太田述正コラム#11039(2020.1.11)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その22)>(2020.4.2公開)

4 福沢諭吉の哲学–とくにその時事批判との関連–(1947年)

 「・・・本稿の意図は・・・第一に、・・・福沢の多方面にわたる言論著作を通じてその基底に一貫して流れている思惟方法と価値意識を探り出し、それが彼の政治・経済・社会等各領域の具体的問題に対する態度と批判の方向をいかに決定しているかということを究明するにある。
 従ってそうした目的のためには自から、彼の表面に現れた言説そのものよりも、そうした言説の行間にひそむ論理をヨリ重視することとなる。
 とくに福沢の様にその方法論なり認識論なりを抽象的な形で提示することのきわめてまれな思想家の場合には、その意識的な主張だけでなく、しばしば彼の無意識の世界にまで踏み入って、暗々裡に彼が前提としている価値構造を明るみに持ち来さねばならない。

⇒それを行うためには、僭越ながら、私のように、「青年よ書を捨てよ、町へ出よう」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B8%E3%82%92%E6%8D%A8%E3%81%A6%E3%82%88%E7%94%BA%E3%81%B8%E5%87%BA%E3%82%88%E3%81%86
という姿勢で取り組まなければならないというのに、丸山は、諭吉が書いたものだけを相手にし続けたのですから、どうしようもありません。(太田)

 そのために私は彼の論著を一度バラバラに解きほぐして再構成する方法を採らざるをえなかった。・・・

⇒とまあ、こんな具合に、丸山は、諭吉研究に関しては・・関しても?・・諭吉の「論著」の中という狭い世界、に、「引きこもり」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%95%E3%81%8D%E3%81%93%E3%82%82%E3%82%8A
「閉じこもり」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%89%E3%81%98%E3%81%93%E3%82%82%E3%82%8A
続けたわけです。(太田)

 従って第二に、本稿は福沢の生涯を通じて一貫した思惟方法を問題とし、彼の思想の時代的な変遷や推移はそれ自体としては取り上げ・・・ていない。・・・

⇒絶句してしまいます。
 またもや僭越ながら、私の場合で言えば、例えば、自分の60才台半ば近くまで抱き続けた毛沢東/中国共産党に対する見方が、それ以降、180度変わった(コラム#省略)ところですが、そんな私に限らず、成年後の人生において、全く考えに(進歩を含む)変化をきたさない人間なんておよそこの世の中に存在しない、存在しえない、というのに、丸山は、自身を含めた人間なる生き物がいかなるものかについて、全く分かっていなかったのではないか、という懸念すら覚えます。(太田)

 <例えば、>福沢が後期において初期の立場から転向して反動化したという見解がひろく行われている<が、こういったこと>を取り上げるとあまり論点が多岐にわたるので、他日の機会を俟つこととした。

⇒「雑音」には耳を貸さない、無視する、という丸山のような姿勢では、およそ学問的対話どころか、最低限の対話すら、成り立ちません!(太田)

 最後に注意して置きたいことは、・・・福沢<が>・・・一個独立の思想家であるか、それとも他人・・・<であるところの、>欧米学者<達>・・・の学説の単なる紹介者乃至解説者であるかということは、他の思想や学説の影響の大小によるのではなく、むしろ彼がどの程度までそうした影響を自己の思想のなかに主体的に取り入れたかということによって決まるのである。
 そうしてこの意味においては福沢の思想と哲学はまぎれもなき彼自身のものであった。・・・」(66~68)

⇒ここで、繰り返しであると同時に先回りでもあるところの、指摘、をさせていただきますが、皆さん、ご承知のように、諭吉は、「欧米」の「学者」ならぬ、「日本」の「大名」である島津斉彬の「思想と哲学」、というか構想、の実現を期そうという、私が名づけたところの、「島津斉彬コンセンサス」の(維新以降における)民間における最有力の信奉者だったのであり、諭吉は、そういう意味での革命家であったのであって、「一個独立の思想家」でもなければ、「他人・・・の学説の単なる紹介者乃至解説者」でもなかったわけです。(太田)
 
(続く)