太田述正コラム#11055(2020.1.19)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その30)>(2020.4.10公開)

 「・・・彼は「日本国の人心は動もすれば一方に凝るの弊ありと云て可ならん歟。其好む所に劇(はげ)しく偏頗し、其嫌ふ所に劇しく反対し、熱心の熱度甚だ高くして久しきに堪えず、・・・」(社会の形勢学者の方向、慶應義塾学制に告ぐ、全集十一)という現状認識の上に立って、日本にくまなく見られる社会と精神のしこりを揉み散らす事をもって、日本近代化(開花)<(注31)>の具体的課題となし、このいわばマッサージ師の様な役割を自らに課したのである。

 (注31)諭吉にとっての近代化(開花)のイメージは以下のようなものだ。↓
 「「文明論之概略」において、福沢は歴史を動かすものは一二の英雄豪傑の力ではなくて時勢であると論じた。この「民情一新」においては更にその論緒を発展させて、時勢を動かすものは交通の便によると説いた。十九世紀文明の急速なる発達は蒸汽船車、電信、郵便、印刷の発明工夫に基ずくもので、結局蒸汽力を人類が利用することを知ったのが、近時文明の進歩の最も大きな原因で、しかもこの蒸汽力利用の発明によって、これを発明した人類自身が急激なる変化に遭遇して周章狼狽しているのが、現在の世態民情であると福沢はいった。」
http://dcollections.lib.keio.ac.jp/ja/fukuzawa/a31/95
http://www.umiheyuku.com/images/change04.pdf (←『民情一新』の現代語訳(全文))

 彼が『概略』の中の「日本文明の由来」という有名な章において宗教・学問・芸術・経済等あらゆる文化領域の政治権力への凝集傾向を挙げ、いかに微細な社会関係のなかにも喰い入っている「権力の偏重」をば逃さず摘発して行ったあの殆ど悪魔的な執拗さはこの様な観点に立ってはじめて正しく理解せられるし、又、彼が一度ならず時の「輿論」と反対の立場に立ち、わざわざ時代的風潮と逆の面を強調する様な「天邪鬼」的態度を示したのも、つまるところ、社会意識の凝集化傾向に対する彼の殆ど本能的な警戒と反撥に由来している。」(96~97)

⇒諭吉が「日本文明」という言葉を使っているとすれば、(いちいち原典にあたる労をとっている手間と時間が惜しいこともあり、)それは、文明「開化」していない段階における日本の状況、という意味以上のものではあるまい、ということにして、先に進みたいと思いますが、このような、あたかも日本における「あらゆる文化領域の政治権力への凝集傾向」を目の敵にしたかのような議論を諭吉が行ったのは、前に記したように、官立ならぬ私立の(しかも非官僚を目指す人々の)高等教育機関としての(自らが経営する)慶應義塾の存在意義をアピールすることがその最大の目的であった、と、私は見ているわけです。
 少し長くなるけれど、そういう目で下掲を読んでみたらいかがでしょうか。
 (諭吉の「人権」は、いわゆる「人権」とはかなりニュアンスを異にしていることにもご注意。)↓
 「封建時代に 一般的であった、支配者たる士族は尊く、その他の民は卑しいという士尊民卑の影響で、日本には、維新後も官尊民卑 という風潮が存在している。
 こうした「官」に対する「凝り」は、三方面にわたって見られるものであった。
 先ずはじめは、立国の四元素のなかでも、政治という元素にだけ人々が集中するという「凝り」。
 彼は、工業商売も学問教育も、国を構成している大切な要素であるのに、「官」が尊いとされることで、日本において才能のある人は、政治だけに関心を持つようになっている。
 このように政治だけに価値が集中する状態では、そこで地位を得た人だけが尊いと考えられるようになり、官尊民卑の区別がおこることになる。
 ここでの官尊民卑は、政治と他の元素を比較して、政治だけを尊いとする風潮を意味している。
 さらに治者である「官」が尊く、被治者である「民」は卑しいとする考えが存在した。
 また、ここから、治者の握つている「政権」を、人民の持つ「人権」より尊いと考える傾向も生じていた。
 このため、「人権」が「政権」により害されることがしばしば起るというのである。
 福沢によれば、人権とは、「国民一様に所有するの権利」であり、「生命を保ち私有を固くし栄誉を全うする」(<「社会の形勢学者の方向、慶應義塾学制に告ぐ」全集>十一-194)ことがその内容であった。
 この論説において福沢は、人民が「政権」に対抗して「人権」を主張するためには、「生命、私有、栄誉」という三要素のうちの「栄誉」が、「官」に対抗できるものであることが必要だと強調している。
 ところが日本においては、「官」が栄誉を独占しており、「民」に独自の栄誉を以て「官」に対抗することは出来ない状態であった。
 彼は、本来そのような運動を担うべきである民権論者までが「政権」のみに注目し、「人権」の重要性を認識していないことを批判している。
 「政権」のみに注目している点においては、民権論者も、政治に「凝る」人たちであることに変わりはなかった。
 彼は続いて、学問教育における「凝り」として、実用を考えずに、ただ高尚な学問を修める傾向に、注意を促している。
 福沢は、日本の文明化には商工業の発達が重要であると考え、銭の重要性を主張しつづけていた・・・。
 しかし、ここで彼は、後進の学生が工商等の職業につくことを勧めながらも、その際に、銭に「凝る」ことのないように戒めている。
 銭を得るためには手段を選ばないという状態は、彼の望むところではなかった。
 彼は、日本において商工業が社会的な地位を得るためには、その地位を高尚にし、栄誉を保つことが必要だと考えた。
 これまでは、「士尊民卑」の風潮のなかで、「我日本の商人は社会公共に対して毫厘の責任を帯びず、唯一身一家の利益のみに凝り固まりて他を顧るの余裕なく、銭をさへ得れば如何なる辛苦をも憚らずとて、…遂に卑屈破廉恥の甚だしきに陥り、所謂素町人の気風を醸成した」(十一-208)のであった。
 このままでは「官」に対抗して、商売が独自の「栄誉」を主張し、地位を築いていくことは出来ない。
 そこで福沢は、これから商業につこうとする士君子たちに対して、このような「素町人の根性を一掃し、更に義気凛然たる商人の新社会を作り出す」(同)ことを望んだのであった。
 以上のように福沢は、日本の文明化には、立国の四元素のバランスよい発達が必要だと考えていた。
 そして、政治に対する過度の価値集中に対して、商工業のすすめを行なった。」
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/15536/1/44(4)_p63-134.pdf

(続く)