太田述正コラム#11057(2020.1.20)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その31)>(2020.4.11公開)
「明治14年の政変前後から日清戦争頃まで時事新報を通じて一貫して福沢の殆ど最大の政治的主張をなした官民調和論<(注32)>は福沢の立場に対する賛否両論の最も分れるところである。
(注32)「《文明論之概略》執筆のころから,国際環境における権力政治の重圧と読書思索を通じて日本の近代化についての<諭吉>の構想は徐々に変化していった。その帰結を示すのが,〈内安外競〉〈脱亜入欧〉〈官民調和〉という一連のスローガンである。《学問のすゝめ》に示された思想構造と違って,国際関係についての見方と国内政治についての見方が分裂し,前者が優先する傾向がこれ以降の彼の思想構造の中にしだいに強まっていく。」(出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版より)
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%98%E6%B0%91%E8%AA%BF%E5%92%8C-1296664
「他紙がいずれも政党機関紙の時代、『時事<新報>』は、「独立不羈」を唱え、その立場から「国権の皇張」を唯一の目的と宣言した・・・。・・・なぜ「独立不羈」か。
ある政党に与(くみ)していたとしたら、その新聞の政治論は党を利するための思惑があると見透かされてしまう。たとえそうではなくても、そう思われるのが世の常。純粋に伝えたいメッセージも差し引いて読まれてしまい、うがった見方をされてしまう。常に読者から信頼され、耳を傾けてもらうための担保として最初から提示された立場、それが「独立不羈」であった。・・・
この「独立不羈」の基礎の上に唱えられた政治論が、「官民調和論」であった。これは文字通り、「官」と「民」の調和を説く主張である。いわゆる御用新聞が代弁する官の論理と、民権新聞の民権論・・・の利害の調整役を買って出ようというのが官民調和論の基本的な考え方であった。・・・
なぜそこまでして官民調和が必要なのか。なぜ国権を張らねばならないのか。それは、福沢の西洋諸国に対する強い警戒心と関係がある。国内で官民の日本人同士が争っている間にも、弱肉強食の国際政治の世界では、西洋諸国の東アジア進出が日々広がっている。官民における、解決できる対立はさっさと解消して国内政治を速やかに発展させ、官民一致して対外問題へ、より大きな力を注げば、日本は独立を保って西洋諸国に伍することができるはずだ。それが、福沢の目指す「国権の皇張」の意味である。官民調和論が、しばしば「内安外競」という言葉にも置き換えられたのは、そのためであった。・・・
福沢の『時事』での政治論における官民調和的言説は、主張すること自体が目的でない。新聞はあくまで「道具」であって、その言説は「方便」であり、世の中が彼自身の信ずる方向に変わることが目的なのである。・・・
少し後のことになるが、福沢は新聞を業とすることの空しさを自嘲気味に、かつどぎつい表現で、次のようにロンドン留学中の娘婿に書き送ったことがある。
「政治の話はしきりにして、新聞紙も忙しき次第、実に小児の戯れ、馬鹿馬鹿しきことなれども、馬鹿者と雑居すれば、ひとり悟りを開くわけにも参らず、時事新報にも毎度つまらぬことを記し候ことなり。」」(慶應義塾福沢研究センター 都倉武之 2006年6月)
https://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/jijisinpou/5.html
都倉(1979年~)は、慶大法卒、同院修士・博士。当時専任講師、現在は准教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E5%80%89%E6%AD%A6%E4%B9%8B
思想家としての彼に対する価値づけの清算所たる感を呈している。
ふつうにはそれは漸く朝鮮問題をめぐって急迫を告げつつあった東洋の情勢に対処するための一種の域内平和論として理解せられている。
そうして国権論者としての福沢に重点を置くものは、ここにこそ彼の真面目の発揮を見る。
自由と民権のイデオローグたることに福沢の生命を見出すものは、是を以て許すべからざる妥協として、彼の「不徹底」や「転向」を難ずる。
いずれにしても彼の官民調和論が国際危機を乗切るための一種の政治的休戦の提唱として解釈せられていることには変りはない。
こういう理解に立つかぎり、それは彼が『概略』や『学問のすゝめ』で説いた文明の精神と少くも直接的には、なんの連関も持たぬ時務論だということになる。・・・
<それはそれとして、>彼が十数年に亘って執拗に繰返したテーマが、自由と進歩の精神の普及という意味での日本近代化の課題と全く無関係に、或はむしろその完全な休止の下に、演奏せられたとは、彼の問題意識の熾烈さを知るものには、到底考えられないのである。
事実はむしろ反対に、福沢が当時の政府と民党との激烈な抗争自体のうちになにか本質的に「文明の精神」と相容れざるもの、それを近代的な政争にまで発展させることを妨げる精神の「しこり」を臭ぎ付けたればこそ、彼は一方藩閥政府や立憲帝政党に対する非難をすこしも緩めることなくして、しかも他方自由党一部のラディカリズムを「駄民権論」として排せざるをえなかったのである。」(97~98)
⇒ここでも、先回りして書いておきますが、丸山のピンボケにして筋悪の指摘に比べ、「注32」でご紹介した、都倉の指摘、の筋がいかに良いか、が、お分かりいただけるのではないでしょうか。
都倉は、慶應義塾人であることから・・と思ってあげましょう・・、私ほど踏み込んだ書き方をしてはいませんが、都倉の言葉を借用しながら申し上げれば、諭吉は、「国権の皇張」、ひいては「アジア」の解放/復興、を目指すところの、島津斉彬コンセンサス信奉者中の民間の中心的人物であって、慶應義塾の設立・経営も、「時事新報」の創刊・経営も、このコンセンサスを、民間・・日本国内だけではない!・・に滲透させ、ひいては国・・日本帝国に限らない!・・をその実現に向けて動かしていく、ための「道具」であり、諭吉の、その時々の「言説」は「方便」でしかないのです。(太田)
(続く)