太田述正コラム#11081(2020.2.1)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その43)>(2020.4.23公開)

 「この場合にも福沢の論理には一応形式的な整合性があった。
 即ち彼は嘗て『文明論之概略』において「国体」の語を「ナショナリチ」に当て、国体を保つとは自国の政権を失わぬこと、つまり日本人が日本の政権を握ることであり、いかに皇統は連綿でも、いかに言語・宗教の同一性が保たれても、「人民政治の権を失ふて他国人の制御を受るときは」(文明論之概略、巻之一)国体の断絶にほかならぬとし、王政から武家政への推移は未だ国内での政権移動にとどまるが、「今の時に在て我国の政権若し去ることあらば、其権は王室を去るに非ずして日本国を去るなり。室を去るものは復するの期ありと雖ども、国を去るものは去て復(ま)た返る可らず。印度の覆轍豈復た踏む可けんや」(福沢全集緒言<(注46)>、学問のすゝめの評、全集一)と切々と訴えたのである。

 (注46)「明治三十一年<(1898年)>版「福沢全集」(全五巻、時事新報社刊) の第一巻の巻頭に掲げるために執筆されたもので、その全集に収めた著訳書の成立の由来その他を記してある。「福翁自伝」がみずからの生涯の閲歴を語ったものとすれば、この全集緒言は著訳者としての福沢の自伝ともいうべきもので、両書相俟って福沢の生涯を知る上に欠くべからざる重要な文献ということができる。明治三十年九月(※)に脱稿して同年十一月二日から二十五日まで二十一回にわたって時事新報紙上に連載され、完了後、四六版活版刷り百三十頁の単行本に纒められ、同年十二月時事新報社から発売された。」
http://dcollections.lib.keio.ac.jp/en/fukuzawa/a50/114

⇒ここは、首を捻ってしまう箇所です。
 「諭吉が万延元年咸臨丸でアメリカに渡ったときは、英語力はまだまだで、英書を自由自在に読み、英語を話せるようになったのは、『増訂華英通語』の翻訳を出版してからと推定できる」
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=7&ved=2ahUKEwjB85K4_K_nAhXxGaYKHUUoACQQFjAGegQICBAB&url=https%3A%2F%2Ficu.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D4264%26item_no%3D1%26attribute_id%3D22%26file_no%3D1&usg=AOvVaw0m0DBOeCTsWR-XIzU-2xCA
ところ、これは、「福沢の最初の出版物であ<って、>サンフランシスコで出版されていた清国人子卿著の「華英通語」という英華対訳の単語集を、福沢が万延元年に咸臨丸に搭じて初めてアメリカに渡ったとき、同地で買い求めて帰国の後、これに英語の発音と華語の訳語の日本読みとを片仮名でつけ、「増訂」の二字を冠して・・・1860<年に>・・・出版したものである。」
http://dcollections.lib.keio.ac.jp/en/fukuzawa/a01/1
ということから、諭吉の学者としての出発点は英語学者としてであったことを念頭に置けば、「ナショナリチ」は’nationality’のことなのでしょうが、この言葉を、「国体」ないし「主権の保持」の意味に1975年出版の[文明論之概略』の中で用いたことには当惑させられるからです。
 というのも、Cambridge Dictionaryによれば、nationalityの第一の意味は、’the official right to belong to a particular country’であって、「国籍」ですが、第二の意味は、’a group of people of the same race, religion, traditions, etc.’であって、
https://dictionary.cambridge.org/ja/dictionary/english/nationality
第一の意味はさておき、第二の意味からすると、「ナショナリチ」は、「言語・宗教の同一性が保たれて」さえおれば、たとえ「人民政治の権を失ふて他国人の制御を受」けたとしても、維持できるはずだからです。
 しかも、「言語・宗教の同一性が保たれて」いるだけでなく、「皇統」まで「連綿」と来れば、なおさらです。
 要するに、「ナショナリチ」を「国体」ないし「主権の維持」と訳すのは誤訳なのですが、こんな初歩的な誤訳を、英語学者として出発したという自負心があったに違いないところの、諭吉、が、しでかすものだろうか、と。
 相当思いきった想像ですが、私は、1875年に上梓された『文明論之概略』は、相対的には、諭吉にしては、学術的な著作ながらも、この部分は非学術的なアジ文ですよ、ということを、英語に通じているところの、当時の日本においては、極小の識者に対して注意喚起というか、ディスクレイマーというか、を行っている、という気がしてならないのです。
 仮にこの思いきった想像が正しいとすれば、この箇所を額面通り受け取った丸山は、識者とは到底言えない、ということになるわけですが・・。(太田)
 
 後に福沢が、政権が日本人の手にさえあればその権力の掌握者は誰でもいいという筆法を屡々用いたとき、恐らく彼は主観的には右と同じ論理の上に立っている積りだったであろう。
 しかしそのテーゼの実質的な文脈は明らかに変化している。
 すなわち、国内の政治的条件が結局日本の独立を害し或は喪失する可能性や現実性を持っている場合に、果してこの形式論理は妥当するか。
 妥当しないからこそ、福沢は封建的抑圧の排除にあれほど渾身のエネルギーをそそいだのであり、妥当しないからこそ、満清政府の支配下にある中国の独立喪失を繰返し予言したのではなかったか。
 現に『文明論之概略』では、英国が印度の土侯をそのまま存置させながら結局之を植民地化した例が挙げられている。」(158~159)

⇒明治維新によって、日本が中央集権国家に生まれ変わると共に、欧米文明の部分的継受によるところの富国強兵策を追求するようになったことで、日本の内政に関しては基本的に事成れり、という判断の下、爾後、福沢がその部分への言及を端折った、アジ文やアジ文書、を書くようになったのは、福沢の本分が革命家である以上、当たり前でしょう。(太田)

(続く)