太田述正コラム#10432006.1.13

<「アーロン収容所」再読(その8)>

 しかし、「アーロン収容所」が傑作なのは、それが、英国人へのオマージュ(讃辞)に充ち満ちていることです。

 「私たちは・・一度も儀礼らしいことをさせられなかった。捕虜の閲兵などはもちろんなかった。捕虜を整列させてみたところで、得られるものは自分のくだらぬ優越感の満足でしかない。それくらいならなにか作業をさせた方がずっとよいというのが、イギリスを支えている実利主義であるということを・・ずっと後<で>・・知る<ことになる。>」(22)(注16

 (16)前にも触れたことがあると思うが、私が1988年に留学した英国防省の大学校では、入校式も修了式もなかった。修了証書は、最終日に「本来発行しないのだが、要望が強いので外国人にだけ発行した」と記した紙と一緒に、各自の資料受け渡しボックスに投げ入れてあった。

 「彼ら<イギリス人>は・・<日本兵の間で>混乱をきたすであろう新しい秩序の形成をできるだけ抑えた。階級の昇進さえもがおこなわれた。」(188頁)

 「英軍はアメリカやソ連とはちがって民主主義や共産主義の説教は全然やらなかった。・・もしそれをやられたら、本当に反省したものより便乗者や迎合分子が<日本兵の間で>支配者となることは確実である。・・英軍は説教どころか日本人を近づけ手なずけることもせず、ただの労働力としてしか待遇しなかった。英軍にとり入ってうまいことをするというような接触はまったくと言ってよいほどなかった。」(202頁)

 「いろいろのスポーツでインド兵との交歓試合もやった。しかしイギリス兵との試合などはない。」(213)

 入所時の私物検査に当たって、インド兵には「金目のものは全部とられてしまった」が、英兵は「一切とりあげなかった。これは見事だと思う。」(24頁)

 日本人の将校が英軍将校に、「日本が戦争をおこしたのは申しわけない」と言ったところ、その英軍将校に、「君たちも自分の国を正しいと思って戦ったのだろう。負けたらすぐ悪かったと本当に思うほどその信念はたよりなかったのか。それともただ主人の命令だったから悪いと知りつつ戦ったのか。負けたらすぐ勝者のご機嫌をとるのか。そういう人は奴隷であってサムライではない。われわれは多くの戦友をこのビルマ戦線で失った。私はかれらが奴隷と戦って死んだとは思いたくない。私たちは日本のサムライたちと戦って勝ったことを誇りとしているのだ。そういう情ないことは言ってくれるな」と言われてしまった。(68?69頁)

 日本兵が英軍の缶詰等を盗んでも、一旦英兵の検査をくぐりぬけたら、その後で盗んだ事実が分かっても、英兵は見逃してくれる(89頁)。英兵は「職務外のことには口を出さない」(114頁)。

 英兵には、「読み書きや計算ができない」者が多いが、「かれらは実に責任感が強い。言ったことはかならず守る。」日本兵に対し、作業終了を告げた英兵は、その後英軍将校が日本兵に別の作業を命じたことに徹底的に抗弁し、見かねた別の英軍将校が間に入って、日本兵に形だけ別の作業をやらせるという大岡裁きを行ったところ、この英兵は後で日本の将校に、「英軍が約束にそむいた。まことに遺憾であるが許してくれ」と謝りにきた。これは英国人が、「命令・・<に日本兵のように絶対服従するのではなく、その命令>が正義の具体像でないかぎり拒否すべきだ・・という・・信念を持」っていることを同時に示している。(113?116頁)

 この結果、会田はどのような結論を下したでしょうか。

 「東洋人に対するかれら<イギリス兵>の絶対的な優越感は、まったく自然なもので、努力しているのではない。・・そのうち・・ビルマ人やインド人とおなじように、<私たちも>イギリス人はなにか別種の、特別の支配者であるような気分の支配する世界にとけこんでいた」(42頁)・・「私たちもいつの間にか・・インド人<と同様、>・・イギリス人を畏怖するようになっていた。・・イギリス人の監督だと、インド人が監督のときのような落着きがなくなり、サボることもできなくなっていた。」(118頁)(注17

 (注17)「東洋人」や「ビルマ人やインド人」を、「イギリス人以外」に置き換えれば、この会田の指摘は正しい。国防省の大学校では、西欧人はもとより、同じアングロサクソンの豪州人やニュージーランド人、更には米国人までイギリス人には一目置くようになった。米国からは陸海空軍から一名ずつとシビリアンが一名、計4名来ていたが、私などに対しては、最後まで本来の米国人のままで陽気で饒舌、かつ尊大であったものの、彼らはイギリス人の前に出ると、借りてきた猫みたいにおとなしくなってしまうようになった。

 このように会田は、英国人を頂点とする支配構造を当然視するに至ったのです。

 換言すれば会田は、英国人が、非英国人に対する優越感ないし差別意識(18)を持つことを当然視するようになった、ということです。

(注18)正確には、一律の優越感ないし差別意識ではなく、英国人から見て非英国人は、できの悪いアングロサクソンであるところの1「非英国人たるアングロサクソン」、野蛮人であるところの2「西欧人・日本人等1、3以外」、野蛮人の最たるものであるところの3「黒人」、の三層構造をなしている。注意すべきは、これは人種差別意識ではなく、文明的優越感(差別意識)だということだ。

 「アーロン収容所」は、読みようによっては、英国による差別糾弾の書ではなく、(会田自身は全くそんな気はなかったでしょうが、)英国による差別・・世界支配・・を当然視すべきことを訴える書なのです。