太田述正コラム#11113(2020.2.17)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その59)>(2020.5.9公開)

⇒バックル(コラム#9771、11105)は学者たらんとするも、公的教育を受けていない(コラム#11105)こともあり、1910年版ブリタニカ百科事典は「「文明」、「歴史」、「科学」、「法則(law)」といった、彼が扱ったところの一般概念の定義を行わなかったために、彼の諸主張はしばしば誤謬であった」と批判していますが、ここは、学者たらんことを放擲した諭吉としては、さほど気にはならなかったでしょうね。
 なお、「バックルは、歴史学者達は、伝記や軍事・政治史にばかり関心を持ち、<歴史の>普遍的原理や諸法則を追求しようとしなかった」と書いているというのですが、戦後日本の歴史学者達は、どっちもさぼっているわけで、何をかいわんやです。
https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Thomas_Buckle (「」内)(太田)

 「また忠義の情というものに対して、『国権論』においても批判的なのですが、<その中>・・・で忠義というのは心酔の情より出るものだといっている。
 心酔という言葉は今日でも言いますね。
 西洋への心酔とか何とかと。
 その心酔という言葉を使いながら「惑溺」という言葉はなぜか使っていない。
 『国権論』の二篇には、宗教の「虚飾」といった『文明論之概略』にも盛んに出てきた思想が出ていながら、「惑溺」の文字は出てきません。
 さきに『通俗国権論』でその字が出てきたのは、江戸幕府の期間にだんだん惑溺が減ったというそういう文脈の中でです。
 もう一つの例は、明治12年に出た『福沢文集』の二篇巻二にあります「売薬論」という論文であります。
 これは新聞広告の過半は売薬広告で、とくに雑報や雑誌の中に売薬の流行を勧めるのはおかしいじゃないかという、一種の新聞批判でありますが、・・・一方では・・・道理で固めたような立派なことを言っておきながら、他方では、愚民を扇動して売薬の披露吹聴するというのは、矛盾してるじゃないかというのです。
 世間の惑溺を解くといいながら、変なインチキな薬の広告をするのはおかしいじゃないか、というので、「道理」にたいする反対語として「惑溺」ということを言ってい<ま>す。

⇒こりゃ、「世間の惑溺を解くといいながら、」慶應義塾や時事新報「の広告をする」諭吉の、自分自身に対する皮肉か、と言いたくなってしまいますが・・。(太田)

 ほとんど同じ時期に、これは明治13年10月に栃木県に出張した菊池財蔵氏からの報告の裏表紙に、「覚書」というのを書いて、その本文の第一枚目にこういうふうに書いています(全集第十九巻所収)
 「日本の儒者流士族に特に惑溺の弊少なきは、仏に敵したる故なり。漢土の流に非ず、競争の功徳」。
 漢土の流にあらずという意味は、士族も儒教の影響を受けてその惑溺が少ないわけではない。
 儒教にはもともと惑溺があるのに、その影響を受けた日本の武士に比較的惑溺が少ないのは、仏教と抗争したからだ–これは恐らく、戦国時代の石山本願寺などと戦国大名とのヘゲモニーの抗争を指していると思います。
 江戸時代の儒学に排仏論がありますが、排仏論というだけだったら、中国朱子学にもあるわけですから…。

⇒江戸時代の幕府の公定儒教学派が朱子学であったということに引きずられた丸山の記述ですが、舌足らずである、と言うべきでしょう。
 支那の排仏論(注75)は、はるか昔からあったのですからね。

 (注75)「仏教が伝来した当初の漢代には,排仏論はまだおこらなかった。仏教が中国固有の思想,信仰との融合につとめたからである。だが仏教が仏教としての立場を明らかにし,思想的,社会的に大きな影響力をもつにいたった六朝時代には,排仏論もやかましく叫ばれはじめ・・・た。・・・南朝の顧歓や唐の韓愈たちの排仏論の主たる論点は,仏教はそもそも夷狄のために設けられた教法であるから中国に行うことはできないという点に存した」
https://kotobank.jp/word/%E6%8E%92%E4%BB%8F%E8%AB%96-1194711
 「南朝(南斉)の道士顧歓(420‐483?)の書いた《夷夏論》・・・ではそれまでインド伝来の仏教をよぶ言葉でもありえた道教の語が,もっぱら中国固有の伝統的な宗教をよぶ言葉として確定され,しかもこの道教を仏教とまっこうから対立させつつ,〈夏〉の宗教である道教の〈夷〉の宗教である仏教に対する優越性がさまざまな論点から強調されている。」
https://kotobank.jp/word/%E9%A1%A7%E6%AD%93-1316236
 韓愈(768~824年)は、「818年・・・、30年に1度のご開帳に供養すればご利益があるとして信仰を集めていた鳳翔の法門寺の仏舎利が、長安の宮中に迎えられ、供養されることとなった。819年・・・、それに対して韓愈は、『論仏骨表』を憲宗に奉って極諌した。結果、崇仏皇帝であった憲宗の逆鱗に触れ、潮州刺史に左遷された。翌820年、憲宗が死去して穆宗が即位すると、再び召され・・・その後は兵部侍郎・吏部侍郎を歴任し<た。>・・・
 六朝以来の文章の主流であった四六駢儷文が修辞主義に傾斜する傾向を批判し、秦漢以前の文を範とした達意の文体を提唱し(古文復興運動)、唐宋八大家の第一に数えられている。この運動に共鳴した柳宗元は、韓愈とともに「韓柳」と並称される。古文復興運動は、彼の思想の基盤である儒教の復興と表裏をなすものであり、・・・その排仏論も、六朝から隋唐にかけての崇仏の傾向を斥け、中国古来の儒教の地位を回復しようとする、彼の儒教復興の姿勢からきたものであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E6%84%88

 なお、丸山ならずとも、ここで諭吉が言っていることもまた、勇み足、ないしは勇み足に近い、と、私自身も思います。
 「一六世紀後半から顕著となって来る<ところの、>・・・日本<における>・・・もっぱら現世の人事に関心を集中する〈現世主義〉・・・の背景<たる>・・・思想史的要因」について、阿満利暦は、「第一は、儒教の排仏論が進むにつれてはっきりしてくる宗教的世界観にたいする無関心の増大である。儒教は、現世における倫理を強調し、仏教の脱社会倫理を攻撃した。そして、儒教が幕府の正統イデオロギーとなってからは、宗教に対して無関心であることが、知識人である条件となるにいたった。第二の要因は、楽観的な人間観の浸透である。その典型は、伊藤仁斎(一六二七―一七〇五)である。仁斎は、正統朱子学を批判して孔子にかえれと主張したことで知られている。彼は、青年時代、禅の修行をしたことがあったが、その時、異常な心理状態に陥り、以後、仏教を捨てることになった。彼にとっては、真理はいつも日常卑近の世界に存在しているべきであり、内容の如何を問わず、異常なことは、真理とはほど遠い、と信じられていたのである。また、鎌倉仏教の祖師たちが、ひとしく抱いた「凡夫」という人間認識は、仁斎にとっては遠い考えでもあった。第三は、国学者たちが主張した、現世は「神の国」という見解である。その代表は、本居宣長(一七三〇―一八〇一)だが、現世の生活を完全なものとして保障するのは、天皇支配であった。なぜなら天皇は、万物を生み出した神の子孫であったから。天皇支配のもとでは、いかなる超越的宗教の救済も不必要であった。天皇が生きているかぎり、その支配下にある現世は「神の国」なのである。」
https://ci.nii.ac.jp/naid/120005681830
と指摘しており、深入りすることは避けますが、江戸時代の排仏論は、儒教、就中、「儒者流士族」、による排仏論、だけの産物ではないからです。
 (伊藤仁斎は京都の商家(上層町衆の家)の出身であり、生涯、幕府や特定の藩に出仕しませんでした。
https://kotobank.jp/word/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E4%BB%81%E6%96%8E-15403 )(太田)

 ともかく「競争の功徳」と言って、競争によって惑溺が減るという考え方は、やっぱり『文明論之概略』のテーゼの続きといえます。」(244~245)

(続く)