帝の統治期間(紀元前180年 – 紀元前141年)を表す。漢初は秦末期以来の戦乱によって社会経済は衰退しており、朝廷は国力の充実を図るために・・・民力の休養と、賦役の軽減を柱とした政策を実行した。
 文帝は農業を重視し、数度にわたり農桑振興を命じている。また一定の戸数に三老、孝悌、力田を選抜し、彼らに賞賜を与えることで農業生産の向上を図っていた。また・・・紀元前179年・・・と・・・紀元前169年・・・には田租の半減を実施、・・・紀元前168年・・・には田租の全免を実施する。これとあわせて周辺少数民族に対する軍事行動を抑制するための和平政策も実施した。
 文帝の生活自体も相当に質素であり、宮室内の車騎衣服も最低限のものとし、衣服も過度に長いものを禁じ、帷帳にも刺繍を行わないなどの徹底した倹約を行った。また諸国に対し献上品の抑制を命じている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%99%AF%E3%81%AE%E6%B2%BB
 この文景の治については、『史記』にも記載があり、
https://ameblo.jp/ktka1972/entry-12183627908.html
「『史記』の<日本>伝来時期は正確には判明していないようであるが・・・『続日本紀』<の>・・・768年<と>・・・769年・・・の条に・・・<『史記』からの引用や『史記』への言及が見られるところだ。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B2%E8%A8%98

〇唐の貞観の治

 「唐(618年 – 907年)の第2代皇帝太宗の治世、貞観(元年 – 23年)時代(627年 – 649年)の政治を指す。この時代、<支那>史上最も良く国内が治まった時代と言われ、後世に政治的な理想時代とされた。・・・
 この時代の政治は『貞観政要』(太宗と大臣の対話集)として文書にまとめられ、長く政治のテキストとして用いられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E8%A6%B3%E3%81%AE%E6%B2%BB
 「貞観政要<の>・・・主な内容は、太宗とそれを補佐した臣下たち(魏徴・房玄齢・杜如晦・王珪ら重臣45名)との政治問答・・・
 太宗が傑出していたのは、自身が臣下を戒め、指導する英明な君主であったばかりでなく、臣下の直言を喜んで受け入れ、常に最善の君主であらねばならないと努力したところにある。<支那>には秦以来、皇帝に忠告し、政治の得失について意見を述べる諫官(かんかん)という職務があり、唐代の諫官は毎月200枚の用紙を支給され、それを用いて諫言した。歴代の王朝に諫官が置かれたが、太宗のように諌官の忠告を真面目に聞き入れていた皇帝は極めて稀で、皇帝の怒りに触れて左遷されたり、殺される諌官も多かったという。・・・
 太宗は質素倹約を奨励し、王公以下に身分不相応な出費を許さず、以来、国民の蓄財は豊かになった。・・・
 <『貞観政要』には、>中宗の代に上呈したものと玄宗の代にそれを改編したものと2種類があ<る。>・・・
 日本にも平安時代に古写本が伝わ<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E8%A6%B3%E6%94%BF%E8%A6%81

⇒押さえるべきことは、漢文典や遣隋使/遣唐使等を通じて、拡大弥生時代末期から第一次縄文モードの時代の初期にかけての日本の指導層は、支那の歴史を含む諸事情に精通していたことが、「徳政論争」からはっきり見えて来る、という点だ。(太田)
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[封建制]

 当時の日本の指導層は、従って、支那における封建制論争↓についても精通していたに決まっている。

 「史記「秦始皇本紀」では、王綰らが封建制度の採用を提案したのに対し、李斯は周の封建制度が失敗に終わって天下争乱のきっかけになったことを指摘して郡県制度を施行するよう主張したことが記されている。始皇帝はそれに対して次のように言い、李斯の主張の通りに郡県制を採用した。
 天下ともに苦しみ戦闘は休やまず、もって侯王あり。宗廟に頼り、天下を初めて定む。また再び国を立つるに、是の兵を樹つ、しこうして其の寧息を求むるは、あに難からずや。
(現代語訳: 天下はみな苦しみ戦闘が止まない。各地に封じられた侯王あってのことだ。宗廟によって、天下を初めて平定した。また再び各地に人を封じて国を立てれば、各々が封国で兵を集めるだろう。その上で天下の安寧を求めるのが、難しくないということがあろうか。)

—始皇帝、『史記』「秦始皇本紀」
 封建・郡県の議論
 秦の始皇帝による郡県制の導入以降、儒教の影響を受けながら、封建制と郡県制の利害得失を巡って対立する思想体系が構成され、多くの文献で封建・郡県の是非が議論されるようになった。
 封建制と郡県制を巡る議論のなかで、有名なものは次のとおり。

国 人名      著書            是非      概要
魏 曹冏     『六代論』(『文選』収録)  封建は是、郡県は非 夏殷周3代の封建制度は天下を私せず天下と諸侯とが共存共栄であった一方、秦の郡県制は、天子を孤立させその滅亡を早めたと主張
晋 陸機     『五等諸侯論』(『文選』収録)封建は是、郡県は非 封建制度は天下を公にする所以である一方、郡県制度は官僚政治であり、官僚の一身の栄達のために行政がなされ、国家百年の長計が顧みられない と主張・・・
唐 李百薬<(注83)>「封建論」        封建は否、郡県は是 貞観2(629)年、唐の太宗のときに起きた封建制度採用の議論に反対するための上書
唐 顔師古<(注84)>「論封建表」        郡県・封建併用論
宋 蘇軾     「論古」中の一節    封建は否、郡県は是 柳宗元の所論を賞賛。夏殷周3代の封建制度はやむをえず起こったと主張・・・
唐 柳宗元<(注85)>「封建論」        封建は否、郡県は是 周の封建制度は諸侯が相争って天下争乱の原因となり、秦・漢・唐では郡県制度が天下の平和をきたしたと主張・・・

 (注83)りひゃくやく(565~648年)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E7%99%BE%E8%96%AC
 (注84)がんしこ(581~645年)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%94%E5%B8%AB%E5%8F%A4
 (注85)773~819年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E5%AE%97%E5%85%83
 遣唐使の「橘逸勢は、柳宗元に書を学ぶために師事したと言われている」し、当時、同じく遣唐使として唐に滞在していた阿倍仲麻呂も柳宗元と交流があった可能性が高い。
https://bimikyushin.com/chapter_1/01_ref/liu_shikou.html

 これらの議論について文献通考を編纂した馬端臨は、「その発明する(明らかにする)ところのもの公と私とに過ぎざるのみ」と整理した。
 双方の議論とも、<支那>で伝統的な「公」を善で「私」を悪とする概念を用いており、封建制反対論では諸侯が天下を分有して「私」することが悪、郡県制反対論では天子一人が天下を「私」することが悪とされた。こうした文献は<支那>と日本で広く読まれた。・・・
 日本史においては、一般に鎌倉時代から明治維新までの武家支配時代を封建時代と呼ぶ。上代の班田制の崩壊、荘園制の一般化によって、平安時代中期頃成立したと考えられており、鎌倉時代と室町時代は中世封建社会(封建社会前期)、江戸時代は近世封建社会(封建社会後期)に分類されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%81%E5%BB%BA%E5%88%B6

⇒「『文選』は上代の日本に伝わり、・・・奈良時代は、貴族の教養として必読の対象となっており、『日本書紀』や『万葉集』などに『文選』からの影響を指摘する見解もある・・・。後の平安時代から室町時代でも、「書は文集・文選」(『枕草子』)、「文は文選のあはれなる巻々」(『徒然草』)とあるように、貴紳の読むべき書物としての地位を保ち続けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E9%81%B8_(%E6%9B%B8%E7%89%A9)
ことから、曹冏、陸機、の主張は、日本でも当然よく知られていたわけであり、李百薬、顔師古、柳宗元、の主張も、遣唐使を通じて日本の朝廷に伝わっていたはずだ。
 李百薬、顔師古、の主張までは、既に、(640年に帰国した)南淵請安は研究していて、日本での封建制創出を含めた、日本への弥生性確立のための包括的プラン、を、中大兄皇子と中臣鎌足に伝授していた、と、私は見るに至っている。
 そして、桓武天皇に至って、日本における封建制創出の具体的プログラムであるところの、私が名づけた、桓武天皇構想が策定された、と、見るわけだ。(太田)
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[光仁・桓武期における東と西の治安]

一、治安問題

○西国:海賊

 ・朝鮮の海賊

 「9世紀から11世紀に掛けての日本は、記録に残るだけでも新羅や高麗などの外国の海賊による襲撃・略奪を数十回受けており、特に酷い被害を被ったのが筑前・筑後・肥前・肥後・薩摩の九州沿岸であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80%E4%BC%8A%E3%81%AE%E5%85%A5%E5%AF%87
 「811年・・・12月6日、新羅船三艘が対馬島に現れ、1艘が下県郡の佐須浦に着岸した。船に10人ほど乗っており、他の2艘は闇夜に流れたが、翌12月7日未明、灯火をともし、相連なった20余艘の船が姿を現し、賊船である事が判明した。そこで先に着岸した者のうち5人を殺害したが、残る5人は逃走し、うち4人は後日補足した。・・・
 813年・・・2月29日、肥前の五島・小近島(小値賀島)に、新羅人110人が五艘の船に乗り上陸し、島民100余人を殺害した。島民は新羅人9人を打ち殺し101人を捕虜にした。4月7日には、新羅人一清、清漢巴らが日本より新羅へ帰国した、と大宰府より報告された。この言上に対して、新羅人らを訊問し、帰国を願う者は許可し、帰化を願う者は、慣例により処置せよと指示した。事後の対策として通訳を対馬に置き、商人や漂流者、帰化・難民になりすまして毎年のように来寇する新羅人集団を尋問できるようにし、また・・・835年・・・には防人を330人に増強した。・・・838年・・・には、796年以来絶えていた弩師<(注86)>(どし)を復活させ、壱岐に配備した。・・・

 (注86)「弩(おおゆみ)を引く人。また、それに長じた人。令制で、大宰府、鎮守府その他辺境の要地に配置されてその警備に当たった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BC%A9%E5%B8%AB-2067413

 814年・・・、化来した新羅人加羅布古伊等6人を美濃国に配す。」
 ・・・820年・・・には日本国内の遠江・駿河両国に移配した新羅人在留民700人が反乱(弘仁新羅の乱)を起こしたがその殆どが処刑され、鎮圧されている。・・・
 824年・・・、新羅人辛良、金貴賀、良水白等54人を陸奥国に安置し、法により復を給し、乗田を口分田に充てる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85
 「国家公認の海賊行為の例とされたのが、9世紀の新羅がある。893年9月に新羅海賊が45艘で対馬を襲撃するも、文屋善友<(注87)>らの善戦により、賊302人殺害、多数兵器を獲得し、捕虜<にもした>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%B3%8A

 (注87)ふんやのよしとも(?~?年)。「・・・883年・・・に上総国で起きた俘囚の乱を上総大掾として諸郡の兵1000を率いて鎮圧した経験を有していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%B1%8B%E5%96%84%E5%8F%8B

 ・日本の海賊

 「9世紀半ばの瀬戸内海では、中央に調庸・雑米を送る船舶が洋上で襲撃される被害が頻発し、海賊鎮圧令(追捕官符)が度々出されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%B3%8A 前掲

⇒唐も新羅も弱体化し、それぞれの国内も乱れており(典拠省略)、西において日本に対する国レベルの脅威はなかったことが、嵯峨天皇に、治安対策を講じつつも、桓武天皇構想を着実に実行に移すことを可能にした、と見たい。(太田)

○東国:蝦夷と僦馬の党

 ・蝦夷

 前出なので基本的には省略する。
 なお、前出中の粛慎(みしはせ、あしはせ)については、「<一 >蝦夷(えみし)と同じであるとする説。粛慎と呼ぶのは<支那>の古典にも見られる由緒ある名前であるからとする。<二 >蝦夷とも「<支那>文献中の粛慎<(しゅくしん)>」とも違う民族であるとする説(ニヴフ、アレウトなど、もしくは現存しない民族)。<三 支那>文献中の粛慎」と同じツングース系民族であるとする説。・・・<四 >北海道のオホーツク海沿岸や樺太などに遺跡が見られるオホーツク文化人(3世紀〜13世紀)という説・・・<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%9B%E6%85%8E_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
があるという。
 私は、三番目の説、すなわち、「満州(<支那>東北地方及び外満州)に住んでいたとされる・・・弓矢作りの得意な・・・ツングース系狩猟民族」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%9B%E6%85%8E_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD)
とする説に与している、
 なお、濊<(わい)>は粛慎ではありえない、と、前回の講演原稿で記したところだが、粛慎が、、濊であった可能性も皆無ではない、と、ここで訂正しておきたい。↓

 「高句麗が略取した百済領では韓族が多数を占め、一部の地域で韓・濊の混住状態があった事が見て取れる。濊族は古くから朝鮮半島の広い範囲、少なくとも京畿道や江原道・咸鏡南道の東海岸一帯に広く居住していたことが考古学的に確認されており、韓族と同じく定住集落を形成していた。濊族は古くから高句麗と密接な関係を持ち、『三国史記』によれば高句麗の領導下で対百済の戦いに参加していたという。高句麗では「城」の下に複数の「村」(定住村落)が所属するという城村支配が広く行われていたが、百済による韓・濊支配は同様の支配体系を既に持っており、高句麗は旧来からの濊族支配を背景に、百済の支配体制を包括する形で新たな領土を支配したと考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97
 「<支那>の史書によると、濊の言語は夫余と同じと記される。夫余語が現在のどの系統に属すのかについては古くから論争があり、手掛かりがほとんど無く現在に至ってもよく解っていない。・・・
 扶余系騎馬民族が、南朝鮮を支配し、その後弁韓から日本列島に入り、大和朝廷の前身になったとする仮説を江上波夫が提唱したが、今日ではほとんど否定されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%A4%E4%BA%BA )

 いずれにせよ、私は、扶余系狩猟民族が出雲の国に渡来し、更に、蝦夷地域に移り、蝦夷を支配した、ないしは、蝦夷に大きな影響を与えた、と見ている次第だ。
 蝦夷そのものは、深刻な軍事的脅威であったことがない、という点はご承知の通りだ。

 ・僦馬の党

 「僦馬の党(しゅうばのとう)は、平安期に坂東で見られた自ら武装して租税等の運輸を業とする「僦馬」による集団で、馬や荷の強奪を行った群盗。
 律令制下において、地方から畿内への調庸の運搬を担ったのは郡司・富豪層であった。主に舟運に頼った西日本及び日本海沿岸に対し、馬牧に適した地が多い東国では馬による運送が発達し、これらの荷の運搬と安全を請け負う僦馬と呼ばれる集団が現れた。特に東海道足柄峠や東山道碓氷峠などの交通の難所において活躍したと見られている。
 一方で8世紀末から9世紀にかけて軍団が廃止され、常置の国家正規軍がなくなると地方の治安は悪化し、国衙の厳しい調庸取り立てに反抗した群盗の横行が常態化するようになっていた。僦馬は、これら群盗に対抗するため武装し、また自らも他の僦馬を襲い荷や馬の強奪をするようになった。この背景には当時の東国における製鉄技術の発展を指摘する見解がある。また、現在の東北地方から関東地方などに移住させられ、9世紀に度々反乱を起こした俘囚(朝廷に帰服した蝦夷)と呼ばれる人々も、移住先にて商業や輸送に従事しており、僦馬の先駆的存在であったと指摘する見解もある。彼らは徒党を組んで村々を襲い、東海道の馬を奪うと東山道で、東山道の馬を奪うと東海道で処分した。特に寛平~延喜年間には、899年(昌泰2年)に足柄峠・碓氷峠に関が設置されたことが示すとおり僦馬の横行が顕著であった。
 これらの僦馬の党の横行を鎮圧したのは、平高望、藤原利仁、藤原秀郷らの下級貴族らであった。彼等は国司・押領使として勲功を挙げ、負名として土着し治安維持にあたった。
 近年、武士の発生自体を、東国での僦馬の党、西国での海賊の横行とその鎮圧過程における在地土豪の武装集団の争いに求め、承平天慶の乱についても、これらを鎮圧した軍事貴族の内部分裂によるとする見解が出されている。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%97%E3%82%85%E3%81%86%E9%A6%AC%E3%81%AE%E5%85%9A

⇒このように、東においても、新たな治安問題が生まれていたわけだが、東においても、西におけると基本的に同様の状況であったところ、嵯峨天皇は桓武天皇構想を着実に実行に移すことが可能であった、と、私は見ているわけだ。(太田)

二、治安対策

○西国:大宰府の強化

 「天智天皇2年(663年)8月<、日本は、>唐・新羅連合軍と対峙した白村江の戦いで大敗した。
 ・・・天智天皇3年(664年)、筑紫に大きな堤に水を貯えた水城(みずき)・小水城を造った・・・。水城は、福岡平野の奥、御笠川に沿って、東西から山地が迫っている山裾の間を塞いだ施設であり、・・・構造は、高さ14メートル、基底部の幅が約37メートルの土塁を造り、延長約1キロにわたる。また、翌年の天智天皇4年(665年)大宰府の北に大野城、南に基肄城などの城堡が建設されたとされた。 ・・・
 機関としては、天智天皇6年(667年)に「筑紫都督府」があり、同10年(671年)に初めて「筑紫大宰府」が見える。・・・
 この時代は、首都たる大和国(現在の奈良県)、・・・794年・・・以降は山城国(現在の京都府)で失脚した貴族の左遷先となる事例が多かった。例としては菅原道真や藤原伊周などがいた。また、大宰府に転任した藤原広嗣が、首都から遠ざけられたことを恨んで・・・740年・・・に反乱を起こし・・・ている。
 その後、平安時代に入ると大宰府の権限が強化され、・・・806年・・・2月に大宰大弐の官位相当が正五位上から従四位下に引き上げられ(『日本後紀』)、・・・810年・・・には大宰権帥が初めて設置された。・・・941年・・・天慶の乱(藤原純友の乱)で<一時>陥落・・・する。
 ・・・1158年・・・に平清盛が大宰大弐になる・・・
 外交と防衛を主任務とすると共に、西海道9国(筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅)と三島(壱岐、対馬、多禰(現在の大隅諸島。824年に大隅に編入))については、掾(じょう)以下の人事・・・などの行政・司法を所管した。与えられた権限の大きさから、「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれる。
 軍事面としては、その管轄下に防人<(注88)>を統括する防人司、主船司を置き、西辺国境の防備を担っていた。

 (注88)「大宝律令の軍防令(701年)、それを概ね引き継いだとされる養老律令(757年)において、京の警護にあたる兵を衛士とし、辺境防備を防人とするなど、律令により規定され運用された。・・・任期は3年で諸国の軍団から派遣され、任期は延長される事がよくあり、食料・武器は自弁であった。大宰府がその指揮に当たり、壱岐・対馬および筑紫の諸国に配備された。加えて、・・・肥前国にも配置されていた可能性がある。
 当初は遠江以東の東国から徴兵され、その間も税は免除される事はないため、農民にとっては重い負担であり、兵士の士気は低かったと考えられている。・・・
 757年以降は九州からの徴用となった。奈良時代末期の792年に桓武天皇が健児の制を成立させて、軍団・兵士が廃止されても、国土防衛のため兵士の質よりも数を重視した朝廷は防人廃止を先送りした。実際に、8世紀の末から10世紀の初めにかけて、しばしば新羅の海賊が九州を襲った(新羅の入寇)。弘仁の入寇の後には、人員が増強されただけではなく一旦廃止されていた弩を復活して、貞観、寛平の入寇に対応した。
 院政期になり北面武士・追捕使・押領使・各地の地方武士団が成立すると、質を重視する院は次第に防人の規模を縮小し、10世紀には実質的に消滅した。1019年に九州を襲った刀伊を撃退したのは、大宰権帥藤原隆家が率いた九州の武士であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E4%BA%BA

 <なお、>外交面では、・・・海外使節を接待するための迎賓館である鴻臚館(こうろかん)が那津(現在の博多湾)の沿岸に置かれた。
 長官は大宰帥(だざいのそち 唐名:都督)といい従三位相当官、大納言・中納言クラスの政府高官が兼ねていたが、平安時代には親王が任命されて実際には赴任しないケースが大半となり、次席である大宰権帥が実際の政務を取り仕切った(ただし、大臣経験者が左遷された場合、実務権限はない)。帥・権帥の任期は5年であった。また、この頃は、唐宋商船との私貿易の中心となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%B0%E5%BA%9C

○東国:鎮守府の一時的強化

 「鎮守府は、陸奥国に置かれた古代日本における軍政を司る役所である。・・・奈良時代前半には鎮守府相当の機関が・・・設置されたものと推測される。長である鎮守府将軍の職位は五位から四位相当である。・・・
 鎮守府には鎮兵と呼ばれる固有の兵力が配備されており、陸奥国および出羽国の軍団の兵士と共に城柵の警備に当たっていた。蝦夷と対置する陸奥国には他の国とは比較にならないほどの軍団(最大で7個)が設置され、他の多くの国で軍団が廃止された後もむしろ増強が続けられたが、軍団兵士は各国内の農民より動員するために負担が大きすぎ、またそれでも不足することから別個の兵で補完が必要であったと考えられている。軍団兵士は6番程度に分けて交代で勤務するため、例えば兵士が6000名いても常置できるのは1000名に過ぎないが、鎮兵の場合は交代は基本的にないために例えば3000名いれば3000名全てが常置できる事になる。 鎮兵は東国の軍団兵士からの出向であり、防人と出自を同じくしていたが、東国の負担が大きすぎることなどから、次第に地元の陸奥国および出羽国より鎮兵を集めることになり、軍団兵士との差が曖昧になって形骸化していく。・・・
 鎮兵制の発足は神亀元年(724年)頃であるというのが定説となっている。その後、陸奥国および出羽国の軍団兵士の兵力の増減と密接な相関関係を持ちながら増減を繰り返し、ピーク時である弘仁元年(810年)には3800名を数えたが、その後は次第に削減され、弘仁6年(815年)に全廃される。
 鎮守府相当の機関は、初め多賀城に置かれたと推測されている。
 ・・・759年・・・には、将軍以下の俸料と付人の給付が、陸奥の国司と同じと決められた。この頃より、鎮守府将軍はほぼ4年ごとに任命された。この時期の将軍は按察使<(注89)>または陸奥守を兼任するのが通例で、中には3官を兼任する場合もあった。

 (注89)あぜち。「地方行政を監督する令外官の官職。数ヶ国の国守の内から1人を選任し、その管内における国司の行政の監察を行った。
 奈良時代の・・・719年・・・に設置された。平安時代以降は陸奥国・出羽国の按察使だけを残し、納言(大納言・中納言)・参議などとの兼任となり実態がなくなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%89%E5%AF%9F%E4%BD%BF

 征夷の際には、征夷大使(将軍)や征東大使(将軍)が任命され、征討軍が編成された。鎮守府は通常の守備と城柵の造営・維持など陸奥国内の軍政を主な任務としていたと言われる。
 ・・・802年・・・、坂上田村麻呂によって胆沢城が造営されると、多賀城から鎮守府が移された。・・・
 ・・・移転後の鎮守府は、多賀城にある陸奥国府と併存した形でいわば第2国府のような役割を担い、胆沢の地(現在の岩手県南部一帯)を治めていた。
 このように、鎮守府の本来の性格は、正にこの平常時での統治であり、非常時の征討ではない。したがって、平安時代中期以後になると、鎮守府本来の役割は失われ、鎮守府将軍の位のみが武門の誉れとして授けられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%AE%E5%AE%88%E5%BA%9C_(%E5%8F%A4%E4%BB%A3)
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[武士]

 「<まず、>武士<という言葉についてだが、その由来ははっきりしない。>
 物部氏は「モノノフノ氏」が本来の呼称で、語の起源は「霊刀を負ふ者」で日常的に帯刀して警察活動と刑罰を執行する物部氏の本職に由来し、後世に武士のことを、行う職務が同等で装備や姿形が物部の象徴的な赤色ずくめで、因んで「もののふ」と呼ぶようになった、とする説<がある。>・・・
 <侍という言葉もあるが、>王朝国家体制では四位、五位どまりの受領に任命されるクラスの実務官人である下級貴族を諸大夫(しょだいぶ)と、上級貴族や諸大夫に仕える六位どまりの技能官人や家人を侍(さむらい)と呼び、彼らが行政実務を担っていた。武芸の実務、技能官人たる武士もこの両身分にまたがっており、在京の清和源氏や桓武平氏などの軍事貴族<(後述)>が諸大夫身分、大多数の在地武士が侍身分であった。地域社会においては国衙に君臨する受領が諸大夫身分であり、それに仕えて支配者層を形成したのが侍身分であった。・・・ 
 <さて、>武士の起源に関しては諸説があり、まだ決定的な学説があるわけではない。
 主要な学説としては以下の3つを挙げることができる。

<一、>古典的な、開発領主に求める説(在地領主論)・・・
<二、>律令制下での国衙軍制に起源を求める説(国衙軍制論)
<三、>近年提起された、職能に由来するという説(職能論)・・・

 <この三番目の説では、>武士団としての組織化は、下から上へでなく、上から下へとなされていったと<し、>そうした武士の起源となった、軍事を専業とする貴族を、軍事貴族(武家貴族)と呼ぶ。
 <もう少し具体的に説明すれば、この説は、>平安時代、朝廷の地方支配が筆頭国司である受領に権力を集中する体制に移行すると、受領の収奪に対する富豪百姓層の武装襲撃が頻発するようになった<ところ、>当初、受領達は東北制圧戦争に伴って各地に捕囚として抑留された蝦夷集団、すなわち俘囚を騎馬襲撃戦を得意とする私兵として鎮圧に当たらせた<のだが、>俘囚と在地社会の軋轢が激しくなると彼らは東北に帰還させられたと考えられている<ところ、>それに替わって、俘囚を私兵として治安維持活動の実戦に参加したことのある受領経験者やその子弟で、中央の出世コースからはずれ、受領になりうる諸大夫層からも転落した者達<・・すなわち、軍事貴族・・>が、地域紛争の鎮圧に登用された<、というものだ。>。・・・

 <ここで、武官と武士の違いについても説明しておく。>
 武官は「官人として武装しており、律令官制の中で訓練を受けた常勤の公務員的存在」であるのに対して、武士は「10世紀に成立した新式の武芸を家芸とし、武装を朝廷や国衙から公認された『下級貴族』、『下級官人』、『有力者の家人』からなる人々」であって、律令官制の訓練機構で律令制式の武芸を身につけた者ではなかった<が>、官人として武に携わることを本分とした武装集団ではあった。
 <但し>、単に私的に武装する者は武士と認識されなかった。・・・
 <付言すれば>、これとは別に中世の前期の頃までは、他者に対して実力による制裁権を行使できる者を公卿クラスを含めて「武士」と言い表す呼称も存在した。
 このことは、院政下で活躍した北面武士などもその名簿を参照すると、侍身分以外の僧侶・神官などが多数含まれていることでも分かる。・・・
 <結論的に言えば、>言わば、国家から免許を受けた軍事下請企業家こそが<黎明期における>武士の実像であ<り、>朝廷や国衙は必要に応じて武士の家に属する者を召集して紛争の収拾などに当たった<、というところから、武士の歴史が始まった>のである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%A3%AB

⇒一~三の説は、いずれも、武士自然発生説である点においては同じであるところ、私は、言ってみれば、武士天皇家創造説、に立っているわけだ。(太田)
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 (5)桓武天皇構想の形成と実施

  ア 始めに

 封建制の導入と弥生性の確立を目指すところの、聖徳太子コンセンサス、を実現するためには、封建制の担い手たる弥生性を帯びた人々の集団・・武家・・を天皇家自ら創出しなければならない、と、桓武天皇は考えた、と、私は見るに至っており、この考えを桓武天皇構想、と名付けた次第です。

 まずは、関係天皇系図(復活天智朝系図)をご覧ください。

(49)光仁天皇–(50)桓武天皇→
          ※
 |–(51)平城天皇
 |–(52)嵯峨天皇–(54)仁明天皇–(55)文徳天皇–(56)清和天皇–(57)陽成天皇
→|   ※                    ※      ※
 |–(53)淳和天皇–(58)光孝天皇⇒        
                             |–(65)花山天皇
                |–(61)朱雀天皇 |–(63)冷泉天皇➡|–(67)三条天皇
⇒(59)宇多天皇–(60)醍醐天皇➡|–(62)村上天皇➡|–(64)円融天皇—–(66)一条天皇⇒⇒
   ※

 ※は、臣籍降下させた子孫から武家を出した天皇。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B5%AF%E5%B3%A8%E5%A4%A9%E7%9A%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
 陽成天皇(869~949。天皇:876~884年)は、「故意であれ事故であれ、陽成自身が起こした・・・宮中の殺人事件という未曾有の異常事<で>・・・退位<している。>・・・
 清和源氏は、実は元平親王を祖とする陽成源氏[・・経基王について、貞純親王の子ではなく貞純親王の兄陽成天皇の子・元平親王の子であるとする・・]であるが陽成天皇は暴君であるとの評判(前述)を嫌って一代前の清和天皇に祖を求めたとする説がある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%BD%E6%88%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%92%8C%E6%BA%90%E6%B0%8F ([]内)

 ここから、下掲の二つの桓武天皇構想完遂プロジェクトが見て取れます。↓

・桓武/嵯峨プロジェクト(平城天皇(天皇:806~809年))
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%9F%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87
・清和/陽成/宇多プロジェクト(光孝天皇(天皇:884~887年))
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E5%AD%9D%E5%A4%A9%E7%9A%87 

 すなわち、武家創出プロジェクトは、基本的に、極めて限られた期間に推進された、ということが分かります。
 (あくまでも、「基本的に」、ですが・・。)

  イ 桓武/嵯峨プロジェクト

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[平氏]

 「平氏には桓武天皇から出た桓武平氏、仁明天皇から出た仁明平氏、文徳天皇から出た文徳平氏、光孝天皇から出た光孝平氏の四流がある。・・・
 <(ちなみに、>仁明源氏となった者も・・・光孝源氏となった者もいる・・・<)>
 しかし後世に残ったもののほとんどは葛原親王の流れの桓武平氏であり、武家平氏として活躍が知られるのはそのうち高望王流坂東平氏の流れのみである。
 常陸平氏や伊勢平氏がこれに相当する。
 また、北条氏や坂東八平氏なども含めることがある。・・・
 ただし、北条氏や坂東八平氏については、平氏とは無縁の氏族が後世になって仮冒したのではないかといわれている・・・
 葛原親王の流れの桓武平氏には高望王流の他に善棟王流と高棟王流があり、善棟王には記録に残る子孫はいなかったが、高棟王流の桓武平氏は公家として京都で活動した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B0%8F
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 まず、桓武/嵯峨プロジェクト、についてです。

 桓武天皇(737~806年。天皇:781~806年)は、「白壁王(後の光仁天皇)の長男(第一王子)として・・・737年・・・に産まれた<が、>生母は百済系渡来人<(注90)>氏族の和氏の出身である高野新笠<だった>。・・・

 (注90)「父方の和氏は『続日本紀』では百済武寧王の子孫とされている。高野朝臣(たかののあそん)は光仁天皇即位後の賜姓。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%87%8E%E6%96%B0%E7%AC%A0
 「・・・百済では支配層が夫余系言語を、被支配層が韓系言語を使用していた・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88
 「・・・夫余の言語は高句麗と同じ・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AB%E4%BD%99

⇒光仁天皇が、自分の子供達のうち、その母親が、弥生性を日本の領域内では相対的に備えていたところの渡来人系であるからこそ、山部王を後継に据えた、ということでしょう。(太田)

 平城京における肥大化した奈良仏教各寺の影響力を厭い、天武天皇流が自壊して天智天皇流に皇統が戻ったこともあって、当時秦氏が開拓していたものの、ほとんど未開の山城国への遷都を行う。

⇒既に述べたように、鎮護国家教仏教の影響下から脱するための、山城国への遷都、と見るべきなのです。(太田)

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[非鎮護国家教仏教継受政策]

一、天武朝による鎮護国家教仏教強化政策

 –僧綱体制–

 「日本における仏教の僧尼を管理するためにおかれた僧官の職・・・
 律令制度では玄蕃寮<(注91)>の監督下に置かれていた。僧正、僧都、律師からなりそれを補佐するための佐官も置かれた。

 (注91)げんばりょう。「日本の律令制において治部省に属する機関である。・・・「玄」は僧侶(ほうし)、「蕃」は外国人・賓客(まらひと)のこと。度縁や戒牒の発行といった僧尼の名籍の管理、宮中での仏事法会の監督、外国使節の送迎・接待、在京俘囚の饗応、鴻臚館の管理を職掌とした。・・・頭(従五位下相当・・・)・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%84%E8%95%83%E5%AF%AE
 「律令制での神祇官は、朝廷の祭祀を司る官であり、諸国の官社を総轄した。現存する『令集解』より復元された養老令の職員令には太政官に先んじて筆頭に記載されるため、太政官よりも上位であり、相並んで独立した一官であ<り、>諸官の最上位とされた日本独自の制度である<ものの、>・・・相当する位階は低く、後述の神祇伯の相当位階は従四位下とされる。これは、太政官の常置の長官たる左大臣(正二位または従二位相当)よりはるかに低く、左大弁・右大弁(従四位上相当)、大宰帥(従三位相当)、七省の長官たる卿(正四位下相当)より下である(官位相当制の項参照)。すなわち、上述のとおり職員令(しきいんりょう)では太政官の上に位置したが、文書行政では太政官よりも下位であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%A5%87%E5%AE%98

 624年に設置され、律令体制の下では仏教界において重要な役割を果たした。役所である僧綱所は奈良時代には薬師寺におかれ、平安遷都後は西寺におかれた。・・・
 864年<以降の体制は下掲の通り>。

 僧位     僧官

法印大和尚位 大僧正
        僧正
        権僧正

法眼和尚位/
法眼和上位 大僧都
        権大僧都
        少僧都
        権少僧都

法橋上人位   大律師
        律師(中律師)
        権律師   」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%83%A7%E7%B6%B1

⇒天武朝の下では、神道は国家神道、仏教は国家仏教であったところ、それでもあくまでも、神道の序列は仏教よりも遥かに高かったわけだ。(太田)

 –東大寺・法華寺/国分寺体制–

 「日本の国分寺・国分尼寺の先例として、隋王朝を建てた文帝・楊堅による大興国寺(大興善寺)<(注92)>があった。その後の唐王朝では、則天武后による大雲寺、中宗による竜興寺観、玄宗による開元寺があった。

 (注92)「隋に先立つ北周では、第3代皇帝武帝の時代に、儒教・仏教・道教の三教に対する宗教政策(文教政策)の論議が盛んに行われていた(三教談論)。その後、親政を執った武帝は古代の周朝への復古主義を唱え、仏教・道教の二教を廃し、儒教のみを尊重した。仏教・道教の廃教政策は、寺院と道観が抱える財力や人力を、対外戦争に活用することが目的であった。
 その武帝亡き後の政権争いに勝利し、隋朝を建てた文帝は、一転して仏教・道教の部分的な復興という政策を採った。さらには、仏教を主とし、儒教・道教を副として扱う仏教治国策を始めた。
 具体的な施策としては以下が挙げられる。
・国寺としての大興善寺を国都の大興城の中心に建立
・「五衆」や「二十五衆」と呼ばれる教化担当の僧官の設置
・晩年の仁寿年間(601年 – 604年)の、全国諸州への舎利塔建立
 このような政策は、続く唐朝や武則天、さらには日本の奈良時代の仏教政策に受け継がれることとなる。ただし、同じ李姓であった老子を祖と仰ぐ唐朝は、仏教の地位を道教の下に置き、同じく仏教を道教の上に置いた武則天の治世も短命に終わったため、中国史上において、仏教治国策は特異な政策といえる。
 同じく奉仏皇帝として知られる梁の武帝と対比的に語られることが多い。しかし、梁の武帝の場合は皇帝の個人的な信仰に基づく修功徳行為に対し、隋の仏教治国策は、公共事業としての仏教施設建立や、農民への宗教政策など、国家全体の政策として取り組まれていた点が大きく異なる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99%E6%B2%BB%E5%9B%BD%E7%AD%96

 聖武天皇は、・・・737年・・・には国ごとに釈迦仏像1躯と挟侍菩薩像2躯の造像と『大般若経』を写す詔、・・・740年・・・には『法華経』10部を写し七重塔を建てるようにとの詔を出している。
 ・・・741年・・・2月14日・・・、聖武天皇から「国分寺建立の詔」が出された。その内容は、各国に七重塔を建て、『金光明最勝王経(金光明経)』と『妙法蓮華経(法華経)』を写経すること、自らも金字の『金光明最勝王経』を写し、塔ごとに納めること、国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、僧寺の名は金光明四天王護国之寺、尼寺の名は法華滅罪之寺とすることなどである。寺の財源として、僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施すこと、僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められた。
 国司の怠慢のために、多くの国分寺の造営は滞った。・・・747年・・・11月の「国分寺造営督促の詔」により、造営体制を国司から郡司層に移行させるとともに、完成させたら郡司の世襲を認めるなどの恩典を示した。これにより、ほとんどの国分寺で本格的造営が始まった。
 国分寺の多くは国府区域内か周辺に置かれ、国庁とともにその国の最大の建築物であった。また、大和国の東大寺・法華寺は総国分寺・総国分尼寺とされ、全国の国分寺・国分尼寺の総本山と位置づけられた。
 律令体制が弛緩して官による財政支持がなくなると、国分寺・国分尼寺の多くは廃れた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%88%86%E5%AF%BA

⇒最後の一文は、下掲の結果なのだ。(太田)

二、復活天智朝による非鎮護国家教仏教継受政策

 蘇我氏全盛時代以降、日本で鎮護国家教仏教は軍事力を補完するものとみなされてきて、天武朝においては、軍事力は、唐流軍制であるところの軍団制の形をとっていたわけだが、復活天智朝は、この全体を、武家を担い手とする封建制軍制によって置き換えようとした、と、私は見るに至っている。
 となると、武家に鎮護国家教仏教に代わるものを与えることが望ましい。
 ということで、(恐らくは光仁天皇の示唆を受けて)桓武天皇が創造したものが、これまた、私が名づけたところの、神仏習合教であった、と見たらどうだろうか。
 そのための最初の布石が、781年の桓武天皇の即位直後の、八幡神への菩薩号付与であり、次の布石が、この菩薩号を付与された八幡神を祀る神社を、793年に開始させたところの対蝦夷戦争のいつかの時点における、最前線への坂上田村麻呂による設置だった、と見るわけだ。
 なお、それに前後して、東征の途次に、田村麻呂が諏訪大社に参拝したところ、その機会を捉えて同大社の神仏習合化も行われたのではないか、とも見るわけだ。(注93)

 (注93)「793年・・・2月17日、征東使が征夷使へと改称され、2月21日には征夷副使の田村麻呂が天皇に辞見をおこなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%B8%8A%E7%94%B0%E6%9D%91%E9%BA%BB%E5%91%82
 これは、田村麻呂が実質的な征夷正使であったことを意味する。
 ・・・794年・・・2月1日、<正使の>弟麻呂<が>征討へ出発。16日には征夷のことが光仁天皇陵と天智天皇陵に報告され、3月17日には参議・大中臣諸魚に伊勢神宮に奉幣せしめ征夷を報告している。」(上掲)
 「報告」先が光仁天皇と天智天皇だったことは、この戦争が、天智朝の事業として行われたことを端的に示している。

 そして、第三の布石が、804年の、桓武天皇が、25年ぶりに派遣させた遣唐使だ、と、私は見る。
 累次の遣隋使や遣唐使のメンバー(留学生を含む)は、それぞれが、全て、政府、つまりは、その時々の天皇から、具体的な任務を与えられて送り出された、と、考えるべきだろう。
 慰労長期出張の要素など、遣隋使や遣唐使にあっては皆無だったはずだ、ということだ。
 それが、極めて危険、かつ、金食い虫の大事業であったことを想起せよ。
 この時の遣唐使に関して言えば、最澄<(注94)>と空海<(注95)>を送る
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF
ことが主眼であった、と見たい。

 (注94)766/767~822年。「先祖は後漢の孝献帝に連なる(真偽は不明)といわれる登萬貴王(とまきおう)なる人物で、応神天皇の時代に日本に渡来したといわれている。・・・
 797年、桓武天皇の内供奉十禅師。・・・802年、・・・桓武天皇より入唐求法(にっとうぐほう)の還学生(げんがくしょう、短期留学生)に選ばれる。804年7月、通訳に門弟の義真を連れ、空海とおなじく九州を出発・・・
 805年・・・7月に<帰>洛、・・・当時、桓武天皇は病床にあり、宮中で天皇の病気平癒を祈る。9月、桓武天皇の要請で高雄山神護寺で日本最初の公式な灌頂が最澄により行われる。・・・806年・・・1月、最澄の上表により、天台業2人・・・が年分度者<・・国家認定僧尼(太田)・・>となる。これは南都六宗に準じる。これが日本の天台宗の開宗である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E6%BE%84
 「日本の僧官の一つ。・・・宮中で天皇の安穏を祈ることを職務とし、天皇の看病などにあたるほか、正月の御斎会で読師となる。原則として地位は終身で、童子2人と供養米が支給される。僧綱との兼帯はできない(天台宗は例外)。・・・内供奉十禅師に任用されたことが知られる人物は、圧倒的に天台僧に多いが、国史の任用記事には<真言僧や>東大寺や大安寺の僧の任用も見える。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E4%BE%9B%E5%A5%89%E5%8D%81%E7%A6%85%E5%B8%AB
 (注95)774~835年。「789年・・・、15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の叔父である阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学んだ。
 ・・・792年・・・、18歳で京の大学寮に入った。大学での専攻は明経道で、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだと伝えられる。・・・
 803年・・・、医薬の知識を生かして推薦され、遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発するが悪天候で断念し、翌年に、長期留学僧の学問僧として唐に渡る。当時の留学僧は中小氏族の子弟が多いが、<漢>語の能力の高さが有利との指摘はあるが、この間の学問僧への変更の経緯は不明である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E6%B5%B7
 ちなみに、阿刀大足(あとのおおたり。?~?年)は、「位階は従五位下に至った<人物だ>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%88%80%E5%A4%A7%E8%B6%B3
 この阿刀大足の父親の安斗智徳(あとのちとこ。?~?年)は、「壬申の乱の際、大海人皇子(天武天皇)に従<った>・・・舎人二十数人・・・の中にいたが、・・・乱の中で果たした役割については記録がない。・・・位階は従五位下<に至った>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%96%97%E6%99%BA%E5%BE%B3

⇒最澄はその出自、空海はその能力、を、桓武天皇に買われたのだろう。
 なお、事実上最初の内供奉十禅師への最澄の任命は、天武朝が整備した僧綱制度の有名無実化を図ったもの、と見たい。
 この2人を留学させた目的は、天武朝の完全否定であるところの、鎮護国家教仏教、の超克のため、とも。
 桓武天皇は、最澄に対しては、鎮護国家教ではない、本来の、一人一人の衆生のための大乗仏教(注96)、しかも、最新の諸潮流、の日本への継受を図る、という任務を与えて送り出した、と考えたらどうだろうか。↓

 (注96)「部派仏教<(原始仏教)の>・・・自らが悟りを開いて「阿羅漢」になることを目的とした姿勢を「利己的」と批判し、「(少数しか救われない)小乗」とさげす<み、>・・・衆生救済を目的とし、悟りを開いていないが、仏道に励む「菩薩」の立場を重視<する。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E4%BB%8F%E6%95%99

 「日本には法相宗や華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは<支那>では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄は日本へ帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。最澄<の>・・・大乗戒(円頓戒)を受戒した者を天台宗の僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問・修行を修めるという革新的な最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。論争の末、最澄の没後に大乗戒壇の勅許が下り、名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%AE%97
 「最澄・・・は天台教学とともに、密教(中期密教)・禅(北方禅)・念仏(浄土教)を日本に持ち帰っており、・・・日本の天台宗は〈最澄の死後、本格的に密教化することになる<ところ、>〉・・・比叡山の延暦寺は四宗兼学の道場と呼ばれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E5%AF%86
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%B8%80%E6%A8%A9%E5%AE%9F%E8%AB%8D%E8%AB%96 (〈〉内)
 「清和天皇の・・・866・・・7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%AE%97 前掲

 また、空海に対しては、ポスト大乗仏教的仏教たる密教の日本への継受を行うという任務を与えて送り出した、と考えたらどうだろうか。
 そのココロは、桓武天皇が既に布石を打ち始めていたところの、神仏習合教創設プロジェクトにおける、この新宗教を正当化する理屈の整備であり、密教がヒンドゥー教の神々なども取り込んでいることに加えて鎮護国家教的な部分もあることに着目し、密教を継受した上でその教義を日本の神々も取り込ませたものへと作り変えることだった、と。↓

 「インド<で、>・・・新興のヒンドゥー教に対抗できるように、・・・世尊 (Bhagavān) としての釈尊が説法する形式をとる大乗経典とは異なり、別名を大日如来という大毘盧遮那仏 (Mahāvairocana) が説法する形をとる密教経典が編纂されてい<き、>・・・密教が確立した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%86%E6%95%99
 「同時期に最澄によって開かれた日本の天台宗が法華経学、密教、戒律、禅を兼修するのに対し、空海は・・・即身成仏と鎮護国家を二大テーゼとしている・・・密教(真言密教)の優位性・・・を説いた。・・・823年・・・に<桓武天皇の子の>嵯峨天皇より勅賜された<東>寺を真言宗の根本道場として宗団を確立した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%AE%97
 「大乗仏教の仏だけでなくヒンドゥー教の神々なども「仏」として密教に取り込まれた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B3%E8%BA%AB%E6%88%90%E4%BB%8F 
 「日本の密教は、空海、最澄以前から存在した霊山を神聖視する在来の山岳信仰とも結びつき、修験道など後の「神仏習合」の主体ともなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%86%E6%95%99 前掲
 「大乗仏教・・・が「三劫成仏」、すなわち「三劫」と呼ばれるとても長い時間の修行の末に仏になれることを説くのに対して、密教においては「即身成仏」、すなわちこの現世においてこの身のままに悟りを得て仏になれることを説く」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B3%E8%BA%AB%E6%88%90%E4%BB%8F 前掲

 更に言えば、天武朝が整備したところの、神祇官
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%A5%87%E5%AE%98
掌握下の(私の命名による)第一次国家神道(コラム#省略)の中に、天武朝が治部省に統制させてきたところの鎮護国家教仏教、を事実上取り込むことで、この点でも鎮護国家教仏教の換骨奪胎、弱体化を図るとともに、密教が鎮護国家教的側面もあることにも着目し、「まともな」仏教と鎮護国家教仏教との間の衝撃緩衝器的役割を、密教に演じさせるところにあった、と。
 桓武天皇としては、一人一人の衆生のための大乗仏教の継受は長期的な重い課題、神々を取り込み鎮護国家教的な部分もある密教の継受は喫緊の課題、という気持ちだったのではあるまいか。
 最澄自身、自分に与えられた任務の重さは十二分に自覚しつつも、密教にもかねてから関心があったようであるところ、支那でも密教も学んだ上で、密教を専修した空海に、帰国後師事してまで更に密教を学んだ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%B8%80%E6%A8%A9%E5%AE%9F%E8%AB%8D%E8%AB%96 前掲のは、空海が与えられていた任務も気になって仕方がなかったからではないか。
 こうして、真言宗は、そして、結果として天台宗も、日本における神仏習合のメッカ的機能を果たしてゆくことになる。(注97)

 (注97)【天台宗に関して】↓
 「<桓武天皇の時の>788年・・・、最澄は三輪山より大物主神の分霊を日枝山に勧請して大比叡とし従来の祭神大山咋神を小比叡とした。そして、現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなる小規模な寺院を建立し、一乗止観院と名付けた。この寺は比叡山寺とも呼ばれ、年号をとった「延暦寺」という寺号が許されるのは、最澄の没後、・・・823年・・・のことであった。時の桓武天皇は最澄に帰依し、天皇やその側近である和気氏の援助を受けて、比叡山寺は京都の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として次第に栄えるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E6%9A%A6%E5%AF%BA
 「平安京遷都により、・・・日吉大社(ひよしたいしゃ)・・・が<、>京の鬼門に当たることから、鬼門除け・災難除けの社として崇敬されるようになった。・・・。
 最澄が比叡山上に延暦寺を建立し、比叡山の地主神である当社を、天台宗・延暦寺の守護神として崇敬した。唐の天台宗の本山である天台山国清寺で祀られていた山王元弼真君にならって山王権現と呼ばれるようになった。延暦寺では、山王権現に対する信仰と天台宗の教えを結びつけて山王神道を説いた。中世に比叡山の僧兵が強訴のために担ぎ出したみこしは日吉大社のものである。天台宗が全国に広がる過程で、日吉社も全国に勧請・創建され、現代の天台教学が成立するまでに、与えた影響は大きいとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%90%89%E5%A4%A7%E7%A4%BE
 「祇園社(現在の八坂神社)は当初は興福寺の配下であったが、10世紀末の抗争により延暦寺がその末寺とした。同時期、北野社も延暦寺の配下に入っていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E6%9A%A6%E5%AF%BA 前掲
    【真言宗に関して】↓
 「空海が嵯峨天皇から高野山の地を賜ったのは・・・816年・・・のことであり、空海が・・・この山に真言密教の道場を設立することを天皇に願い出たというのが史実とされている。・・・
 空海が修行に適した土地を探して歩いていたところ、大和国宇智郡(奈良県五條市)で、黒白2匹の犬を連れた狩人(実は、狩場明神という名の神)に出会った。狩人は犬を放ち、それについていくようにと空海に告げた。言われるまま、犬についていくと、今度は紀伊国天野(和歌山県かつらぎ町)というところで土地の神である丹生明神(にうみょうじん)が現れた。空海は丹生明神から高野山を譲り受け、伽藍を建立することになったという。この説話に出てくる丹生明神は山の神であり、狩場明神は山の神を祭る祭祀者であると解釈されている。つまり、神聖な山に異国の宗教である仏教の伽藍を建てるにあたって、地元の山の神の許可を得たということを示しているのだとされている。高野山では狩場明神(高野明神とも称する)と丹生明神とを開創に関わる神として尊崇している。丹生明神と狩場明神は丹生都比売神社に祀られている。金剛峯寺と丹生都比売神社は古くから密接な関係にあり、神仏分離後の今日でも金剛峯寺の僧の丹生都比売神社への参拝が行われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%89%9B%E5%B3%AF%E5%AF%BA

⇒くどいようだが、主国家宗教たる国家神道であった(というか、そういうものへと天武朝によって高められたところの)神道、の、従国家宗教たる国家仏教であった仏教、との習合が、天皇家のイニシアティブ、いや、指示、なくして行われたはずがなかろう。
 つまり、比叡山と日吉大社の習合は桓武天皇により、また、金剛峯寺の神仏習合的開山説話や丹生都比売神社との習合は嵯峨天皇により、指示されたもの、と見るべきなのだ。
 具体的に言えば、本地垂迹(ほんじすいじゃく)・・「日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考え・・・<すなわち、>国造りに重用された・・・天照大神を頂点と<する>・・・神々・・・<は、>仏の説いた法を味わって仏法を守護する護法善神の仲間という解釈により、奈良時代の末期から平安時代にわたり、・・・仏教側<から、>・・・神に菩薩号を付す<ようになったところの考え>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9C%B0%E5%9E%82%E8%BF%B9
は、桓武天皇個人が生み出したものであって、嵯峨天皇以下の復活天智朝が継承したものである、と、見るべきなのだ。(太田) 

 ちなみに、東寺と西寺<(注98)>が平安京鎮護、というか、それぞれ東国と西国を守る国家鎮護、のための官寺として整備された・・<(なお、>東寺は、<はるか>後に教王護国寺とも呼ばれることになる・・・<。)>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%AF%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%AF%BA
のは、鎮護国家教仏教に対する衝撃緩衝器としてだった、と言えそうだ。

 (注98)「823年・・・東寺は空海に託され真言密教の中心道場となったのに対し、西寺には守敏僧都(しゅびんそうず)が入り、官寺として発展した。とくに860年・・・に文徳(もんとく)天皇の国忌が行われるなど、鎮護国家の寺として栄えた。しかし990年・・・火災により焼失、荒廃。現在は旧跡を残すのみである。・・・
 西寺の別当や三綱(さんごう)は東寺のそれらよりも上位であり,僧綱所(そうごうしよ)が西寺に置かれ,国忌(こき)も西寺で修された事例が多いところから,西寺のほうが格はやや高かったとみられ,国家鎮護の寺として栄えた。」
https://kotobank.jp/word/%E8%A5%BF%E5%AF%BA-67925

 で、付言すれば、西寺こそが衝撃緩衝器だったが、その焼失に伴い、東寺に衝撃緩衝器としての役割も負わせることとなった、ということではなかろうか。
 それが、東寺が、ずっと後の時代になってから、初めて教王護国寺とも呼ばれるようになったゆえんである、と。(太田)
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 初め・・・784年・・・に長岡京を造営するが、天災や後述する近親者の不幸・祟りが起こり、その原因を天皇の徳がなく天子の資格がないことにあると民衆に判断されるのを恐れて、わずか10年後の・・・794年・・・、・・・長岡京から艮方位(東北)に当たる場所の平安京へ改めて遷都した。  また、蝦夷を服属させ東北地方を平定するため、3度にわたる蝦夷征討を敢行、・・・789年・・・に紀古佐美を征東大使とする最初の軍は惨敗したが、<794>年の2度目の遠征で征夷大将軍・大伴弟麻呂の補佐役として活躍した坂上田村麻呂を抜擢して、・・・801年・・・の3度目の遠征で彼を征夷大将軍とする軍を送り、田村麻呂がアテルイら500人の蝦夷を京都へ護送した・・・802年・・・に蝦夷の脅威は減退、翌・・・803年・・・に田村麻呂が志波城を築いた時点でほぼ平定された。

⇒桓武天皇は、坂上犬養の子である苅田麻呂の娘の又子、と、同じく坂上犬養の子である田村麻呂の娘の春子、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%B8%8A%E6%B0%8F
を、どちらも、妃(但し、皇后、夫人、妃、女御、の下の宮人)として迎えており、春子との間に、第12皇子の葛井親王(ふじい/かどいしんのう)をもうけているが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%93%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
結局、桓武天皇の第1皇子で後継となった平城天皇(へいぜいてんのう。774~824.天皇:806~809)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%9F%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87
に薬子の変でとってかわったところの、桓武天皇の第2皇子の嵯峨天皇(786~842.天皇:809~823年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B5%AF%E5%B3%A8%E5%A4%A9%E7%9A%87
とその子の仁明天皇<(下出)>は、嵯峨天皇の兄弟中、嵯峨天皇の次に生まれたところの、桓武天皇の第3皇子の葛原親王(かずらわらしんのう)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E5%8E%9F%E8%A6%AA%E7%8E%8B
に、最終的に桓武天皇構想の完遂を託することとなった、というのが私の見解であるわけだ。(太田)

 しかし晩年の・・・805年・・・には、平安京の造作と東北への軍事遠征がともに百姓を苦しめているとの藤原緒嗣(百川の長子)の建言を容れて、いずれも中断している<(前出)>・・・。。
 また、軍隊に対する差別意識と農民救済の意識から、健児制<(注99)>を導入したことで百姓らの兵役の負担は解消されたが、この制度も間もなく機能しなくなり、9世紀を通じて朝廷は軍事力がない状態になった。

 (注99)「792年・・・、陸奥国・出羽国・佐渡国・西海道諸国を除く諸国の軍団・兵士を廃止し、代わって健児の制を布いた。この時の健児は天平宝字6年と同様、郡司の子弟と百姓のうち武芸の鍛錬を積み弓馬に秀でた者を選抜することとし<た>・・・。これにより、一般の百姓らが負担していた兵役の任務はほぼ解消されることとなった。・・・
 なお、軍団・兵士が廃止されなかった地域、すなわち、佐渡・西海道のような国境地帯では海外諸国の潜在的な脅威が存在し、陸奥・出羽では異民族を討伐する対蝦夷戦争が継続していた。これらの地域では従前の大規模な軍制を維持する必要があったため、軍制の軽量化といえる健児制は導入されなかったのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%A5%E5%85%90

 その結果として、9世紀の日本列島は無政府状態となり、結果として、日本列島は16世紀の織豊政権樹立まで、700年近い戦乱の時代に陥った。そのような状況において、有力な農民が自衛のために武装して、武士へと成長することとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%93%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒桓武天皇は、日本を「無政府状態」にしたわけではなく、封建制確立のための布石を打って行ったのであり、天武朝が継受したところの、唐流軍制とそれを支える律令制、に、健児制という当て馬で目くらましをかけつつ、とどめを刺した、ということです。
 そして、それと並行して、桓武天皇構想を立案した、と、私は見ているわけです。
 既存の軍制にとどめを刺され、桓武天皇によって尻に火を付けられた形になったところの、(桓武天皇の子である平城天皇は飛ばして、同じく)桓武天皇の子である嵯峨天皇(注100)、及び、淳和天皇(注101)、そして、嵯峨天皇の子の仁明天皇(注102)、は、この桓武天皇構想の完遂に向け、武家の理念型となることを期待したところの、武家第一号の創設に腐心するのです。

 (注100)「嵯峨天皇(786~842年。天皇:809~823年)は、「806年・・・に兄・平城天皇の即位に伴って皇太弟に立てられる。だが、平城天皇には既に高岳・阿保の両親王がいたことから、皇太弟擁立の背景には、父帝・桓武天皇の意向が働いたといわれている。
 ・・・809年・・・平城天皇の譲位を受け、即位・・・。
 ・・・818年死刑廃止」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B5%AF%E5%B3%A8%E5%A4%A9%E7%9A%87 
 (注101)「淳和天皇(じゅんなてんのう。786~840年。天皇:823~833年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B3%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87
 (注102)仁明天皇(にんみょうてんのう。810~850年。天皇:833~850年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87

 その腐心ぶりは、人事を見れば分かります。
 なお、どんな組織体においても基本的にはそうですが、政府においてはとりわけ、政策は、カネの配分と人事、を両輪として具体化されることは、言うまでもありません。↓(太田)
 
 葛原親王(かずらわらしんのう。786~853年)の軌跡:
810年 9月:式部卿<←嵯峨天皇(809年~)>
811年 10月5日:賜上野国利根郡長野牧
816年 正月7日:二品
823年 9月28日:中務卿兼大宰帥<(注103)>。9月29日:弾正尹、大宰帥如故
825年 7月6日:子息が臣籍降下(平朝臣姓)
830年 正月:兼常陸太守<(注104)>。6月4日:式部卿<←淳和天皇(823年~)>
831年 正月4日:一品
835年 4月2日:賜甲斐国巨麻郡馬相野空閑地500町<←仁明天皇(833年~)>
838年 正月13日:兼上野太守
844年 正月:兼常陸太守
850年 5月17日:大宰帥
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E5%8E%9F%E8%A6%AA%E7%8E%8B

 (注103)「大宰帥(だざいのそち/だざいのそつ)は、大宰府の長官。
 ・・・律令制において西海道の9国2島を管轄し、九州における外交・防衛の責任者となった。9世紀以降は親王の任官で、大宰府に赴任しないことが慣例となり、実権は次官の大宰権帥(だざいのごんのそち)及び大宰大弐(だざいのだいに)に移った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%B0%E5%B8%A5
 (注104)「常陸国は、上総国・上野国とともに、天長3年(826年)以降、親王が国守を務める親王任国となり、この場合の常陸守を特に常陸太守と称した。
 親王任国となった当初から親王太守は現地へ赴任しない遙任だったため、国司の実務上の最高位は常陸介であった。・・・
 親王任国となって以降の常陸太守の位階は必然的に他の国守より高くなるため、一般的に従五位上程度ではなく官位相当は正四位下とされた。
 また、賀陽親王、葛原親王、時康親王など二品で常陸太守に任じられた例もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9B%BD%E5%8F%B8

⇒この人事から、復活天智朝は、桓武天皇構想完遂準備として、葛原親王に、東の蝦夷生息地区所領賜与⇒西の対大陸兵站地区赴任⇒東の蝦夷生息地区赴任⇒再び、西の対大陸兵站地区赴任、という形で、桓武天皇構想の実施要領を起案させるための手掛かりを与えるとともに、その間に、同親王に、その子達ないしはその孫達の中から、武家を形成させるにふさわしい者を選択させた、と、いうことが、私には読み取れます。
 なお、嵯峨天皇は、自身、自分のもう一人の弟の葛井親王(ふじいしんのう。798~850年)にも、「819年・・・に・・・兵部卿に叙任<するとともに、自分の後継の淳和天皇に、>上野太守<に、更にその後継の仁明天皇に、>常陸太守、・・・850年・・・に大宰帥に任<じさせており、>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E4%BA%95%E8%A6%AA%E7%8E%8B
これは葛原親王と極めて似通ったキャリアパスであるところ、嵯峨、淳和、仁明の3天皇は、葛原親王(とその子孫達)、及び、葛井親王(とその子孫達)、のどちらに武家第一号を形成させるのか、を、両者を競わせながら、暫くの間、検討を続けたように見受けられます。(太田)

 平高望(?~?年)。「寛平元年(889年)5月13日、葛原親王の第三王子高見王<(注105)>の子高望王は、<仁明天皇の孫の>宇多天皇の勅命により平朝臣を賜与され臣籍降下し、平高望を名乗った。

 (注105)「文献によると父の葛原親王は高見王が誕生する前に子孫に平姓を賜り、臣籍への降下を朝廷に要請し、これが認められている。しかし高見王は平高見を名乗ったと言う記録はない。これ以外にも文献上の矛盾が多く、また病弱であったとも伝えられているが、皇族の身分でありながら、曲がりなりにも成年まで生き延びた人物が無位無官であったことは大きな疑問点である。逆に病弱であった人物が子孫を残しえたかと言う疑問も残る。従って現在では高見王を実在しなかった人物とし、子とされる平高望は父とされる葛原親王の子であったとする説を主張する歴史研究家は少なくない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E8%A6%8B%E7%8E%8B

⇒「注105」からも、「高見王が誕生する前」がいつか、判然としないところ、私は、清和天皇(850~881年。天皇:858~876年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87
の存命中、と想像しています。(太田)

 昌泰元年(898年)、高望は上総介に任官した。
 当時の上級国司は任地に赴かない遙任も少なくなかったが、長男国香、次男良兼、三男良将を伴って任地に赴く。
 高望親子は任期が過ぎても帰京せず、国香は前常陸大掾の源護の娘を、良将は下総国相馬郡の犬養春枝の娘を妻とするなど、在地勢力との関係を深め常陸国・下総国・上総国の未墾地を開発、自らが開発者となり生産者となることによって勢力を拡大、その権利を守るべく武士団を形成してその後の高望王流桓武平氏の基盤を固めた。
 しかしその後、延喜2年(902年)に西海道の国司となり大宰府に居住、延喜11年(911年)に同地で没する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%AB%98%E6%9C%9B

⇒東の蝦夷生息地区⇒西の対大陸兵站地区、という補職が、平高望に対しても行われていることに注目してください。
 ちなみに、嵯峨天皇自身も、父桓武天皇の桓武天皇構想に触発され、自前の武家創出に乗り出した形跡があります。(注106)

 (注106)「嵯峨天皇には23人の皇子がいたとされるが、そのうち17人の皇子が臣籍降下して源氏を称した。また、数人の皇女も臣籍降下して源姓を称した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B5%AF%E5%B3%A8%E6%BA%90%E6%B0%8F

 すなわち、仁明天皇は、恐らく嵯峨天皇の遺志を受けて、自分の弟の源融(822~895年)を右近衛中将、仁明天皇の子の文徳天皇は源融を右衛門督、と、それぞれ武官のキャリアパスを歩ませていますが、その期待に反し(?)、融は、その後行政官としての出世を望むこととなり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E8%9E%8D
その子の源昇も行政官としての生涯を送りますが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%98%87
その子の源仕(つこう)は、改めて軍事貴族としての道を選び、武蔵守の時に関東に地盤を築き、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E4%BB%95
その子の源宛(あつる)は武蔵で生まれ、武蔵権介を務めて21歳で死去し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%AE%9B
その子の源綱(渡辺綱。953~1025年)は、「武蔵国・・・に生まれ・・・摂津源氏の源満仲の娘婿である仁明源氏の源敦の養子となり、母方の里である摂津国西成郡渡辺に居住し、渡辺綱(わたなべ のつな)<等>・・・と称し、渡辺氏の祖となる。摂津源氏の源頼光に仕え、頼光四天王の筆頭として剛勇で知られた。・・・
 その子孫は渡辺党と呼ばれ、内裏警護に従事する滝口武者として、また摂津国の武士団として住吉(住之江)の海(大阪湾)を本拠地として瀬戸内海の水軍を統轄し、源平の争乱から南北朝時代にかけて活躍した。九州の水軍松浦党の祖の松浦久もまた渡辺氏の出である」(注107)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E7%B6%B1
という次第です。(太田)

 (注107)「源頼光の後裔で摂津渡辺津に拠る源頼政の郎党として、渡辺氏は保元の乱において、源省、源授、源連、源興、源競らが参陣しており、源頼政の反平家蜂起の宇治合戦において平家の大軍と戦い討死している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E6%B0%8F
 「松浦氏<は、>・・・渡辺綱・・・の孫の源久(渡辺久、松浦久)を祖とするとされる。この伝によれば、松浦氏は、渡辺綱にはじまる渡辺氏を棟梁とする摂津国の滝口武者(大内守護(天皇警護))の一族であり水軍として瀬戸内を統括した渡辺党の分派である。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E6%B0%8F
 蒲池氏については、下掲参照。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%BA%80%E6%9C%AB

  ウ 清和/陽成/宇多プロジェクト

 貞純親王(さだずみしんのう。873?~916年)。「清和天皇の第六皇子。・・・親王任国とされる上総や常陸の太守や、中務卿・兵部卿を歴任したが、位階は四品に留まった。経基・経生の両王子が共に源姓を賜与され臣籍降下したことから、清和源氏の祖の一人となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E7%B4%94%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒清和天皇は、自分の子である陽成天皇(869~949年。天皇:876~884年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%BD%E6%88%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
に、(武家第一号の桓武平氏の形成が緒についたのと、嵯峨源氏が武家第二号にならない気配であることから、)兄弟達のうちの誰かに、武家第二号を形成させよ、との遺志を残した、と、想像しています。
 これを受け、陽成天皇が白羽の矢を立てたのが貞純親王であり、だから、陽成天皇は彼を東の上総や常陸の太守や兵部卿に就けた、と。
 その結果、形成された清和源氏は、以下のような経過を辿って、桓武平氏と対抗する武家勢力になっていくのです。↓

 源経基(?~961?年)。「父は・・・貞純親王<。源姓を賜り>・・・938年・・・、武蔵介として現地に赴任する<と、>・・・早々に検注を実施すると、在地の豪族である足立郡司で判代官の武蔵武芝が正任国司の赴任以前には検注が行われない慣例になっていたことから検注を拒否したために、経基らは兵を繰り出して武芝の郡家を襲い、略奪を行った。この話を聞きつけた下総国の平将門が私兵を引き連れて武芝の許を訪れると、経基らは・・・比企郡の狭服山へ立て籠もった<が、>・・・武芝の兵が勝手に経基の営所を包囲する。経基は将門らに殺害されるものと思い込み、あわてて京へ逃げ帰り、将門・・・武芝<ら>が謀反を共謀していると朝廷に誣告した。しかし将門らが・・・939年・・・常陸・下総・下野・武蔵・上野5カ国の国府の「謀反は事実無根」との証明書を藤原忠平へ送ると、将門らの申し開きが認められ、逆に経基は讒言の罪によって左衛門府に拘禁された。・・・939年・・・11月、将門が常陸国府を占領、その後も次々と国府を襲撃・占領し、同年12月に上野国府にて「新皇」を僭称して勝手に坂東諸国の除目を行うと、以前の誣告が現実となった事によって経基は晴れて放免され・・・、征東大将軍・藤原忠文の副将の一人に任ぜられ、将門の反乱の平定に向かうが既に将門が追討された事を知り帰京。・・・941年・・・に追捕凶賊使となり、小野好古とともに藤原純友の乱の平定に向かうが、ここでも既に好古によって乱は鎮圧されており、純友の家来 桑原生行を捕らえるにとどまった。武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には鎮守府将軍にまで上り詰めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%B5%8C%E5%9F%BA
源満仲(912~997年)。「経基の嫡男。・・・当初は都で活動する武官貴族・・・藤原摂関家に仕えて、摂津国・越後国・越前国・伊予国・陸奥国などの受領を歴任し、左馬権頭・治部大輔を経て鎮守府将軍に至る。こうした官職に就くことによって莫大な富を得た・・・二度国司を務めた摂津に土着。・・・多田盆地に入部、所領として開拓すると共に、多くの郎党を養い武士団を形成した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%BA%80%E4%BB%B2

 ちなみに、陽成源氏は武家を出していませんが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B8%85%E8%94%AD
既に述べたように、「経基王について、貞純親王の子ではなく貞純親王の兄陽成天皇の子・元平親王の子であるとする陽成源氏説がある。この出自論争は実証ができず決着はついていない」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%92%8C%E6%BA%90%E6%B0%8F#%E9%99%BD%E6%88%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E8%AA%AC
ところです。
 なお、「<陽成天皇の次の次の天皇で、仁明天皇の孫にして清和天皇の従兄弟にあたる>宇多天皇<(867~931年。天皇:887~897年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%A4%9A%E5%A4%A9%E7%9A%87 >の皇子のうち、第八皇子敦実親王の三男・雅信王が、・・・936年・・・に臣籍降下して源朝臣の姓を賜い源雅信と称した。
 公家華族としては、庭田家(羽林家)・綾小路家(羽林家)・五辻家(半家)・大原家(羽林家)・慈光寺家(半家)などが繁栄し<たが>、武家としては、源雅信の四男、源扶義の子孫の佐々木氏は、近江国を本貫として繁栄し、嫡流は六角氏、京極氏と分流して近江源氏と称されて繁栄し<、>・・・また、佐々木秀義の五男、佐々木義清が承久の乱以降、隠岐国・出雲国の両国を賜い、彼地に下向して繁栄し出雲源氏と呼ばれる武士団を形成した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%A4%9A%E6%BA%90%E6%B0%8F
ところ、これは、宇多天皇が従兄弟に張り合って、武家第三号の形成を図った結果であったのかもしれませんね。(太田)

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[源平藤橘]

 平氏と源氏は説明済みなので、藤原氏と橘氏について説明しておく。

〇藤原氏

 「藤原北家<の>・・・藤原魚名<(721~783年)の次男の>鷲取の子孫からは鎌倉時代の有力御家人で秋田城介を世襲した安達氏や戦国大名として有名な伊達氏等、多数の有力武家を輩出した。
 また、平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷は藤成の子孫(魚名 – <その五男の>藤成 – 豊澤 – 村雄 – 秀郷)を称し、こちらもその子孫からは奥州藤原氏や結城氏・大友氏・近藤氏等、多数の有力武家を輩出した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%AD%9A%E5%90%8D
 安達氏は本当らしいが、藤原北家ではあっても、魚名ではなく伊尹の末裔とする記述もある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%81%94%E6%B0%8F
 「伊達氏の出自が藤原北家であるというのはあくまで自称に過ぎないとする説<が>ある。例えば太田亮は・・・「桓武平氏常陸大掾平維幹(平繁盛の子)の子為賢の末」説を挙げている。さらに下毛野氏とする説も提唱されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E6%B0%8F
 秀郷については、北家魚名流とするのが通説。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A7%80%E9%83%B7

 これは、藤原氏が、皇親であるとの自覚があったところへ、復活天智朝が武家創出に乗り出したのを見て、それに倣ったもの、と見たい。

〇橘氏

 「橘氏は、県犬養三千代(橘三千代)が姓を賜ったのち、子の葛城王(橘諸兄)・佐為王(橘佐為)も橘宿禰の姓を賜ったことに始まる。・・・
 平安時代中期まで代々公卿を輩出したが、その後は橘氏公卿が絶え、以後振るわなかった。
 ただし、楠木氏は本姓を橘氏と自称し、南北朝時代の・・・1382年・・・に楠木正儀(楠木正成の三男)が南朝の参議に任じられ、公卿となっている。・・・
 [しかし、楠木正成以前の系図は諸家で一致せず、確実なのは、河内の悪党の棟梁格だったこと<だけ>である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A0%E6%9C%A8%E6%B0%8F ]
 藤原純友の鎮圧のために大宰権帥として九州へ下向した参議橘公頼の子孫は、そのまま筑後に土着して武士となり、筑後橘氏を称したとされている。・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E6%B0%8F
 但し、「武士となり」は疑問。
 「橘諸兄の五代後の橘広相の五男、従三位中納言の橘公頼が大宰権帥として九州に下向し、藤原純友の乱の時に大宰府に迫った純友の弟の藤原純乗の軍勢を柳川の東方の蒲池で撃退した。その功により公頼の三男の橘敏通は蒲池の領主とな<った。>・・・
 治承・寿永の乱(源平合戦)の功で幕府の西国御家人となり筑後国三潴郡の地頭職となった嵯峨源氏の源久直(蒲池久直)が橘氏の娘婿となり蒲池氏の初代となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E6%B0%8F_(%E7%AD%91%E5%BE%8C%E5%9B%BD)
というのだから、領主であっても「武士」と言えるかどうか、疑わしいからだ。
 それにそもそも、蒲池氏のウィキペディアには、「橘敏通の子孫が蒲池城に拠り蒲池の領主となったとする説もあるが、これも伝承の域を出ない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E6%B1%A0%E6%B0%8F
とある。
 結局のところ、「蒲池氏は歴史的に見ると、嵯峨源氏そして嵯峨源氏渡辺党松浦氏族の「前蒲池」時代(鎌倉時代~南北朝時代)と、藤原氏系宇都宮氏族の「後蒲池」時代(室町時代~戦国時代)がある。」(上掲)ところ、立花氏とは無縁の、嵯峨源氏/(その後婿入りを通じての)藤原氏、系の武士一族と見てよいのではなかろうか。
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[武家の神社]

〇八幡宮–弥生人の神

 「八幡神を祭神とする神社。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE
 「現在の神道では、八幡神は応神天皇(誉田別命)の神霊で、・・・571年・・・に初めて宇佐の地に示顕したと伝わる。応神天皇(誉田別命)を主神として、比売神<(注108)>、応神天皇の母である神功皇后を合わせて八幡三神として祀っている。<(注109)>

 (注108)「神社の祭神を示すときに、主祭神と並んで<「大」抜きの>比売神(<ひめがみ。>比売大神)、比咩神、姫大神などと書かれる<場合がある>。これは特定の神の名前ではなく、神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神を指すものである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E5%A3%B2%E7%A5%9E
 (注109)「宇佐神宮の祭神は、八幡大神(・・・応神天皇)、比売大神(多岐津姫命、市杵嶋姫命、多紀理姫命)、神功皇后で、・・・725年、・・・聖武天皇の時・・・に創建された。
 [主神は、一之御殿に祀られている八幡大神の応神天皇であるが、ただ実際に宇佐神宮の本殿で主神の位置である中央に配置されているのは比売大神であり、なぜそうなっているのかは謎とされている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E4%BD%90%E7%A5%9E%E5%AE%AE ]

⇒これは、真の主神は素戔嗚(後述)であって、応神天皇は仮の主神だ、という気持ちの表れだ、と、私は見たい。
 いずれにせよ、応神天皇は「武士にとって不可欠な馬を日本に導入した人物であるから」(コラム#11163)祀られたのだろう。(太田)

 全国4万社の八幡神社の総本宮である。
 地元では宇佐神宮創建前は比売大神を祀っていたが、571年(29代欽明天皇の時)に応神天皇の神霊が宇佐の地に示顕した。

⇒真の主神の素戔嗚が実は隠されているということに目を付けた秦氏が、カネの力にモノを言わせて、仮の主神の比売大神を応神天皇で差し替えさせた、と、私は見たい。(太田)

 725年に応神天皇を祀る宇佐神宮を創建し、神託により・・・731年・・・に地元で古くから崇敬されていた比売大神を二之御殿にお祀りした。
 [740年・・・の藤原広嗣の乱の際には、官軍の大将軍の大野東人が決戦前に戦勝を祈願した。(上掲)]
 宇佐神宮は聖武天皇・・・の東大寺大仏建立(752年)に多くの貢献をし、配下にあった香春岳(かわらだけ)の銅を提供、大仏鋳造作業にも協力した。
 東大寺は大仏建立に協力した宇佐八幡神を勧請して手向山八幡宮を東大寺の鎮守社とした。そして八幡神は八幡大菩薩となり神仏習合の元となる。<(注110)>

 (注110)手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)のウィキペディアには、「749年・・・、東大寺及び大仏を建立するにあたって宇佐八幡宮より東大寺の守護神として勧請された。当初は平城宮南の梨原宮に鎮座し、後に東大寺大仏殿南方の鏡池付近に移座したが、・・・1180年・・・の平重衡による戦火で焼失、・・・1250年・・・に北条時頼が現在地<の>・・・東大寺大仏殿前の道を東に行った正面・・・に再建した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E5%90%91%E5%B1%B1%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE
とあり、創建年が一致していない。
 「天平勝宝2<(750)>年2月には一品八幡神を迎え神仏習合の形とな<った>」
http://www12.plala.or.jp/HOUJI/jinja-2/newpage765.htm 
ともあるほか、「八幡大菩薩<という>・・・称号<は、>・・・781・・・年宇佐八幡神を護国霊験威力神通大菩薩と称したのに始るとされる。」
https://kotobank.jp/word/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%A4%A7%E8%8F%A9%E8%96%A9-114834

⇒光仁天皇は781年4月30日に桓武天皇に譲位しその翌年の1月11日に崩御しているところ、宇佐八幡神を護国霊験威力神通大菩薩と称せしめたのは、桓武天皇が最初に打ち出した重要政策であったと思われる。
 だから、「八幡神は八幡大菩薩となり神仏習合の元となる」というのは、このことであるはずなのに、手向山八幡宮の文脈の中でこのことを記し、あたかも、東大寺側のイニシアティブでそうなったかのように読める記述になっているのはおかしいし、「天平勝宝2<(750)>年2月には一品八幡神を迎え神仏習合の形とな<った>」というのは、単なる憶測である、と思う。(太田)

 また宇佐神宮は神託により、神功皇后を・・・823年、・・・嵯峨天皇の時・・・に三之御殿にお祀りした。・・・
 宇佐神宮は宇佐氏の磐座信仰が当初の形態のよう<だ>。・・・
 そして、素戔嗚の子・五十猛命(いそたける)が始祖と云う辛嶋氏が比売大神信仰をもたらせた。
 宇佐神宮の「奥宮」は南東5kmにある御許山(おもとさん、647m)の大元神社で、山の9合目に拝殿があり本殿はなく山頂の磐座(禁足地)がご神体となっている。
 ここに比売大神三柱が降臨したと云われる。そして大元神社に向かい合っている境内社は大元八坂神社で祭神は比売大神の父神・須佐男命<だ>。
 奥宮の大元神社の祭神が比売大神と須佐男命で、後に応神天皇と神功皇后が祀られて宇佐神宮の創建となったよう<だ>。・・・
  京都府八幡市(やわたし)の石清水八幡宮は平安時代前期に宇佐神宮から勧請され、京都御所の裏鬼門を守護する神社として皇室や源氏から崇敬された。源義家・・・は石清水八幡宮で元服し、八幡太郎義家と名乗った。
 源頼朝・・・ゆかりの鶴岡八幡宮・・・は源氏と鎌倉武士の守護神となった。
 八幡神は清和源氏、桓武平氏などから武神・弓矢八幡として崇敬された。しかし、宇佐神宮の大宮司・宇佐公通(うさのきんみち、豊前国司兼務・・・)は平清盛・・・の娘を正妻としたので、源平合戦の時に平氏の味方をした。これにより宇佐神宮が源氏の焼き討ちに遭<った>・・・。
 八幡神社や八幡神信仰は秦氏と関係が深いと云われるが、秦氏は応神天皇の時(4世紀末)に宇佐に渡来して、大和、山背、丹後など全国に移り住み、八幡信仰を広めた。
 八幡宮、八坂神社、八雲、八重垣、八岐大蛇、八王子など、八は素戔嗚の聖数<だ>。「本来の八幡神は素戔嗚尊と比売大神であったが、素戔嗚尊は追い出された。」という説を展開して<い>る人もあ<る>。
 その説によると、全国に四万社を超える八幡神社があり、八幡神が源氏や武家の守護神となったのは素戔嗚が最高の武神だったからで、「宇佐」は「須佐」の転訛だと云<う>。」
https://enkieden.exblog.jp/23088384/ ←印南神吉氏のブログより。
 「秦氏<は、>・・・『新撰姓氏録』によれば秦の始皇帝の末裔で応神14年(283年)百済から日本に帰化した弓月君(融通王)が祖とされる。朝廷の設立や土地の開拓などに深く携わった氏族であり、その勢力は8世紀、9世紀に更に拡大されたと云われている<が、>・・・<これに異を唱える>諸説・・・がある。・・・
 新羅系渡来氏族。聖徳太子に仕えた秦河勝は新羅仏教系統を信奉していたが、これは蘇我氏と漢氏が百済仏教を信奉していたのと対照的である(平野邦雄・直木孝次郎・上田正昭)。
 ・・・秦韓(辰韓)を構成した国の王の子孫。新羅の台頭によりその国が滅亡した際に王であった弓月君が日本に帰化した(太田亮)。・・・

⇒私は、秦氏が新羅から渡来したとする説を採りたい。(太田)

 神功皇后、応神天皇の時代に秦氏一族が渡来(数千人から1万人規模)したとの記録が残って<いる。>・・・
 天智天皇は秦氏による山背国(山城国)への開拓(遷都)を薦めていたが未開のままとなる。・・・桓武天皇即位により皇統が天智天皇流に戻り、これにより再び開拓がなされ、・・・784年・・・に長岡京を造営。・・・794年・・・には和気清麻呂・藤原小黒麻呂(北家)らの提言もあり、平安京への遷都となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E6%B0%8F
 「769年・・・5月、道鏡の弟で大宰帥の弓削浄人と[宇佐八幡宮の神官を兼ねていた大宰府の主神(かんづかさ)<の>・・・習宜阿曾麻呂<(すげのあそまろ)>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%B0%97%E6%B8%85%E9%BA%BB%E5%91%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%87%A3%E7%BF%92%E5%AE%9C%E9%98%BF%E6%9B%BE%E9%BA%BB%E5%91%82 ]が「道鏡を皇位につかせたならば天下は泰平である」という内容の宇佐八幡宮の神託を奏上し、道鏡は自ら皇位に就くことを望む。称徳天皇は宇佐八幡から法均(和気広虫)の派遣を求められ、虚弱な法均に長旅は堪えられぬとして、弟である和気清麻呂を派遣した。
 清麻呂は天皇の勅使として8月に宇佐神宮に参宮。宝物を奉り宣命の文を読もうとした時、神が禰宜の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣、宣命を訊くことを拒む。清麻呂は不審を抱き、改めて与曽女に宣命を訊くことを願い出る。与曽女が再び神に顕現を願うと、身の丈三丈、およそ9mの僧形の大神が出現。大神は再度宣命を訊くことを拒むが、清麻呂は「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」という大神の神託を大和に持ち帰り奏上する。
 道鏡を天皇に就けたがっていたと言われる称徳天皇は報告を聞いて怒り、清麻呂<は>・・・処罰された。
 <それでも、>10月1日には詔を発し、皇族や諸臣らに対して聖武天皇の言葉を引用して、妄りに皇位を求めてはならない事、次期皇位継承者は聖武天皇の意向によって自ら(称徳天皇)自身が決める事を改めて表明する。・・・
 山上伊豆母によれば、・・・749年・・・に宇佐八幡宮から祢宜の外従五位下・大神社女と主神司従八位下・大神田麻呂が建設中の東大寺盧舎那仏像を支援すると言う神託を奉じて平城京を訪れた。これによって宇佐八幡宮は封戸と「八幡大菩薩」の称号を授けられ、これを勧進した両名にもそれぞれ朝臣の姓と従四位下と外従五位下の官位が授けられた。ところが、・・・754年・・・にはこの時の両名が薬師寺の行信と組んで厭魅を行ったとして位階と姓の剥奪と流刑に処せられた。
 これは宇佐八幡宮の社会的影響力の増大が、皇室と律令制・鎮護国家が形成する皇室祭祀と仏教を基軸とする宗教的秩序に対する脅威になる事を危惧したからだと考えられる。翌年には宇佐八幡宮から再神託があり、先年の神託が偽神託であったとして封戸の返却を申し出たとされている。これも朝廷からの宇佐八幡宮への圧迫の結果であると見られる。
 このような路線確立に大きな影響力を与えてきた藤原仲麻呂が失脚して、仏教僧でありながら積極的に祈祷を行うなどの前代の男巫的要素を併せ持った道鏡が政権の中枢に立ったことによって、宇佐八幡宮側が失地回復を目指して道鏡側に対して接触を試みたと本説は解釈する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E4%BD%90%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE%E7%A5%9E%E8%A8%97%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 
⇒秦氏は、(復活天智朝を含む)天智朝の別動隊になっていた、と見たい。
 道鏡を巡る、宇佐八幡宮神託事件については、弓削浄人らの奏上したのは偽勅であり、これを無効にすべく、秦氏から促された宇佐八幡宮側が和気氏に根回しを行った上で、この偽勅の真偽を確かめるための勅使を和気氏から派遣するように称徳天皇に上奏した、ということではなかったか。(太田)

 また、八幡三神のうち、<大>比売神や、神功皇后に代えて仲哀天皇<(注111)>や、武内宿禰<(注112)>、玉依姫命<(注113)>を祀っている神社も多くあり、安産祈願の神という側面(宇美八幡宮など)もある。・・・

 (注111)「日本武尊の子で神功皇后の夫<で応神天皇の父>。実在性は定かでない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B2%E5%93%80%E5%A4%A9%E7%9A%87
 (注112)「孝元天皇<の孫又は曽孫>にあたる。・・・
 景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣である。紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされる。
 『日本書紀』『古事記』の記す武内宿禰の伝承には、歴代の大王に仕えた忠臣像、長寿の人物像、神託も行う人物像等が特徴として指摘される。特に、大臣を輩出した有力豪族の葛城氏・平群氏・巨勢氏・蘇我氏ら4氏が共通の祖とすることから、武内宿禰には大臣の理想像が描かれていると指摘がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
 (注113)タマヨリビメ。「神武天皇(初代天皇)の母であり、天皇の祖母である豊玉毘売の妹。・・・名義は「神霊が依り憑く巫女」と考えられる。・・・特に穀霊を依り憑かせる巫女であったと考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%9E%E3%83%A8%E3%83%AA%E3%83%93%E3%83%A1_(%E6%97%A5%E5%90%91%E7%A5%9E%E8%A9%B1)

 八幡神は応神天皇の神霊とされたことから皇祖神としても位置づけられ、『承久記』には「日本国の帝位は伊勢天照太神・八幡大菩薩の御計ひ」と記されており、天照皇大神に次ぐ皇室の守護神とされていた。誉田八幡宮の創建と応神天皇とのつながりが古くから結び付けられ、皇室も宇佐神宮(宇佐八幡宮)や石清水八幡宮を伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟として崇敬した。・・・
 八幡神を応神天皇とした記述は『古事記』・『日本書紀』・『続日本紀』にはみられず、八幡神の由来は応神天皇とは無関係であった。『東大寺要録』や『住吉大社神代記』に八幡神を応神天皇とする記述が登場することから、奈良時代から平安時代にかけて応神天皇が八幡神と習合し始めたと推定される。八幡神社の祭神は応神天皇だが、上述の八幡三神を構成する比売神、神功皇后のほか、玉依姫命や応神天皇の父である仲哀天皇とともに祀っている神社も多い。・・・
 東大寺の大仏を建造中の・・・749年・・・、宇佐八幡の禰宜の尼が上京して八幡神が大仏建造に協力しようと託宣したと伝えたと記録にあり、早くから仏教と習合していたことがわかる。・・・

⇒これが事実だとしても、そんなことは神道と仏教の習合とは言えない。
 そもそも、前述したように、当時、神道も仏教も国家宗教だったので、互いに敵対意識などなかったはずだ。(太田)

 781年・・・朝廷は宇佐八幡に鎮護国家・仏教守護の神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神号を贈った。これにより、全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されるようになり、八幡神が全国に広まることとなった。後に、本地垂迹においては阿弥陀如来が八幡神の本地仏とされた。・・・
 称徳天皇が死去してその異母妹である井上内親王を夫とする光仁天皇が即位するが、間もなく井上内親王は廃位されて謎の死を遂げたために聖武天皇の血統は絶えた。その後、別の妃の子である山部親王(後の桓武天皇)が皇太子となるが天災が相次いだ。朝廷では称徳天皇や井上内親王、そして彼女達の父である聖武天皇の祟りと恐れた。そんな中で、・・・聖武天皇の葬儀から29周年にあたる日・・・に八幡神が「出家」し(『八幡宇佐宮御託宣集』および『石清水八幡宮并極楽寺縁起之事』奥書)、・・・781年・・・に「八幡大菩薩」の号が贈られた。これは、当時の朝廷が聖武天皇が没後に八幡神と結合したと考え、八幡神に菩薩号を与えて聖武天皇が深く信仰した仏教の守護神とすることでその祟りを防ごうとしたと考えられる。・・・

⇒私は、前述したように、鎮護国家教仏教の弱体化を図るために、復活天智朝が、聖武天皇の説話を流布させることで目くらましをかけつつ、八幡神を仏教と結合させ、八幡大菩薩なる習合号を生み出し神仏習合を奨励することで、鎮護国家教仏教の弱体化を図った、と見ているわけだ。(太田)

 「八幡」の文字が初めて出てくるのは『続日本紀』であり、その記述は天平9年(737年)の部分にみられる。読み方は天平勝宝元年(749年)の部分にある宣命の「広幡乃八幡(ヤハタ)大神」のように「ヤハタ」と読み、『日本霊異記』の「矢幡(ヤハタ)神」や『源氏物語』第22帖玉鬘の「ヤハタの宮」のように「八幡」は訓読であったが、のちに[いつ?]神仏習合して仏者の読み「ハチマン」、音読に転化したと考えられる。
 「幡(はた)」とは「神」の寄りつく「依り代(よりしろ)」としての「旗(はた)」を意味する言葉とみられる。八幡(やはた)は八つ(「数多く」を意味する)の旗を意味し、神功皇后は三韓征伐(新羅出征)の往復路で対馬に寄った際には祭壇に八つの旗を祀り、また応神天皇が降誕した際に家屋の上に八つの旗がひらめいたとされる。
 八幡神は北九州の豪族宇佐国造宇佐氏の氏神として宇佐神宮に祀られていたが、数々の奇端を現して大和朝廷の守護神とされた。歴史的には、託宣をよくする神としても知られる。
 748年・・・9月1日、八幡神は出自に関して「古へ吾れは震旦国(<支那>)の霊神なりしが、今は日域(日本国)鎮守の大神なり」(『宇佐託宣集』巻二、巻六)と託宣している。しかし、「逸文」『豊前国風土記』に、「昔、新羅国の神、自ら度り到来して、此の河原〔香春〕に住むり」とある。・・・ 

⇒新羅は支那から流入した秦人が人民であった辰韓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B0%E9%9F%93
の十二国のうちの一つの斯蘆国が起源であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85
北部支那の中でも、遊牧民(西戎)的色彩を帯びていた秦(コラム#省略)に起源を有する神が八幡神だということではないか。
 だからこそ、八幡神は弥生人性の象徴たりえた、と考えたい。(太田)

 清和源氏、桓武平氏を始めとする武家に広く信仰された。
 『吾妻鏡』「文治五年の条」には、源頼朝が9月21日に胆沢の鎮守府にある鎮守府八幡宮<(注114)>への参詣の様子が記されており、この八幡宮が坂上田村麻呂<(注115)>によって蝦夷征討の際に勧進され、弓箭や鞭などが納められ今も宝蔵にあるなど由来を記している。

 (注114)現在の岩手県奥州市水沢に鎮座する神社。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%AE%E5%AE%88%E5%BA%9C%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE
 「社伝では坂上田村麻呂が宇佐神宮を鎮守府胆沢城(現岩手県奥州市水沢)に勧請し鎮守府八幡宮と称したことに始まり、室町時代に入り奥州管領であった大崎氏が本拠地(現宮城県大崎市)に遷したため、大崎八幡宮と呼ばれるようになったという。・・・
 大崎氏改易後の・・・1604年・・・、伊達政宗が仙台城(地図)から見て北西(乾)かつ仙台城下町(地図)北西端の現在地に造営を始めた。・・・
 ・・・1607年・・・、従来伊達氏が祀ってきた成島八幡宮と合祀して遷座し、仙台城下の乾(戌亥・北西)天門の鎮めとした(当宮の西隣の鶏沢には堤も造られた)。以前に大崎氏の家臣が行なっていた流鏑馬の神事は、その旧臣3人が祭りの日に仙台までやって来て勤めた。仙台藩は・・・1638年・・・から彼らに旅費を支給した。後に社職の者も加わって4人が勤めた。・・・
 社殿(本殿・石の間・拝殿)は国宝」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B4%8E%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE
 「大崎氏は、陸奥大崎5郡を支配した大名。本姓は源氏。家系は清和源氏のひとつ、河内源氏の流れを汲む足利一門で、南北朝時代に奥州管領として奥州に下向した斯波家兼を始祖とする斯波氏の一族。・・・さらに、支流には最上氏、天童氏などがある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B4%8E%E6%B0%8F
 「伊達氏<は、>・・・出自は魚名流藤原山蔭の子孫と称し、藤原家が統治していた常陸国伊佐郡や下野国中村荘において伊佐や中村と名乗り、鎌倉時代に源頼朝より伊達郡の地を与えられ伊達を名乗ったとされている。ただし、伊達氏の出自が藤原北家であるというのはあくまで自称に過ぎないとする説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E6%B0%8F
 (注115)「田村麻呂の生まれた「坂上忌寸」は、後漢霊帝の曽孫阿智王を祖とする漢系渡来系氏族の東漢氏と同族を称し、代々弓馬や鷹の道を世職として馳射(走る馬からの弓を射ること)などの武芸を得意とする家系で、数朝に渡り宮廷に宿衛して守護したことから武門の誉れ高く天皇の信頼も厚い家柄であった。・・・
 770年・・・に称徳天皇が崩御して光仁天皇が即位すると、父・苅田麻呂が道鏡の姦計を告げて排斥した功績により同年9月16日に陸奥鎮守将軍に叙任されている(宇佐八幡宮神託事件)。・・・771年・・・閏3月1日に佐伯美濃が陸奥守兼鎮守将軍となり、苅田麻呂が安芸守となるまで半年ほどの在職期間ではあったが、その間は鎮守府のある多賀城に赴任していたものと思われる。律令では21歳未満であれば同道出来ることから、13歳前後であった田村麻呂は父とともに陸奥国で幼少期を過ごしていた可能性もある。・・・
 781年・・・4月3日、光仁天皇は山部親王に譲位して桓武天皇が即位した。桓武の生母である高野新笠は武寧王を祖とする百済系渡来系氏族の和氏出身で、帰化人の血を引く桓武の登場によって渡来系氏族は優遇措置がなされることもあった。・・・
 791年・・・1月18日に桓武朝第二次蝦夷征討が具体化すると、田村麻呂は百済王俊哲と共に東海道諸国へと派遣され、兵士の簡閲を兼ねて戒具の検査を実施、征討軍の兵力は10万人ほどであった。7月13日に大伴弟麻呂が征東大使に任命されると、田村麻呂は百済王俊哲・多治比浜成・巨勢野足とともに征東副使となった。軍監16人、軍曹58人と伝わるが、軍曹の多さが異例であることから、実戦部隊の指揮官級を多くする配慮ともみれる。なお実戦経験がないはずの田村麻呂が副使として登用された理由は不明だが、朝廷からみても田村麻呂の戦略家・戦術家としての能力は未知数であったと思われる。・・・
 796年・・・1月25日、田村麻呂は陸奥出羽按察使兼陸奥守に任命されると、10月27日には鎮守将軍も兼ねることになった。・・・
 延暦20年・・・801年・・・2月14日、田村麻呂が44歳のときに征夷大将軍として節刀を賜って平安京より出征する。軍勢は4万、・・・
 802年・・・1月9日、田村麻呂は造陸奥国胆沢城使として胆沢城を造営するために陸奥国へと派遣された。同月11日には、諸国等10ヵ国の浪人4000人を陸奥国胆沢城の周辺に移住させることが勅によって命じられている。かつては胆沢城の造営について、大墓公阿弖利爲らを降伏に追い込む契機となった出来事ではないかと指摘されてきた。近年では和平交渉の結果、阿弖利爲らの正式降伏に向けてシナリオが定まり、それにともなって戦闘が全面的に終結したため、本格的な造営工事の着手が可能になったとの見方もされている。・・・
 陸奥国に胆沢城と志波城を築いたこともあり、・・・804年・・・1月19日に桓武朝第四次蝦夷征討が計画され、7ヵ国が糒1万4315斛・米9685斛を陸奥国小田郡中山柵に搬入するよう命じられている。これを受けて田村麻呂は28日に再び征夷大将軍に任命された。田村麻呂にとっては3度目の遠征であ<った。>・・・
 騒速は兵庫県加東市にある播州清水寺に伝わる宝刀で、寺伝では、同寺に深く帰依していた田村麻呂の佩刀とその副剣とされているが、3口のうち田村麻呂の佩刀と副剣の内訳が不明である。3口は直刀から湾刀に至る変遷過程にあり、ごくわずかに反りを伴うことから、日本刀が出現する直前期の姿を留める伝世品として他に例がないため、きわめて貴重な作例である。・・・
 源満仲から摂津介に任じられた坂上頼次を初代山本荘司とする山本坂上氏からは戦国武将の坂上頼泰や、今出川家諸大夫山本家(町口家)を輩出している。
 <また、坂上田村麻呂の娘の>春子は桓武天皇の妃で葛井<(ふじい)>親王<(前出)>を産み、血筋は清和源氏とその分流へ受け継がれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%B8%8A%E7%94%B0%E6%9D%91%E9%BA%BB%E5%91%82 

 八幡神を崇敬していた鎌倉方が、平安京の南西に岩清水八幡宮が勧進されるより以前に、<桓武天皇と縁の深い、>田村麻呂によって陸奥に八幡神が勧進されていたことに驚いて『吾妻鏡』に記述した。<(コラム#10238参照)>
 清和源氏は八幡神を氏神として崇敬し、日本全国各地に勧請した。源頼義は、河内国壷井(大阪府羽曳野市壷井)に勧請して壺井八幡宮を河内源氏の氏神とした。また、その子の源義家は石清水八幡宮で元服し自らを「八幡太郎義家」を名乗った。
 平将門は『将門記』では・・・939年・・・に上野(こうずけ)の国庁で八幡大菩薩によって「新皇」の地位を保証されたとされている。このように八幡神は武家を王朝的秩序から解放し、天照大神とは異なる世界を創る大きな役割があったとされ、そのことが、武家が守護神として八幡神を奉ずる理由であった。

⇒将門が何を願掛けしたかはともかく、「八幡神は王朝的秩序を維持し、天照大神の世界を守る大きな役割を武士に与えたとされ、」でなければならない。
 とまれ、以上に登場する大崎八幡宮は、私の仙台在勤中の官舎のすぐ側にあり、散歩等でよく立ち寄っていたし、以上と以下に登場する石清水八幡宮は、私が市民講座の講師を2度にわたって務めた八幡市に所在し、見学に連れて行ってもらったことがある、というわけで、どちらも、私と奇遇以上のご縁があるのは面白い。(太田)

 ・・・939年・・・の藤原純友・平将門の乱(承平天慶の乱)では調伏が石清水八幡宮で祈願され、平定後に国家鎮護の神としての崇敬が高まった。そのため、石清水八幡宮への天皇・上皇の行幸・御幸は、円融天皇以来240回にも及んだ。
 ・・・1180年・・・、平家追討のため挙兵した源頼朝が富士川の戦いを前に現在の静岡県黄瀬川八幡付近に本営を造営した際、奥州からはるばる馳せ参じた源義経と感激の対面を果たす。静岡県駿東郡清水町にある黄瀬川八幡神社には、頼朝と義経が対面し平家追討を誓い合ったとされる対面石が置かれている。源頼朝の奥州合戦では「伊勢大神宮」「八幡大菩薩」の神号の意匠が入った錦の御旗が用いられた。

⇒上述のような意識の下、縄文性の神と弥生性の神とをそれぞれ象徴する2竿の旗、を武士が用いることを王朝(朝廷=天皇)は認めるようになった、というわけだ。(太田)

 源頼朝が鎌倉幕府を開くと、八幡神を鎌倉へ迎えて鶴岡八幡宮とし、御家人たちも武家の守護神として自分の領内に勧請した。それ以降も、武神として多くの武将が崇敬した。また室町幕府が樹立されると、足利将軍家は足利公方家ともども源氏復興の主旨から、歴代の武家政権のなかでも最も熱心に八幡信仰を押し進めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E

〇お諏訪さま–弥生性の神
 
 「『古事記』『先代旧事本紀』では、天照大御神の孫・邇邇芸命の降臨に先立ち、建御雷神が大国主神に国譲りするように迫ったとされる。これに対して、大国主神の次男である建御名方神<(タケミナカタ)>が国譲りに反対し、建御雷神に戦いを挑んだが負けてしまい、諏訪まで逃れた。そして、以後は諏訪から他の土地へ出ないこと、天津神の命に従うことを誓ったとされる。説話には社を営んだことまでは記されていないが、当社の起源はこの神話にあるといわれている。なお、この説話は『日本書紀』には記載されていない。

⇒建御名方神が粛慎(前出)の氏神であったとすれば、お諏訪さまが弥生性の神的なものとして崇敬されるようになったことは理解できるというものだ。(太田)

 一方で、諏訪地域に伝わる神話では建御名方神(諏訪明神)が諏訪に侵入した征服者として描かれている。これによると先住神の洩矢神(守矢氏の遠祖)が建御名方神と対抗しようとして戦いを挑むも敗れ、最終的に諏訪の統治権を建御名方神に譲ったと言われている。またもうひとつの伝承によると、諏訪明神が8歳の男児に自分の装束を着せつけた後に「我に体なし、祝(ほうり)を以て体とす」と告げて自分の身代わり(神体)として認定した。この少年はやがて守屋山麓に社壇(後の上社)を構えて上社大祝を務める神氏(諏訪氏)の始祖となったと言われている。
 以上はあくまでも神話の域を出ないが、これを基に先住の勢力(守矢氏)の上に外から入った氏族(上社の神氏・下社の金刺氏)によって成立したのが当社であると考えられている。諏訪一帯の遺跡分布の密度・出土する土器の豪華さは全国でも群を抜いており、当地が繁栄していた様子がうかがわれる。・・・
 古くから軍神として崇敬され、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際に戦勝祈願をしたと伝えられる。・・・

⇒ここにもまた、田村麻呂が登場させられていることが意味するところは重大だ、ということだ。(太田)

 平安時代末期には平頼盛領となっており、鎌倉時代になると平家没官領として源頼朝に給付された。頼朝は諏訪大社に神馬を奉納し、信濃御家人に対しては、毎年恒例の重要祭事である五月会や上社南方の御射山で行われた御射山祭における頭役(祭礼の世話役)を務める神役勤仕(しんやくごんじ)を徹底させ、大祝に従うべきことを命じている。・・・1329年・・・幕府が上社に発給した「頭役下知状案」では信濃の地頭・御家人が十四番に編成され、輪番制で1年毎に頭役に勤仕したことが示されている。頭役に任じられた御家人は鎌倉番役(将軍御所等の警護任務)を免除される特権が与えられ、自らの家格や権勢、財力の誇示にもつながることから、熱心に勤仕した。五月会や御射山祭には鎌倉を始め甲斐・信濃など周辺の武士が参加した。それに加えて、軍神としての武士からの崇敬や諏訪氏の鎌倉・京都への出仕により、今日に見る諏訪信仰の全国への広まりが形成された。

⇒毎年、頼朝が諏訪大社で武士達に「演習」を行わせたのはそれが弥生性の神だったからだ、と解さなければ説明できまい。(太田)

 また、諏訪両社においても大祝を中心として武士団化が進み、両社間で争いも多かった。
 この頃には「諏訪社」の表記が見られ、また「上宮」・「上社」の記載もあり、上社・下社に分けられていた。なお、・・・1180年・・・が上下社の区別が明示されている初見である。他の神社同様、当社も神仏習合により上社・下社に神宮寺が設けられて別当寺(神社を管理する寺)となり、上社は普賢菩薩<(注116)>・下社は千手観音<(注117)>が本地仏とされた。・・・

 (注116)「女人成仏を説く法華経に登場することから、特に女性の信仰を集めた。密教では菩提心(真理を究めて悟りを求めようという心)の象徴とされ、同じ性格を持つ金剛薩埵と同一視される。そのため普賢菩薩はしばしば金剛薩埵の別名でもある金剛手菩薩(こんごうしゅぼさつ)とも呼ばれる。「遍吉(へんきち)」という異名があり、滅罪の利益がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E8%B3%A2%E8%8F%A9%E8%96%A9
 「金剛薩埵<(こんごうさった)は、>・・・真言密教の教理体系の中心である大日如来と衆生の菩提心をつなぐ役割をもつ一尊。・・・サンスクリット語ではバジラサットバVajra-sattvaという。バジラは金剛、堅い、サットバは薩と音写し、<それぞれ、>勇猛、有情(うじょう)の意。」
https://kotobank.jp/word/%E9%87%91%E5%89%9B%E8%96%A9%E5%9F%B5-67181
 「サットバとは存在するもの,また心識をもつものの意で,・・・古くは衆生と漢訳し,唐代の玄奘以後のいわゆる新訳では有情と訳されている。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%89%E6%83%85-34541
 (注117)千手観音菩薩(せんじゅかんのんぼさつ、梵: ・・・sahasrabhuja・・・、サハスラブジャ)は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊。「サハスラブジャ」とは「千の手」あるいは「千の手を持つもの」の意味である。この名はヒンドゥー教のヴィシュヌ神やシヴァ神、女神ドゥルガーといった神々の異名でもあり、インドでヒンドゥー教の影響を受けて成立した観音菩薩の変化身(へんげしん)と考えられている。・・・
 千本の手は、どのような衆生をも漏らさず救済しようとする、観音の慈悲と力の広大さを表している。観音菩薩が千の手を得た謂われを述べた仏典としては、伽梵達摩訳『千手千眼觀世音菩薩廣大圓滿無礙大悲心陀羅尼經』がある。この経の中に置かれた『大悲心陀羅尼』は現在でも<支那>や日本の天台宗、禅宗寺院で読誦されている。・・・
 日本での千手観音信仰の開始は古く、空海が正純密教を伝える以前、奈良時代から造像が行われていた。東大寺には天平年間に千手堂が建てられたことが知られ、同寺の今はない講堂にも千手観音像が安置されていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E6%89%8B%E8%A6%B3%E9%9F%B3

⇒普賢菩薩は、弥生性の担い手として、人間の心を持ちつつ勇猛に殺戮を行う武士、の守護仏であり、そんな武士の滅罪をしてくれる存在でもあるので、諏訪大社の主仏に採択され、千手観音は、かかる弥生性の担い手たる武士に殺戮の目的が衆生の救済であることを思い起こさせる仏として、諏訪大社の副仏に採択された、というのが、私の取敢えずの解釈だ。
 そして、桓武天皇は、こういった解釈を正当化すると共に精緻化するために、密教の正式継受をすべく空海を唐に派遣した、と見るわけだ。(太田)

 1212年・・・、幕府は諸国の守護・地頭に鷹狩禁止令を出したが、諏訪大明神の「神御贄鷹」については例外的に許可し、諸国の御家人が諏訪大社を相次いで勧請する契機となった。また諏訪神党に属する根津氏の鷹匠流派が確立した。
 戦国時代に甲斐国の武田氏と諏訪氏は同盟関係にあったが、1542年・・・には手切れとなり、武田晴信(信玄)による諏訪侵攻が行われ、諏訪郡は武田領国化される。信玄によって・・・1565年・・・から翌年にかけて上社・下社の祭祀の再興が図られた。信玄からの崇敬は強く、戦時には「南無諏訪南宮法性上下大明神」の旗印を先頭に諏訪法性兜をかぶって出陣したと伝えられる。
 1582年・・・3月には織田・徳川連合軍による武田領侵攻が行われ、同年3月2日には高遠城を陥落させた<信長長男の>織田信忠の軍勢が諏訪郡へ侵攻し、3月3日には上社への放火を行った。・・・

⇒事実だとすれば、これも明智光秀謀反の原因の一つになった(コラム#11170)、と言えそうだ。(太田)

 <なお、>他の神社同様、当社も神仏習合により上社・下社に神宮寺が設けられて別当寺(神社を管理する寺)となり、上社は普賢菩薩・下社は千手観音が本地仏とされた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E5%A4%A7%E7%A4%BE

⇒前述したように、諏訪大社の神仏習合の時期もまた、坂上田村麻呂の東征の折の参拝の際、と、私は見ているわけだ。(太田)
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(完)
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太田述正コラム#11193(2020.3.28)
<2020.3.28東京オフ会次第(その1)>

→非公開