太田述正コラム#11121(2020.2.21)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その63)>(2020.5.13公開)

 「士族または他種族の士化したる者は、「心事淡泊」で–心事淡泊というのは、大体彼は惑溺と反対の意味、それにはまり込んでいかれていないということを心事淡泊と言うのでありますが–曾(かつ)て謬信淫惑に染みたることなきものなるが故に」云々とありますが、これは昔だったら、「曾て惑溺に染みたる者」というでしょう。・・・
 士族、または士君子、士流–これは士族が中心ですが、同時に平民の中で学問をした者を士流と言ってるわけです。
 それはともかく–そういう人を宗門に導くことは困難だという説があるけれども、必ずしもそうではないというのがここでの論旨です。
 彼ら自身が数百年来儒教の中に薫陶せられ、また封建の「君臣主義」に養成せられてきた。
 この「君臣主義」というのは、「一種の宗門信徒と云ふも不可なきが如し。既に宗門とあれば(中略)、謬信淫惑の行はるゝも自然の勢にして、決して免かる可らず」。
 君臣主義という宗教を信じているから、「謬信淫惑」を免かれない。
 その例として福沢が挙げるのは、大義親を滅すといって子供を殺して幼君の身替りにする–これは明らかに『菅原伝授手習鑑』の「寺子屋」<(注82)>を言っていると思います–、それから、人為の爵位勲章などをありがたがる、こういうのも「一種の「謬惑」に相違なけれども」といっています。

 (注82)「平安時代には寺子屋は当然無かった。これは当時の作劇において時代考証に対する意識が薄かったことと、寺子屋や教育に熱心な家庭では「天神さま」の像を祀る習俗があり、江戸時代の観客にとっては「天神さま」とのつながりが深い場所であったことによる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E4%BC%9D%E6%8E%88%E6%89%8B%E7%BF%92%E9%91%91

⇒その子供を実際に殺した者として劇中に登場するのは、現在の京都府南丹市にあった道真の知行所の代官であった武部源蔵・・道真が大宰府に流された時、園部の代官・武部源蔵は道真の8男・慶能の養育を頼まれた・・です
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E8%BA%AB%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE#%E6%AD%B4%E5%8F%B2 及び上掲
が、劇中、殺されることが分かっていて実子を差し出した者・・松王丸・・は道真の政敵であった藤原時平の舎人(注83)・・但し、道真の口利きで時平に採用された・・ということになっているところ、当然のことながら、松王丸自身は道真の家臣ではないのですから「君臣」関係になどなかったわけであり、要は、松王丸は、臣としての「忠」からではなく、私恩に基づく、或いは、官吏の端くれないし官吏候補者としての、「義」、から、道真のために実子の命を差し出したことになるのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E4%BC%9D%E6%8E%88%E6%89%8B%E7%BF%92%E9%91%91 前掲(事実関係のみ)

 (注83)「律令制の成立後、公的な舎人制度として内舎人(定員90人)・大舎人(同左右各800人、計1600人)・東宮舎人(同600人、うち30人が帯刀舎人)・中宮舎人(同400人)などが設置された。・・・舎人の職務そのものは宿直や護衛、その他の雑用などであったが、その中において官人として必要な知識や天皇への忠誠心などを学んだ。律令制の任官制度では、舎人に任じられた者は一定期間の後に選考が行われて官人として登用されることになっており、支配階層の再生産装置として機能した。また、地方出身者は帰国後に在庁官人や郡司に任じられた。朝廷にとって、国内支配階層の各層から舎人を集めることは、その影響力を各方面に及ぼす上で有利に働いた。・・・だが、平安時代に入ると、舎人の志望者が減少して、本来舎人になれない外位や白丁の子弟からも不足分を補うようになった。また、舎人の身分を悪用して違法行為を行うものも現れ、制度そのものの衰退につながり、「舎人」は使われなくなっていったと考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%8E%E4%BA%BA
 ちなみに、『菅原伝授手習鑑』では、松王丸の父親は百姓、ということになっています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E4%BC%9D%E6%8E%88%E6%89%8B%E7%BF%92%E9%91%91 前掲

 ですから、諭吉はここでも勇み足をしていますし、いつものことながら、そんな諭吉の書いたことに無頓着な丸山にも首を捻らされます。(太田)

 誤謬の謬に惑という字を使っている。
 まさに「惑溺」という言葉を使えそうなケースなのですね。
 ところがその言葉と同じ意味を「謬惑」とか「謬信淫惑」とかいう表現で現しているのです。」(250~251)

⇒このあたりについても、やはり既に指摘したように、維新後の諭吉にとって、学者というのは仮の姿に過ぎなかったのですから、諭吉が、同じ意味だが異なった用語を使っただの用語の使い方を変えただの、なんてあげつらっても仕方がないというのに、丸山は、自身、(これもまた既に指摘したように、少なくとも老境に入ってから、用語の定義に関しても、学者らしからぬ無頓着ぶりであったくせに、)大真面目に論じているのですから、お目出度い限りです。(太田)

(続く)