太田述正コラム#11047(2020.1.15)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その26)>(2020.4.6公開)

 「やがて福沢が「通俗国権論」を以て、一層露わな国権論者として登場した際においても、彼は自由民権論の論理的帰結たる個人主義的世界主義が天然自然の「正論」であり、之に対して、「人為の国権論は権道」であることを認めつつ、しかも現実の弱肉強食の国際的環境に在って敢て「我輩は権道に従ふ者なり」となしているのであって、わざわざこうしたまわりくどい表現法を通じてどこまでも彼の立場の条件的性格を明白にすることを忘れていない。・・・」(79~80)

⇒諭吉自身によるところの、原文が示されていないのが残念ですが、アングロサクソン文明は、個人主義をメイン、人間主義をサブとする文明だが、それは平時の話であって、戦時には固い組織が形成されて独裁制へと変貌したところ、やがて、平時においても軍隊を筆頭に様々な固い組織群が生まれ、多くの人々がこれらの組織群に所属して生活の資を得る等が行われるようになった(コラム#省略)、ということを踏まえれば、諭吉(?)/丸山流の、「個人主義 v. 集団主義」的な二値的な物の見方は不適切極まるのであり、20世紀半ばを過ぎた時点においてなおそのような物の見方をしていた丸山に対しては、嘆かわしいと言うほかありません。
 もっとも、21世紀に入ってからでさえ、東大で「『日本人は集団主義的』という通説は誤り」という、研究成果の広報が行われている
https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/press/p01_200930.html
ところ、これは、明らかに上記二値的な物の見方が、現在なお維持されていることを示唆しており、事態は深刻である、と申し上げておきましょう。(太田)

————————————————————————-
[『日本人は集団主義的』という通説は誤り(東大広報資料)]

 この広報資料それ自体は、なかなか示唆に富んでいるので、抜き刷り的に紹介し、私のコメントを付しておく。

 「・・・計22件の研究の結果をみると・・・、通説に反して、<集団主義的であるかどうかで>「日本人とアメリカ人とのあいだには明確な差はない」という結果を報告していた研究が16件、通説とは正反対に、「アメリカ人の方が日本人より集団主義的」という結果を報告していた研究が5件もあった。
 一方、通説どおり「日本人はアメリカ人より集団主義的」という結果を報告していた研究は、わずか1件(調査研究)しかなかった。・・・

⇒(米国文明はイギリス(アングロサクソン)文明と欧州文明のキメラであることから)米国人一般の人間主義度は(恐らく)イギリス人と欧州人の中間であるのに対し、日本人一般の人間主義度は(恐らく)世界一なので、その差、ということだろう。(太田)

 日本語の特性が「他者とは明確に切り離された自己」の存在を示していることを明らかにした。
 たとえば、「私は寒い」という文の中の心理述語「寒い」は、話し手の心理状態を表すために用いられるが、同じ内集団に属する他者の心理状態を表すために用いることはできない。
 たとえば、「母は寒い」とは言えない。
 日本語は、内集団の中で<さえ>も自己と他者を明確に区別する特性を備えているのである。・・・

⇒人間主義の「人」の自立性は世界一の可能性が・・。
 (個々の「人」が自立しているからこそ、人「間」主義が機能し得る、ということかも。)(太田)

 小池和男名誉教授(法政大学)の研究は、「日本的経営」論で言われてきた「終身雇用」や「年功賃金」が事実ではない、あるいは、欧米諸国とのあいだに明確な差異がないことを明らかにした。
 三輪芳朗教授(東京大学大学院経済学研究科)とマーク・ラムザイヤー教授(ハーヴァード大学)の共同研究は、「系列」にはまったく実体がなかったことを明らかにした。

⇒私見では、欧米と日本の最大の違いは、日本の雇用は長期雇用で、日本の会社は半永久的存続を目的としていて、日本の株式会社の株は社債的なものである、という3点だ。(太田)

 「日本株式会社」論についても、三輪芳朗教授とマーク・ラムザイヤー教授による実証研究は、日本政府の「産業政策」が日本の高度経済成長にはほとんど実質的な貢献をしなかったことを示した。

⇒いわゆる「産業政策」など、日本の場合、不必要だったというか、なじまなかった、と言えよう。
 例えば、戦後の高度成長期においては、産業界全体が、私の言うところの、巨大な一つの柔らかい組織を形成しており、政府が中枢、銀行群と商社群が二大参謀本部、大企業群、中小企業群が手足、として、その全体がボトムアップ的に稼働していた(コラム#省略)からだ。(太田)

 また、国内産業を保護するために政府が設定する関税率を比較したところ、歴史的にみると、日本よりアメリカの方がずっと高かったことも判明した。・・・

⇒「自由」貿易は強者の論理である、ということだけでこの違いを説明できるかどうかは、今後の検討課題にしたい。(太田)

 日本人は、「アメリカによる占領の結果、アメリカナイズされて個人主義的になった」というわけではないことも明らかになった。・・・
 たとえば、生徒が学校側と対決する「学校紛擾(ふんじょう)」と呼ばれる事件。明治初期に西洋式の学制が定まるのとほぼ時を同じくして発生し、ある教育雑誌には、明治期だけでも255件の学校紛擾が報告されている。研究者は、実数は更に多いと推定している。・・・

⇒前段はその通りなのだろうが、事例として学校紛擾発生数を挙げるのが適切かどうかは疑問なしとしない。(太田)

 「日本人は集団主義的」という見方は、日本人自身がはじめから持っていたものではなく、欧米人、とくにアメリカ人が言い出し、それを日本人も受け入れたものであることが明らかになった。・・・

⇒それは面白い。(太田)

 <また、>日本人が大戦中にとった集団主義的な行動は、外敵の脅威に直面したときに人間集団がとる普遍的な行動であるにもかかわらず、「集団主義的な文化」の証左であると解釈されてきたのは何故なのだろうか?
 その理由は、「対応バイアス」という思考のバイアスだということが明らかになった。
 「対応バイアス」というのは、「人間の行動の原因を推定するとき、外部の状況を無視して、その行動と対応する内部の特性(たとえば、「集団主義的な行動」と対応する「集団主義的な精神文化」や「国民性」)が原因だと解釈してしまう」というバイアスである。対応バイアスは、数多くの心理学的な研究によって、強固で普遍的なバイアスであることが明らかになっている。・・・」
https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/press/p01_200930.html

⇒ここも啓発的だ。(太田)
————————————————————————-

(続く)