太田述正コラム#11083(2020.2.2)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その44)>(2020.4.24公開)

 「・・・福沢は・・・明治7年10月、遥かロンドンに在る馬場辰猪にあてて、「日本の形勢誠に困難なり。外交の平均を得んとするには内の平均を為さゞるを得ず。内の平均を為さんとするには内の妄誕を払はざるを得ず。内を先にすれば外の間に合はず、外に立向はんとすれば内のヤクザが袖を引き、此を顧み彼を思へば何事も出来ず。されども事の難きを恐れて行はざるの理なし」(全集十七)とその苦衷を訴えたが、恐らくこのディレンマは最後まで福沢を苦しめたであろう。

⇒簡単な話であり、馬場(1850~88年)の生涯を紹介すれば、「土佐藩士・・・の二男として・・・生まれる。藩校「文武館」で学び、江戸留学の藩命を受けて慶応2年(1866年)、鉄砲洲にあった中津藩邸の福沢塾(後の慶應義塾)で政治史、経済学を学ぶ。その後、長崎に赴いて長崎英語伝習所にて・・・英語を習う。明治2年(1869年)、慶應義塾に戻り、のちに教師も務める。明治3年(1870年)、土佐藩の留学生<の1人>として・・・<英国>に留学し、海軍や法学について学ぶ。・・・明治7年(1874年)に帰国。翌年、岩倉使節団の一員として再び渡英し、<英国>滞在中に政府留学生となる。留学中、・・・森有礼の国語英語化論を批判し・・・た。その後、フランスにも赴いた。明治11年(1878年)に帰国。・・・同じ土佐出身で、共に英国留学した星亨や小野梓らと共に『朝野新聞』や『自由新聞』などで中江兆民らと共に自由民権運動を日本に紹介し、共存同衆<(注47)>・・・の活動に参加。ちょうどこの頃、西南戦争の勃発に乗じて、挙兵による大久保利通政権の打倒を策して失敗。

 (注47)「1874年(明治7年)に、小野梓らによって設立された政治的啓蒙言論結社。明治初期の<欧米>留学帰朝者を中心とし、会員同士の切磋琢磨と国民啓蒙を目的とした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E5%AD%98%E5%90%8C%E8%A1%86
 小野梓(1852~86年)は、土佐藩士の子。米国および英国に留学。司法省官吏、大隈重信の幕下として立憲改進党の結成、東京専門学校(現早大)創立に携わる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E6%A2%93

 末広重恭らとともに「国友会」などの組織を立ち上げる。明治12年(1879年)から同13年(1880年)頃、共存同衆の金子堅太郎・島田三郎らと共に『私擬憲法意見』を起草した。「日本人学生会」を組織し、法律学による啓蒙活動に従事し、国友会を基盤に自由民権運動の指導者となった。明治12年(1879年)、[福澤諭吉が提唱し、結成された日本最初の実業家社交クラブである]交詢社創設委員として社則規則などに参画し、明治14年(1881年)、<慶應義塾の分校とも言いうる>明治義塾(三菱商業学校)創立に参加した。自由党結党大会で、後藤象二郎に次ぐ副議長に選出されて議事運営に当たり、『朝野新聞』に投書し、明治15年(1882年)に『自由新聞』を創刊して主筆となる。板垣退助の外遊に反対して自由新聞を退社し離党・・・明治16年(1883年)、警視総監・樺山資紀から東京での政治演説の禁止を申し渡される(6ヶ月間)。・・・明治18年(1885年)11月に・・・爆発物取締罰則違反に問われて・・・逮捕される。翌年6月、公判で無罪判決を受けた後、アメリカに亡命<、現地で死亡。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E5%A0%B4%E8%BE%B0%E7%8C%AA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E8%A9%A2%E7%A4%BE ([]内)
というものであり、彼は、徹頭徹尾、福沢の分身として活動した人間であったことが分かります。
 国民の多くに国政参画意識を植え付けて(=内の平均を為して)、政府による島津斉彬コンセンサス/横井小楠コンセンサス遂行に協力させるためには国会の開設が不可欠である、と諭吉は考え、慎重論であった政府内の大久保利通ら、や、政府に出たり入ったりしたところのオポチュニストの板垣退助ら、自分達以外の多くの島津斉彬コンセンサス信奉者達に歯痒い思いをしていた、諭吉の意向も受けて、馬場は活動したに違いない、ということです。
 ですから、丸山が引用した諭吉の馬場宛の手紙は、諭吉の本心を率直に吐露したものでしょう。
 その上で、英国留学から帰国後の馬場に、諭吉は、自分の分身として「事の難きを恐れ」ず「行」ってくれ、と頼み込み、かねてより諭吉に私淑していた馬場は快諾した、と、私は見ているのです。(太田)

 彼が日清戦争後、松隈(しょうわい)内閣<(注48)>の成立に関して、「抑も今の政府は情実政府にして今回の更迭の如きも実際は情実談に過ぎず(中略)と雖も此情実は実に三十年来の宿弊にして根底より一掃するに非ざれば文明政治の真面目は到底見る可らず」(三日天下の覚悟亦悪しからず、明二九、全集十五)といっているのを見ても、日本政治の近代化が彼の晩年の眼において尚いかに前途遼遠に映じたかが分る。・・・

 (注48)「明治中期に松方正義を首相として組織された第一次、二次の内閣。第一次(1891.5.6~1892.8.8 明治24~25)・・・第二次(1896.9.18~1898.1.12 明治29~31)」があるが、ここでは、「第二次伊藤内閣にかわり成立した第6代内閣<で、>組閣<が>難航し、1896年9月28日ようやく完了。進歩党と提携し、その実質的な党首大隈重信を外相に迎えたが、他の主要ポストは薩閥(さつばつ)が占め、蔵相は首相が兼任し・・・提携の報酬として多くの進歩党員が局長、知事などに就任<したところの>・・・第二次<松方正義内閣>」
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E6%96%B9%E6%AD%A3%E7%BE%A9%E5%86%85%E9%96%A3-871003#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29
を指している。

 にも拘らず、福沢の国際的観点の優位の立場が、外からの衝撃(インパクト)のあまりの強さによってその実質的文脈を漸次変貌させたこと、しかも日清戦争の勝利は、彼の危機意識の急激な弛緩をもたらし、日本の近代化と独立の前途に対する楽観的展望を産んだことは到底否定出来ない。

⇒丸山は、彼のすぐ上のこの指摘を裏づけるところの、諭吉の非アジ文ないしアジ文書を見つけることはできなかったはずですが、いずれにせよ、せめて、ここで、諭吉のアジ文ないしアジ文書を、何か挙げて欲しかったところです。(太田)

 福沢逝(ゆ)いて半世紀、歴史はその展望を見事に覆すことによって、却って彼の発想の根本的な正当性を立証したのである。」(159~160)

⇒とんでもありません。
 「歴史はその展望を見事に「実現する」ことによって」、すなわち、衆議院での協賛や戦争参画によるところの大部分の日本国民、と、相当多くの(中国共産党に結集した人々を中心とした)支那の人々、と、(独立を希求した)相当多くの東南アジアの人々や(インド国民軍に結集した人々を中心とした)インド亜大陸の人々、等、の協力の下、「「まさに」彼の発想の根本的な正当性を立証したのである。」と言うべきなのです。(太田)

(続く)