太田述正コラム#11087(2020.2.4)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その46)>(2020.4.26公開)

 「『文明論之概略』で・・・「惑溺」という問題が出てくる。
 独立の精神、独立の思考、インデペンデンス・オヴ・マインドというのは、惑溺からの解放ということです。
 ・・・この「惑溺」をなんと訳していいのか・・・英語にしろ何語にしろ、うまく言えない。・・・
 <それは、>自分の精神の内部に、ある種のブランクなところ–その留保を残さないで、全精神をあげてパーッと一定の方向に行ってしまう、ということです。・・・
 <福沢は、>明治20年1月15日から24日にかけて、・・・「社会の形勢学者の方向、慶應義塾学生に告ぐ」<(前出)>・・・という論文を時事新報に連載しています。
 そのなかで、「日本国の人心は、動(やや)もすれば一方に凝るの弊ありと云て可ならん歟(か)。其好む所に劇(はげ)しく偏頗し、其嫌ふ所に劇しく反対し、熱心の熱度甚だ高くして、久しきに堪えず」。
 そこがまた重要なのです。
 熱心の熱が高いというだけなら、西洋の歴史でも宗教戦争とか、そういう例はあるわけです。
 けれども日本の場合、好むところに激しく偏頗し、嫌うところに激しく反対し、熱心の熱は甚だ高くして、「久しきに堪えず」というところが非常におもしろい。
 だから「一向の方向、直ちに直線にして」パーッと真っ直ぐ進んでいるかと思うと、たちまち変わって、他の方向にまた一直線にすすむ。
 「前後左右に多少の余裕をも許さずして、変通流暢の妙用に乏しきものの如し。即ち事の一方に凝り固まりて、心身の全力を用い、更に他を顧みること能はざる者なり」。
 要するに、ワーッとこっちのほうへ行って、他は全然かえりみない。
 かと思うと急に方向を変えて、こんどはこっちへワーッと行く。
 こういう状況を描写しているわけです。」(181~183、306)

⇒ここは、英語学者、というより、自他ともに許す欧米通であった諭吉が、どうしてこんな出鱈目を言ったのだろうか、と、首を捻った箇所です。
 というのも、例えば、イギリスについて言えば、16世紀に、熱烈なカトリック教会支持者であったヘンリー8世が、自分の結婚問題をきっかけに、唐突にも英国教会樹立へと動き、当時のイギリス世論もそれに追随したということがありました(典拠省略)し、フランスに至っては、18世紀から19世紀にかけて、世論が主導する形で、王政、民主主義独裁、帝政、王政、帝政、民主制、へと目まぐるしく政体を変遷させた(典拠省略)わけであり、日本がそうだとすれば、欧米は日本とは比較にならないほど、「動(やや)もすれば一方に凝るの弊ありと云て可ならん歟」、だからです。
 「福沢は、人民が「政権」に対抗して「人権」を主張するためには、「生命、私有、栄誉」という三要素のうちの「栄誉」が、「官」に対抗できるものであることが必要だと強調し<つつも、>日本においては、<依然として>「官」が栄誉を独占しており、「民」<が>独自の栄誉を以て「官」に対抗すること<が>出来ない状態であ<る>」(前出)、ということを言わんがために、要は慶應義塾の広報宣伝を行うために、書いた上掲社説の中で、マクラとして、そういうことを記しているわけですが、落語のマクラじゃあるまいし、そのマクラの論理とテーマの論理とが、全く噛み合っていない、いや、マクラは非論理的極まる、というのが私が受けた印象でした。
 そこで、慶應義塾の広報宣伝に資する内容である、という点だけが共通するところの、口から出まかせの方、を、諭吉はマクラに回したと解したらどうか、ということに思い至った次第です。
 実は、諭吉がこれを書いた前年の明治19年(1886年)に、「明治初年の「学制」や「教育令」のような単一の法令によって学校制度を定めるのではなく、学校の種別ごとに制度を定め<たところの、>・・・帝国大学令、師範学校令、中学校令、小学校令・・・これらを総称して「学校令」と言います・・・<が、>明治19年(1886)3月から4月にかけて、・・・公布され・・・た」
http://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m19_1886_01.html
ところ、当時、諭吉がいかに焦燥感に駆られていたかが、下掲を読めばよく分かります。↓
 「明治19年3月に・・・帝国大学令が公布され、東京大学が法・文・理・医・工の各分科大学よりなる帝国大学に改組された事実は、福澤先生にとっても大きな関心事であった。同年11月11日付で米国留学中の長男一太郎に送った書翰には「・・この上は資本金さへあれば大学校に致度と教員は申居候」とあり、さらに翌20年3月28日に猪飼麻次郎に宛てた書翰には「・・・追々金さへあればユニヴハシチに致度語合ひ居候」とあるのは、先生の大学部発足にかけた夢を語るものである。問題はその資金であった。・・・
 <そして、>慶應義塾に<懸案だった>大学部が発足し、文学・理財・法律の3科を設置したのは、明治23年(1890)1月のことであった。」
https://www.keio.ac.jp/ja/about/history/encyclopedia/47.html 
 人間、誰であれ、焦燥感に駆られれば、時として、非論理的なことだって、口走りますからね。
 以上の説明で皆さんは腑に落ちたのではないか、と、私は、僭越ながら想像しているのですが、泉下の丸山大先生は、どうせ聞く耳を持たないでしょうね。(太田)

(続く)