太田述正コラム#11109(2020.2.15)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その57)>(2020.5.7公開)

 「「惑溺」という言葉が最も頻発してくる『文明論之概略』<についての話は以前に取り上げ済なので改めて取り上げることはしません。(太田)>・・・
 <福沢の>「覚書」(明治8年9月頃~明治11年頃)<(注71)>の中にこういう言葉があります。

 (注71)「明治8年9月頃から書き始め、明治10年辺りまで書かれたもの<というのが正しいこと(太田)>のようだ。・・・この頃は、『学問のすすめ』が14冊まで刊行され、『文明論之概略』の就筆が終わり、読書思索に専念していた時期だ。」
http://kashwazakitushin.blog.shinobi.jp/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6/%E7%A6%8F%E6%B2%A2%E8%AB%AD%E5%90%89%E3%81%AE%E8%A6%9A%E6%9B%B8

 「・・・活眼を開て古今の歴史を身よ。支那の湯武(<殷の>湯王と<周の>武王)とは何事を為したるや。書経<(注72)>などは湯武の奴隷たる史官の筆なり。何ぞ之を証するに足らん。

 (注72)「古来の通説では孔子が、各国の史官が書き残した重要な出来事の記録およそ100篇を入手し、堯から秦の穆公まで取捨選択し編纂したことで成立したと考えられていた。 しかし、孔子が編纂を行ったことと、その基となった資料の年代に疑義が唱えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B8%E7%B5%8C

⇒「湯王<は、>・・・桀は暴虐な政治を行い、人心は夏から離れていた。夏の臣であった天乙は伊尹の補佐を受け桀を攻め、これを滅ぼした」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%B9%99
ということになっており、また、「武王<は、>・・・殷の紂王は暴虐な振る舞いが多く、これを討<ち、>・・・殷を滅ぼし<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%8E%8B_(%E5%91%A8)
ということになっているところ、殷や周の史官達には、自分達の王朝の創始者を称揚することが求められたであろうことから、ここは、確かに、諭吉の言う通りではないでしょうか。(太田)

 仁徳天皇、何の功あるや。諂諛(てんゆ)<(注73)>を恥とせざる家来共の口碑に伝へたるまで(の)ことなり。

 (注73)「こびへつらうこと。阿諛」
https://kotobank.jp/word/%E8%AB%82%E8%AB%9B-579046

⇒仁徳天皇皇統は男系断絶してしまい、現在まで続くのは継体天皇皇統です
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87
から、支那のように王朝が放伐によって代わったわけではないとはいえ、継体天皇皇統の天武天皇が古事記と日本書紀の編纂を命じた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80
以上、記紀において仁徳天皇をことさら称揚する記述ぶりにする必要はなかったはずなのに、そうしたということは、仁徳天皇が、実際に、その父の応神天皇・・天武達の皇統の祖でもある!・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87
や子供の3人の天皇達よりも、「仁政」を含め、多くの実績をあげたと伝えられてきたからである、と見るべきでしょう。
 従って、諭吉のこのくだりもまた、勇み足と言うほかありません。(太田)

 況んや近代の天子将軍に至ては、其人物の取るに足らざるは事実に於て明に見る可くして、天下衆人の心の内に認る所なれども、之を敢て外に見(あら)はす者なし。
 如之(しかのみならず)、学者士君子と称する一国の人物が、尚この惑溺を免るゝこと能はずして、動(やや)もすれば其著書又は建白等に不都合なる文字を用るもの多し」。
 学者士君子のような知識階級が、建白などに恐れながらというような表現を用いたりするのを、<福沢は、>やはり惑溺とみているわけです。」(240~242)

⇒距離感のある人や上司筋や客筋の人に対しては、尊敬語ないし尊敬表現、ないし、謙譲語ないし謙譲表現、を用いるのが日本語の特徴である、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%AC%E8%AA%9E
というだけのことなのであって、ここもまた、諭吉の勇み足であり、そのような諭吉の一連の勇み足に対して無批判である丸山は無責任というものです。(太田)

(続く)