太田述正コラム#11127(2020.2.24)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その66)>(2020.5.16公開)

 「・・・バックルの根本命題は、結局懐疑の精神と対立させて、三つの根本的な誤謬を指摘することにあります。
 それは第一に政治においては余りにもコンファイディングだ、つまり人任せに信用するということであります。
 それから第二に学問においては余りにも、クレデュラスである。
 第三に宗教においては余りにも不寛容である、イントレラントだ。
 これが三つの根本的誤謬です。
 ところが日本の場合は、福沢が初めから言ってることですが、ヨーロッパのような宗教戦争はない。
 その点はいい側面と悪い側面と福沢は両方に使っておりますけれど、とにかく日本人は宗教については淡泊だと見ていますから、宗教的不寛容はあまり問題にしてない。
 そこで彼は、あとの二つ、つまり政治においてコンファイディング、人任せ信用してるという点と、学問においてクレデュラスであるという点、これを一番『学問のすゝめ』と『文明論之概略』で、集中的に批判の対象としているわけです。
 つまり彼が、バックルが書いた三つの誤謬のうち二つに力点を置いているということ、それはかなり重要なことではないかと思います。・・・

⇒私も「重要」だと思いますが、恐らくは丸山とは全く異なった理由によってです。
 私見では、宗教について「淡泊」であることと「政治において・・・人任せ信用してる」こととは、どちらも人間主義の帰結であって、前者は、日本人のほぼ全員が山本七平の日本教(注86)ばりに言えば、というか、それをより的確に言えば、人間主義教、の教徒であることから、理の当然として、教義宗教に対して違和感を覚えるためであり、後者は、為政者側が基本的に人間主義的に被治者側の意向に沿った統治を行ってきたことから被治者側が一般に為政者側に信頼感を抱いている、が故なのです。

 (注86)山本は、それを、「神ではなく人間を中心とする和の思想である」とする。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%95%99

 ですから、諭吉が、前者を是とし、後者を非とした、とすれば、彼には「非学者的な」魂胆があったからだと見るべきなのであり、私は、島津斉彬コンセンサス信奉者としての諭吉が、一般国民をこのコンセンサスに向けて「動員」するためにも議会開設の早期実現が必要だと考えていたからだ、と見ているわけです。
 また、「学問においてクレデュラスである」ことを諭吉が否としたのは、要は、日本においても支那においても欠けており、欧州においてもかつては欠けていたところの、イギリス由来の帰納的/経験論的学問を日本に根付かせたかったからであり、それは、それなくしては日本の富国強兵は実現できない、という判断故でしょうが、これもまた、島津斉彬コンセンサス信奉者としては当然のことでしょう。(太田)

 <クレデュラスという>言葉はバックルが頻発しているわけには、他のsuperstitionsとかblindfaithとかの表現とちがって、あまり一般には使用されないので、その点に私は着目する<のです。>・・・
 といって私は、「惑溺」というのは「クレデュリティ」、あるいは「クレデュラス」そのものの訳だということを断定しているのではありません。
 そういうふうに一対一の対応ということを想定すること自身がおかしいと思います。
 要するにバックルを読んだ時に、バックルが頻発して使っているこのクレデュリティ乃至はクレデュラスという言葉が、ほかのスーパースティションズとかbigotryというような表現と似た意味ながら、学問についていわれている点で、とくに福沢の思考を刺戟したのではないか、従ってバックルを集中的に学んだ時期において、福沢は「惑溺」という言葉をもっともしばしば使って、それ以後においては、その言葉の使用は急速に減じているというのは、どうもそれに関係があるのではないかというのが、推論の域を出ないのでありますけれども、現在の私の考えなのであります。・・・

⇒これも繰り返しになりますが、学者であることが仮の姿でしかなくなったところと私が見ているところの、維新後の諭吉に関して、諭吉が用語の定義や使用に関して厳密性を追求したはずだ、と、丸山が考えること自体が、私に言わせればナンセンスであるわけです。(太田)

 <さて、>日清戦争の前の年で<ある>・・・明治26年の「実業論」・・・<において、>彼は、日本では学事・政治の革命はできたが、実業の革命はまだできていない、と言ってい<ます>。・・・
 <すなわち、>漢学<は>・・・昔日の威を失って洋学になった<し、>・・・憲法ができ、立憲政体<も>できた<のだけれど、>と・・・。・・・」(263~266)

⇒これについても先回りして、またもや繰り返しの指摘をすれば、諭吉は、慶應義塾のプロモーションを行っているわけです。(太田)

(続く)