太田述正コラム#11115(2020.2.18)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その60)>(2020.5.10公開)

 「それから同じ頃の著として、『時事小言』があります。
 ・・・明治14年の・・・9月に出たことになってい<る>・・・のであります。
 ここで大いに清国を批判している。
「畢竟、支那人が其国の広大なるを自負して他を蔑視し、且(かつ)数千年来、陰陽五行の妄説に惑溺して、事物の真理原則を求るの鍵を放擲したるの罪なり」。
 清国というのはまだその惑溺の中にあるというわけです。
 日本にもこういう「妄説」はあったが、我国に於て鬼神幽冥の妄説は、多くは仏者が宣伝し、これにたいして儒者は仏者を攻撃し、幽冥の説を駁撃した。
 そこで一旦幽冥の説を攻撃するとなると、儒者も自分らの陰陽五行説というものをあんまり持ち出すわけにいかなくなった。
 それで、儒者が仏者を攻撃するのは、「儒者流の私なれども(つまり儒者のエゴから出たことだけれども)、此私論の結果を以て惑溺を脱したるは、偶然の幸と云ふ可し」。
 こういう所に「惑溺」が出て来ます。・・・」(246~247)

⇒儒教と陰陽五行説との関係が気になったので、少し調べてみました。
 すぐ下の囲み記事参照。(太田)

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[陰陽五行説と儒教] 

 ・総論

 「陰陽五行<(いんようごぎょう)>説<とは、>・・・古代<支那>の世界観の一つ。陰陽説と五行説とは、発生を異にする別の思想であったが、戦国末以後、融合して陰陽五行説となり、とくに漢代の思想界に大きな影響を及ぼした。・・・
 この陰陽五行は、十干(じっかん)、十二支、六十四卦(か)および天一、地二などの数と結び付き、それに災異説<(注76)>や讖緯(しんい)説<(後出)>などと互いに影響しあって変化し、迷信禁忌の色彩を濃くし、その後の民間信仰のなかに入っていった。また、日本にも伝わり陰陽道(おんみょうどう)を成立させた。」
https://kotobank.jp/word/%E9%99%B0%E9%99%BD%E4%BA%94%E8%A1%8C%E8%AA%AC-33303 △

 (注76)「災異とは天災地変を略していったもので、日食、彗星(すいせい)の出現、洪水、地震、大火などのことをいう。こうした現象を、天人合一思想に基づいて、人間の行為と関連づけて説いたのが災異説で、<支那>の漢代にこの理論がたてられた。前漢の董仲舒(とうちゅうじょ)は、国に失政があったとき、天がまず災を降(くだ)して譴告(けんこく)し、それでも改悛の心がないときは異を出して威嚇すると説き、さらにだめなときはこれを滅ぼすとして災異説を確立した。小なるものを災(災害)、大なるものを異(怪異)として専制君主の横暴の歯止めとしようとした。後漢の何休(かきゅう)は、この考え方を一歩進めて、災は行為の結果現れるのに対し、異は「事に先んじて至るもの」として、予言的性格を強く出した。『緯書(いしょ)』ではこうした災異説をことごとく予言説化し、前漢末から後漢にかけて流行した。日本で奈良朝以後この災異説が流行した」
https://kotobank.jp/word/%E7%81%BD%E7%95%B0%E8%AA%AC-507158

 ・陰陽説

 「陰陽説とは、陰陽二気の消長により万物の生成変化を説く思想で、これが易(えき)に取り入れられてその基本原理となったが、陰陽は元来、山の日陰(ひかげ)、日向(ひなた)のことをさした。易はもと、剛と柔との組合せで生成変化を説いたが、のち剛柔にかわって陰陽が取り入れられ、これによって循環の思想が加わった。これは天体の運行や四季の推移から考えられたのであろう。」(上掲)

⇒陰陽説は、本来、儒教とは何の関係もなかったわけだ。(太田)

 ・五行説

 「五行思想または五行説とは、古代<支那>に端を発する自然哲学の思想。万物は火・水・木・金・土の5種類の元素からなるという説である。また、5種類の元素は「互いに影響を与え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環する」という考えが根底に存在する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%A1%8C%E6%80%9D%E6%83%B3 ◎
 「<この>五行説は、古代人の生活に必要な五つの素材、つまり民用五材の思想に基づく説である。生活に直接的な水火に始まり、木金に及び、その基盤をなす土に終わる。この水火木金土の次序は『書経』の「洪範篇(こうはんへん)」にみえ、生成五行という。この五材説に対し、戦国中期の陰陽家、鄒衍<(注77)>(すうえん)の唱えたのが土木金火水という、後からくるものが前にあるものに勝つという五行相勝(そうしょう)(相剋(そうこく))による五徳終始説である。」(△)

 (注77)[BC405~BC240年。]「前 350年頃活躍した<支那>,戦国時代の思想家。斉国 (山東省) の人。」
 [儒家、特に孟子の影響を受けながら五行説を唱えたと言われている。]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%92%E8%A1%8D ([]内)
https://kotobank.jp/word/%E9%84%92%E8%A1%8D-83247

 「互いが相乗効果で良い相性を生む<のが>「相生」、・・・お互いに力を弱め合う<のが>「相剋」で<ある>。」
https://paferia.com/fusui/kihon/04.html
 「<支那>の戦国時代末期の書物『呂氏春秋』は五行の相剋の説を使って王朝の継承を解釈した。それぞれ王朝には五行のうちの一つの元素に対応した「徳」が充てられた。そして、その王朝の正色もそれに対応して、元素としてその「徳」の色になった。例えば、殷王朝の徳は金徳で、その正色は白だった。前の王朝が衰え、新しい王朝が成立した時、新しい王朝の徳が前の王朝の徳に勝ったことにより、前の王朝から<支那>の正統性を受け継いだ。例えば、周王朝の火徳は殷王朝の金徳に勝ったとされた。これは鄒衍の五徳説から発展した思想である。五徳説は、周の世を基準として黄帝の世までを五行で解釈したものである。色を配したのは管子幼官篇からだとされる。」(◎)
 「また、天文暦数の学と関連をもつ『礼記(らいき)』の「月令(がつりょう)篇」には、四時や四方の観念によって木火土金水、すなわち前にあるものから後のものを生ずるとする五行相生(そうせい)の次序が記され、多くの配当がなされている。五行の「行」は「めぐる」で流行、運行することであり、「五」は五星、五色、五味、五声など多方面で行われた一つの思考の型である。これは人の片手の指の数からきたともいわれ、一つのまとまりを表す標準である。」(△)

⇒ここに登場する、書経、鄒衍、呂氏春秋、管子、礼記、のうち、儒教に直接関するものは、書経と礼記だけだ。(太田)

 ・儒教と陰陽五行説の融合

 「<陰陽説と五行説>の両説を1つにしたのは鄒衍・鄒奭<(注78)> (すうせき)<だ。>」(△)

 (注78)[?~?年。]「<鄒衍>の思想を継承展開した・・・<また、>天人感応の説によって,漢代の讖緯説(しんいせつ)の基礎にもなった。」
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%A8%B6%E5%A5%AD
 「この讖緯説<とは、>・・・漢代以後に行われた神秘思想<であり、>自然界と人間界とは密接な相関関係があるとして、讖(未来を予言した書)と緯(経書を神秘的に解釈した書)を中心に五行説をも併せ、自然界の現象によって人事百般を予測した<が、>六朝時代以後は禁止<された>。日本へは飛鳥時代ごろに伝わり、のちの陰陽道(おんようどう)の中に受け継がれた。」
https://kotobank.jp/word/%E8%AE%96%E7%B7%AF%E8%AA%AC-81317#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88
 「<ちなみに、讖緯説>の神秘な予言を最初に利用したのは、前漢を簒奪した王莽であり、後漢を復興した光武帝は讖緯の異常な信者であり、明帝も章帝も厚く讖緯を信じ、これを批判する者は迫害され、「儒者は争って図讖を学び」、図讖によって経書を解釈した。・・・思想史的にみてその最大の意義は、伝統的な孔子観を一変して孔子(孔丘(こうきゅう))を神格化したことであろう。・・・儒教の宗教的変質がここに始まることになる。」
https://kotobank.jp/word/%E8%AE%96%E7%B7%AF%E8%AA%AC-81317#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 前掲

 「前漢の初期には,秦の弾圧政策の反動として,自由放任の政治を説く道家思想が流行したが,やがて武帝の代になって儒学が官学として採用され,以後2000年にわたる儒教支配の基礎を固めることになった。漢代儒学の特色の一つは,陰陽五行説を取り入れたことにある。陰陽説とは万物が陽気と陰気の2要素から成ると説くもので,その典型的な例は《易経》に見られる。」
https://kotobank.jp/word/%E9%99%B0%E9%99%BD%E4%BA%94%E8%A1%8C-819056
 「易経<は、>・・・孔子が集大成したといわれるが未詳。天文・地理・人事・物象を陰陽変化の原理によって説いた書で、元来、占いに用いられた。六十四卦(け)およびそれぞれの爻(こう)につけられた占いの文章(経)と、易全体および各卦について哲学的に解説した文章(伝もしくは十翼という)とから成る。周代に流行したところから周易ともいう。」
https://kotobank.jp/word/%E6%98%93%E7%B5%8C-36170
 「<付言すれば、>後漢王朝以降、<支那>の王朝は五行の相克の代わりに相生の説を使って王朝の継承を解釈した。例えば、隋朝の火徳は唐朝の土徳を生み出したとされた。」(◎)

⇒前漢の武帝以降、儒教と陰陽五行説が融合するに至った、ということになる。(太田)

(参考)
 
 「二つの対立物による自然の解釈<は>古代ギリシアでも行われたが、さらに、陰陽が太極から分かれたとして二元論を一元論に還元することや、天地、上下、円と方(四角形)、奇数と偶数など対(つい)をなすさまざまな物や概念をそれぞれ陽と陰に振り分け、同じ側に属するものどうしを互いに対応させる思考様式なども、それぞれ、アナクシマンドロスのアペイロンやピタゴラス学派の説を連想させる。
 しかし西洋の対立概念が互いに相いれない厳しい対立であるのに対し、陰陽の場合は互いに相補的・相対的関係をなすものである。
 陰陽二元では説明しにくい現実世界の多様な存在や現象に対しては、より具体的でより多くの要素からなる五行説のほうが都合がよい。種々の概念・対象をいくつかずつに分類して、それぞれを表のように五行の一つ一つに配当し・・・、同じ五行に属するものどうしを対応させ、異なる五行に属するものとの関係をもとの五行の性質と機能とにより解釈した。
 古代ギリシアの四元素説における元素は万物を構成する基本物質としての色合いが濃く、それにとってかわった近代的な元素説や原子論もそのような具体的な基本物質の追求から生まれたのに対し、五行の場合はむしろ性質や機能の面が重視されるようになり、抽象的・形而上学的議論しかなされなくなったことが近代的物質観が生まれなかった一因かもしれない。
 西洋医学には四元素説にヒントを得たと思われる四体液説があったが、<支那>では陰陽説についで五行説が医学・生理学的現象の説明に導入された。これが一般思想への五行説の浸透を促したと考えられる。」(△)
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(続く)