太田述正コラム#11103(2020.2.12)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その54)>(2020.5.4公開)

7 福沢における「惑溺」–1987年

 「・・・しばしば日本の学者への悪口として「横のものを縦にしただけじゃないか」ということが言われます。
 けれども、考えてみますと横のものを縦にするということは大変なことであります。
 もし問題があるとするならば、横のものを縦にすることが大変なことであるという、その困難さの自覚というものが、逆に乏しい–もしくは乏しくなっていった–ということにこそ問題があるのではないか。・・・

⇒このような命題は、「日本の学者」を「日本の翻訳者」に置き換えなければ成り立たない、と私は思うのですが、どうやら、丸山は、たとえ他の学者の学説を紹介することだけを生業にしている人であってもその人を学者と呼んでよい、と考えているようですね。
 学者の学説を紹介するには、その学説を理解することが求められるところ、学生というものは、学者の学説を聞いたり読んだりして理解すべく努力をした上で、理解できたかどうかを試験答案やペーパーでもって紹介(披露)するわけで、丸山流学者なるものは、学生であることを生業にしているという異常な人であってもいいらしいですねえ、と、揶揄したくなります。(太田)

 荻生徂徠・・・がやったことを一言にしていえば、われわれが日常読んでいる『論語』というものは、外国語で書かれている古典だ、という宣言をした<(注64)>ということに尽きると思うのであります。・・・

 (注64)「荻生徂徠<が>・・・27歳で著した処女作は語学書である。それが『譯文筌蹄[(やくぶんせんてい)]』と『訓譯示蒙』である。」
http://yanagisawa.cocolog-nifty.com/salon/2013/02/post-42e6.html
 「「筌蹄」とは 、魚や兎などをとるわなのことである。・・・<その中で、>和訓に頼らずに漢文を読むという、いわゆる「漢文直読論 」<が>・・・主張<されている。>」
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/CB/0014/CB00140L001.pdf ([]内も)
 
 ですから、横のものを縦にするということを、軽々に言うことはできないということであります。
 その実質的な困難さの自覚というものは、近代日本の後の時代よりはかえって幕末及び維新の初めの思想家の方にあったように思われます。
 その自覚が、ヨーロッパ文明を貪欲に吸収するエネルギーになったと同時に、横のものを縦にすることの困難さの自覚が、逆説的ですけれども、彼らの思想を豊饒ならしめた、つまり、たんなる翻訳文化以上のものにしたという、そういう関係があるのではないかと思います。・・・

⇒上述したことからしても、この箇所の丸山の言は、私には理解不能です。(太田)

 <さて、本題である惑溺についてですが、>現実に作用する仕方というものを問わないで、そのもの自身を尊いとする考え方は–福沢の言葉で言うならば「物の尊きにあらず働きの尊きなり」ということを倒錯して<しまって>いる<のであって、>そういうふうに働きを忘れて、物それ自身を尊ぶのが、<福沢のいう>「惑溺」だと<私は思うの>です。・・・
 実際は「惑溺」という漢語は昔からあります。・・・
 中国の『世説新語』<(注65)の中に出て来る惑溺は、>大体、字から想像されるように、例えば酒色に惑溺するとか、そういう意味の・・・逸事であります。・・・

 (注65)「<支那>南北朝の宋の劉義慶が編纂した、後漢末から東晋までの著名人の逸話を集めた・・・基本的に小説集。・・・江戸時代の日本へ紹介され、和刻本も出版された。・・・<その>第三十五篇<が>惑溺篇(女性に迷い溺れた人物の話)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E8%AA%AC%E6%96%B0%E8%AA%9E

 <日本でも>江戸時代に・・・「惑溺」という言葉は、そんなに度々ではありませんが、使われておりました。・・・
 一例を申しますと、安積澹泊(あさかたんぱく)<(注66)>の『大日本史賛藪(さんそう)』という著があります。・・・」(220~222、226~228)

 (注66)1656~1738年。水戸藩士の子。[江戸時代初期に来日<した>・・・明の儒学者]朱舜水に学ぶ。水戸藩の彰考館に勤務し、大日本史の編纂に携わる。明治時代に創作された『水戸黄門漫遊記』の中で、光圀のお供役として澹泊をモデルにした「格さん」が登場する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E7%A9%8D%E6%BE%B9%E6%B3%8A
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E8%88%9C%E6%B0%B4 ([]内)

(続く)