太田述正コラム#11059(2020.1.21)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その32)>(2020.4.12公開)

 「・・・幕末水戸の党乱<(注33)>において、互に自らを正党として反対党を奸党として殺戮しあった結果、水戸藩は殆ど有為の人材を失って維新革命における指導的地位を喪失した事実はいまだ福沢の記憶に生々しかった(参照、極端主義、全集八)。

 (注33)天狗党の乱。「元治元年(1864年)に筑波山で挙兵した水戸藩内外の尊王攘夷派(天狗党)によって起こされた一連の争乱。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%8B%97%E5%85%9A%E3%81%AE%E4%B9%B1

 政府と民党との日々激化し行く抗争においてこの伝習的な「極端主義<(注34)>」的態度が両者の間にますます強靭に根を下して行く事態を見た福沢がその成行を近代化の過程として無条件に楽観しえなかったのは怪しむに足りないのである。・・・

 (注34)「福澤は極端主義におちいらないようにするためには、・・・物事を両眼で見る両眼思考や人間交際をすすめる。さらに、高遠の議論(奥深い議論)に耳を傾けることが必要であると<する。>・・・高遠な議論とは、「世間通常の人物」の間で生ずる輿論に対立する、はじめは異端妄説と思われていた議論のことである。」
https://books.google.co.jp/books?id=_oJGRHEb_nIC&pg=PT100&lpg=PT100&dq=%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89+%E6%A5%B5%E7%AB%AF%E4%B8%BB%E7%BE%A9&source=bl&ots=ghhgLc28Aw&sig=ACfU3U37QYPInj5g9ZKItH6xtxpd8K1eTQ&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwiz-6a_g5TnAhWZF4gKHVZQCq4Q6AEwBnoECAoQAQ#v=onepage&q=%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89%20%E6%A5%B5%E7%AB%AF%E4%B8%BB%E7%BE%A9&f=false

⇒諭吉自身が「毎度つまらぬことを記し候ことなり」(「注32」参照)とぶっちゃけてくれているというのに、丸山大先生は、諭吉の書いたものを、毎度、額面通りに受け取って大真面目に論じており、吹き出してしまいます。(太田)
 
 福沢によれば、今日まで支配的な政治形態はすでに現在の交通・技術の発展に照応しなくなっている。・・・
 亜国の共和政府甚だ自由にして美なりと云ひ英国の代議政体頗る寛大にして巧なりと称するも、其美は百年前に在て美なりしのみ。・・・
 <他方、>進歩するに従て社会の騒擾は却て益(ますます)甚しかる可きのみ。
 人民は既に直行進取の利器を得たり、此勢に乗じて、顧て政府の有様を窺へば其緩慢見るに堪へずして之を蔑視せざるを得ず。…
 之を蔑視し、…一時に之を改めんとする其勢は、恰も人民にして政府を圧制する者なれば、政府は此圧制に堪へずして却て大(おおい)に抵抗せざるを得ず。
 其抵抗の術は唯専制抑圧の一手段あるのみ」(民情一新<(前出)>。
 これ即ち当代にナポレオン3世の武断政策やロシア・プロシャの専制化等の反動的現象の出現した所以であるが、しかも根本において「今の世界の政府たるものは単に人民に対するに非ずして、蒸気以下の利器に当る」のである以上、そうした弾圧に奏功の可能性ありやといえば、「余は断じて之に答て否と云はざるを得ず。・・・
 今改進世界の人民が思想通達の利器を得たるは人体頓(とみ)に羽翼を生ずるものに異ならず。
 千七百年代の人民は芋蠋にして、八百年代の人は胡蝶なり。
 芋蠋を御するの制度習慣を以て胡蝶を制せんとするは亦難からずや」(同上)。
 こうして福沢は交通技術の飛躍的発展が人民相互を精神的物質的にも未曾有の緊密な相互依存関係に置いたことによって、いまや政治の舞台における厖大な「大衆」の登場が不可避的となったゆえんをすでに明治15、6年の頃驚くべく鋭利な眼光で洞察したのであった。
 もとより彼はその途(みち)が歴史的にほぼいかなる方向を指しているかを見極めうる時代に生きてはいなかった。」(99、105~107)

⇒諭吉は、同じ『民情一新』の中で、「現代において国内の平和を維持する方法は権力者が長居しないで適時交替していくことであるとして、国民の投票によって権力者が変わっていくイギリスの政党政治・議会政治を大いに参考にすべし」と論じた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89 前掲
舌の根も乾かないうちに、大衆が参画する時代におけるその限界を自信たっぷりに指摘しているわけですが、私は、丸山とは違って、諭吉は、江戸時代における、大衆が政治経済面で大幅に権限行使を幕府から委任されていたところの、私の言う、プロト日本型政治経済体制が念頭にあり、この体制を、「イギリスの政党政治・議会政治」も部分的に継受した形で、「蒸気以下の利器」の時代に即したもの・・私の言う日本型政治経済体制・・へと再構築すべきこと、そして、再構築が可能であること、を「見極め」ていた、と見ています。(太田)

(続く)