太田述正コラム#11117(2020.2.19)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その61)>(2020.5.11公開)

 「西洋<と>・・・の間に交易が行われ<始めて>・・・以来ほとんど百年になる。
 ところが百年を経ても西洋の書を講ずる者はほとんどいない。
 西洋の器品を使う者もほとんどない。
 「其(その)改進の緩慢遅鈍なる実に驚くに堪たり」といっています。
 福沢が幕末にご承知のようにロンドンに行くわけですが、その時中国人に会った折に、洋学が話題となり、全中国でヨーロッパ語を理解する者が18名くらいという話なので、非常に驚いた。
 その時日本人は、オランダ語が多かったのですが、少なくも横文字を解する者は千をもって数えていた。
 日本のような小さい国で千をもって数えるのにあの広大な中国で、18人しかヨーロッパ語を解する者がなかったという。

⇒諭吉の最初の洋行は、1860年の咸臨丸での訪米ですが、彼がロンドンに赴いたのは2回目の洋行(1861~62年)で、その時、行きに香港に寄港している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89 前掲
ので、そこで聞いた話、ということになりますが、香港が英国に割譲されたのは1842年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E6%B8%AF
で、既に20近く経過していたところ、香港内に英語のできる支那系人が多数いたであろうことは当然として、香港以外の支那本土で「ヨーロッパ語を理解する者が18名くらい」などということは常識的にありえません。
 まさに、その年に、支那本土(清)で進士の馮桂芬<(ふうけいふん/ひょうけいふん)>が中体西用論・・中国の五倫五常の名教を根本とし,諸国の富強の術を補助とせよ・・を提唱しており、
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E4%BD%93%E8%A5%BF%E7%94%A8%E8%AB%96-97390
https://kotobank.jp/word/%E9%A6%AE%E6%A1%82%E8%8A%AC-121232 (<>内)
翌1862年には最初の官立外国語学校が北京に、1863年には上海に設置されています。
https://kotobank.jp/word/%E5%90%8C%E6%96%87%E9%A4%A8-104142#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8
https://kotobank.jp/word/%E5%BA%83%E6%96%B9%E8%A8%80%E9%A4%A8-63161
 支那本土で「ヨーロッパ語を理解する者が18名くらい」だったとすれば、外国語学校設立そのものが不可能だったはずです。 
 外国人達に教育のみならず管理運営まで丸投げにするわけにはいきませんからね。
 何度も同じことを言っていますが、維新後の諭吉は、もはや学者は仮の姿に過ぎないのですから、彼が書いたものを、丸山のように、額面通り受け取ってはいけないのです。(太田)

 そういう話を紹介して、さきに引用しましたように中国人が「数千年来、陰陽五行の妄説に惑溺して、事物の真理原則を求るの鍵を放擲したるの罪なり」というのです。
 ここで陰陽五行の妄説に惑溺することと、真理原則というものとを対比しているのは『文明論之概略』において、「陰陽五行の惑溺を払はざれば窮理の道に入る可らず」と言ったことと文字通り対応しているのでありますが、対象が今度は中国に向けられているわけです。
 結局ここでも、中国の儒教というのは、敵がないから、惑溺を逞しうしたのだ、日本の儒教の場合には仏教の力が強かった、仏教という勁敵がいたから競争の結果として、偶然だけれども惑溺が比較的に少なくなってきた–。
 こういうことを言いたいわけであります。
 けれどもその日本でさえも、山崎闇斎の門弟六千余人と言ったけれども、その六千余人の中に、有名な、孔孟が攻めてきたらどうするかという問答のときに、答えることができなかった<(注79)>というのは、如何に儒教の惑溺がひどいかを示しているとして、山崎闇斎も物徂徠<(注80)>も一緒にやっつけられるのです(もっともこの個所では「精神の教に心酔するの弊」といって「心酔」という表現を用いております)。」(247~248)

 (注79)「山崎闇斎はかつて弟子たちに訊いた。「もし今、かの国が、孔子を大将とし、孟子を副将として、数万の騎兵を率いてわが国に攻めてきたとする。その場合、われら孔孟の道を学ぶ者は、どうすべきか」。弟子は誰も答えられず、「私どもは、どうすべきかわかりません。先生のお考えをお聞かせください」と言った。闇斎は「もし不幸にしてこのような災厄に逢ってしまったら、われわれは身に甲冑をまとい、手に武器を取り、敵と一戦して孔子と孟子を捕虜にして、祖国の恩に報いるのだ。これが孔孟の道だ」と言った。
 後に弟子は、伊藤東涯に会い、闇斎のこの言葉を伝えた上で「われらの闇斎先生のような方こそ、聖人の教えの本質に通じていると言えましょう。だからこそ、孔孟の教えの深い意味を明らかにして、このように優れたお考えをおっしゃることができたのです」と述べた。東涯はほほえんで「きみ、心配することはないよ。幸い、孔子や孟子がわが国に攻めてくることは、ない。私が、ないことを保障する」と言った。」(先哲叢談より。原文は漢文)
https://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/sentetusoudan.html
 「『先哲叢談』(せんてつそうだん)は江戸時代初期から中期までの儒学者を対象とした漢文による伝記集。正編は原念斎著、文化13年(1816年)刊。後に東条琴台により『後編』『続編』が纏められた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%88%E5%93%B2%E5%8F%A2%E8%AB%87
 (注80)「荻生徂徠<は、>・・・物部氏の出であることから、<支那>風に物(ぶつ)徂徠と自称。」
https://kotobank.jp/word/%E8%8D%BB%E7%94%9F%E5%BE%82%E5%BE%A0-17726

⇒余談ですが、「注79」を書いている時に、孔子本家77代と孟子本家75代が、両家共、1949年に蒋介石と一緒に台湾に渡ってきて、現在(2006年8月当時)も台湾居住であることを知りました。
https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/22357
 結果論ではあるけれども、両家とも、判断を誤った、と、思いますね。(太田)
 
(続く)