太田述正コラム#11097(2020.2.9)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その51)>(2020.5.1公開)

 「・・・福沢の言葉によれば「いまの勁敵は隠然として西洋諸国に在りて存せり」(学問のすゝめの評)、西洋諸国こそ、もっとも恐るべき敵なんだというのが、彼の基本的な状況判断です。
 この敵から学ばないで、なにを学ぶのだということになる。
 最大最強の敵から学ぶのが、まさに現代の日本のやらなければならないことだ。
 幕末維新の状況において、彼はそう考えた。
 だから、彼は他方においては、西洋にいかれている開化先生というのを、さんざん茶化しています。
 これも惑溺の一種なのです。

⇒2006年に、柄谷行人は、「1960年代以来、丸山真男といえば、西洋に比べて日本の前近代性を批判する知識人、つまり、近代主義者という否定的なイメージができあがっていた。私もその通念から自由ではなかった。」と書いています
http://www.kojinkaratani.com/jp/essay/post-68.html
が、私は、この柄谷のようにムツカシイことを考えず、丸山を、日本のおける近代主義者を代表する一人だとかねてから見てきました。
 その上で、このくだりでも嗤ってしまったのは、私は、近代主義者なるものは、維新後における開化先生の戦後版であると見ているところ、ここは、巧まずして、丸山による丸山批判になってしまっているからです。
 だから、繰り返しますが、丸山が(、反開化先生にして私見では反近代主義者であるはずの)諭吉を尊敬してしまってはいけないのです。(太田)

 彼の原体験では、彼は維新前に三度、外国に行っています。
 維新後には一度も行っていない。
 それもおもしろいことですけれど、いつでも西洋へ行ける時代になった維新後には、一度も行っていない。
 外国行きが非常に困難だった維新前に三度行っている。
 彼のヨーロッパに対するイメージは、その時できあがって、それが彼の西欧文明にたいする原体験になった。・・・

⇒ここは、形の上では公務員として、その社会人としての人生の大部分を生きた丸山の、カネの問題への感受性の鈍さが現れている、と、私は思います。
 維新までの諭吉は、中津藩士か幕臣であったわけであって、彼の三度の洋行は、いずれもお上の命による海外出張なのであり、当然のことながら、全経費は中津藩ないし幕府が出したからこそ、彼はそうしたのであり、維新後は、諭吉としては、既に欧米の何たるかについての必要十分な実見聞は行っているとの認識を抱いていたかもしれないけれど、それよりも、自分は第一義的には革命家として爾後生きるので宮仕えはしないと決めた以上は、仮に洋行するとすれば、自らその経費を工面しなければならないところ、そんなことをするよりは、そのための経費、プラスアルファでもって、長男と次男を留学させることの方が費用対効果が大きい・・私は愚の骨頂だったと思いますが・・と考えたのであろう、と、私は単純に見ています。(太田)

 福沢の言動というのは、・・・いつも役割意識というのがつきまとっている。
 彼が教育者として自分を規定した・・・のも、この役割、この使命感ということに密接に関係しています。
 つまり、教育というのは、長期的な精神改造なんだ。
 自分は政治家ではないから、政治にコミットしない、ということの対比において、彼はそういうことを言っている。
 ロングランの精神改造というものに彼は賭けているわけです。・・・

⇒革命家だって政治家の一種と言えないこともないけれど、いずれにせよ、丸山には、私が繰り返し指摘したところの、維新後の諭吉の役割意識が、革命家>経営者>教育研究者、であるとの認識がないのが致命的だと思います。(太田)

 もちろん、さすがの福沢でも、自分の言動を隅から隅まで役割意識でコントロールしていたわけではないのです。
 そんなことは実際には不可能です。・・・
 彼自身は好悪が非常に激しい人間です。
 それは、彼の言っていることとは明らかに矛盾してしまう。
 自伝の中で、人生に処する法を述べて、極端な事態というのを、いつも予想して生きよ、といっています。
 彼にはそういうところがあります。
 いや、彼だけではなくて、幕末に生きた人には多かれ少なかれあります。
 勝海舟なんかにもあります。
 いつも最悪の事態を予想して、そこから平生の覚悟ができる。
 慶應義塾も『時事新報』も、いつ潰れてもいいと、最悪の事態をいつも予想している。
 そこでかえって軽く決断して思いきったことができるというのが彼の考え方です。

⇒軍事、軍人を毛嫌いしていた丸山は、武士を含む、まともな軍人・・それがいかなる国の軍人であれ・・、なら、かかる「覚悟」を持って生きるものである、という、最低限の常識すら持ち合わせていなかったようです。(太田)

 人間の交際についてもそうです。
 人間というのは、いつ自分を裏切るかもしれない。
 そういう最悪の事態を予測している。
 だから、暗いというか、ある意味では、かなわない精神です。
 だけど福沢は結果において自分は一度も人に裏切られたことはないし、人と断交したことがないと書いている。
 これは明らかに間違い–すくなくも言いすぎです。

⇒諭吉に限らず、人間、誰しも、通常、そんなものでしょうが、諭吉は60台の半ばまでしか生きませんでしたし、丸山がこの講演を行った時はまだ60歳にもなっていない頃だったので、2人とも、認知症になった(通常同世代者たる)知人、友人・・その多くはその自覚がない・・に「裏切られた」り彼らと「断交」せざるを得なかった、という経験をしていなかったのでしょうね。(太田)

 彼は明治14年の政変のときに、彼を藩閥政府に売った九鬼隆一<(注59)>を一生涯許さなかった<(注60)>。

 (注59)1852~1931年。「旧・・・摂津・・・綾部藩士。・・・慶應義塾に学び、福澤諭吉の薫陶を受けた。のち文部省に出仕し、若くして文部少輔(現在の事務次官)にまで栄進。1884年(明治17年)、駐米特命全権公使に転じ、1888年(明治21年)に帰国すると図書頭、臨時全国宝物取調委員長、宮中顧問官、帝国博物館総長を歴任。美術行政に尽力した。また貴族院議員、次いで枢密顧問官を兼任。1900年(明治33年)に総長を退いてからは枢密顧問官を長く務めた。1914年(大正4年)には郷里に三田博物館を設立し、自らの美術コレクションを展示・公開している。四男は哲学者の九鬼周造。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E9%AC%BC%E9%9A%86%E4%B8%80
 (注60)「明治14年(1881年)に自由民権運動に歯止めをかけようとした伊藤博文らにより、いわゆる明治十四年の政変が起き、大隈重信が政府から追放された。この際に、大隈や福澤諭吉が藩閥政府に代わる内閣を組織しようとしていたとの疑惑から、福澤の影響が強い慶應義塾出身の官僚が多数官を辞することになった。この中には犬養毅、尾崎行雄などが含まれる。
 しかし九鬼は、彼らと一線を画して文部省に残り、福澤の文明開化主義に反対する伝統主義的な教育政策の実施者となった。このため九鬼と福澤の関係は極度に緊張し、後に福澤の会合への招待状を誤って九鬼に送った事務担当者に対する注意の中で、『九鬼の存在は座上に犬ころがいるようなものだ』という過激な表現を福澤が用いている。なお、最終的には九鬼が福澤に謝罪する形で両者の間に和解が成された。」(上掲)

 それはやはり福沢自身が自分のパトスというものを自分でコントロールできなかったことを物語っております。
 そういう面がありますけれども、彼の意識的な思想は、いま言ったような「役割」の認識から発しているということを申し上げたいのです。」(200~204)

(続く)