太田述正コラム#11145(2020.3.4)
<丸山眞男『日本政治思想史研究』を読む(その3)>(2020.5.25公開)

 ・・・「故にそこに存在してゐるものは、まづなによりも國家–主體がいまだ己の權利に到達せず、むしろ直接的な、法律なき人倫態が支配してゐる如き國家–であり、それは歴史の幼年時代である。・・・
 没落せるものに代つて登場した新しいものもまた、没落し行くものへと沈淪してしまふ。その間なんらの進歩もみられない。かうした動揺はいはば非歴史的な歴史である」・・・
 子の父に対する服従をあらゆる人倫の基本に置き、君臣・夫婦・長幼(兄弟)といふ様な特殊な人間関係を父子と類比において上下尊卑の間柄において結合せしめてその嚴重」なる「別」を・・・儒教道徳・・・<は>説く<。>・・・
 いはゆる五倫のうち朋友のみが對等者の關係であるが、朋友については説かれること最も少く、その朋友すら「朋友の序」として上下関係を以て律した例の存すること、さらに朋友にあらざる一般公衆の間の倫理が存在しないことが、ここで顧慮されてよいであらう<(注7)>。

 (注7)丸山は、『日本の思想』(1961年)中の「「である」ことと「する」こと」の中で、「アカの他人の間のモラルというものは、・・・あまり発達しないし、発達する必要もない。いわゆる公共道徳、パブリックな道徳といわれているものは、このアカの他人同士の道徳のことです。・・・朋友<という>・・・友達関係をさらにこえた他人と他人との横の関係というものは、儒教の基本的な人倫のなかに入って来ない。つまりこれは儒教道徳が典型的な「である」モラルであり、儒教を生んだ社会、また儒教的な道徳が人間関係のカナメと考えられている社会が、典型的な「である」社会だということを物語っております。」と書いている。
https://books.google.co.jp/books?id=jgsqrzUp55cC&pg=PA256&lpg=PA256&dq=%E6%9C%8B%E5%8F%8B%EF%BC%9B%E5%84%92%E6%95%99&source=bl&ots=YYaYTDpH9o&sig=ACfU3U2fdxmRCLNML61tjbTVLmusnskVAw&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjk9P7WnYDoAhWr3mEKHTKkCV8Q6AEwB3oECAkQAQ#v=onepage&q=%E6%9C%8B%E5%8F%8B%EF%BC%9B%E5%84%92%E6%95%99&f=false

⇒「注7」からも、丸山にとって「朋友」論がお気に入りの話題であることが分かりますが、まず、「朋友の序」という用例があったとは思いにくく・・現に検索をかけても全く出てこない・・、丸山自身も典拠を付していないことから、これ、誤りでしょう。
 いずれにせよ、「朋友」論を講釈するのであれば、まず、丸山は、まず「朋友」の定義をしなければならないのに、それをやっていません。
 そもそも、日本で言う「友人」と「朋友」は、似て非なるものです。
 「「朋」は同門の友、「友」は同志の友」
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%8B%E5%8F%8B-628615
なのであって、それは、私の言うところの、一族郎党命主義における、同じ一族郎党に属さないにもかかわらず、「「困った時に助け合う」関係」にある人
http://chugokugo-script.net/bunka-hikaku/yuujin.html
のことなのです。
 つまり、「朋友」なるものは、日本のような人間主義社会でもイギリスのような人間主義的社会でもなく、教義宗教もなきに等しい支那には「一般公衆の間の倫理が存在しない」ことに加えて、支那は不幸なことに公的な「セーフティーネットが未整備な社会」でもあり続けてきたところ、
http://chugokugo-script.net/bunka-hikaku/yuujin.html
そんな社会において、「一族郎党」を補完する私的な「セーフティーネット」を指しているのです。
 付言すれば、孟子が、「朋友有信」、すなわち、「友人の間では、お互い信頼し合うことが大切である」と言った(『孟子』滕文公章句上)
http://fukushima-net.com/sites/meigen/1059
のは、互いに確実にセーフティーネット機能を果たさない者同士は朋友とは言えないよと釘をさした、ということなのです。
 ですから、丸山のように、「朋友」の話題を、日本を論じる時に持ち出すのはナンセンスである、と思うのですが・・。(太田)

 かうした儒教道徳の特性は明治時代の比較的保守的な倫理學者西村茂樹も「儒道は奠属の者に利にして卑属の者に不利なり、奠属には權理(ママ)ありて義務なきが如く、卑属には義務ありて權理なきが如し、國の秩序を整ふるは、此の如くならざるべからずと雖ども、少しく過重過●<(←車偏に誙のつくり)>の弊あるが如し」として諦めざるをえなかったところである。・・・
 <かかる儒教道徳>は<、>恐らく、「帝王の父としての配慮と、道徳的な家族圈を脱しえず従つてなんら獨立的・市民的自由を獲得しえない子供としての臣下の精神と」によつて構成された壮麗なる漢の帝國に最もふさはしい思想體系であつたのであらう。・・・尤も儒教の側からも、戦國時代から秦漢時代への展開において、官學としての適格性をヨリ高度にすべき變貌が行はれてゐたことを看過出来ない。諸侯の對立してゐた戦國時代には儒教の「先王の道」がまさに實現さるべき理想であつた限り、その教説はある程度まで抗議的な性格を帯び、政治的=實践的な色彩が顕著であつたが、旣に確立した絶對的な王朝權威を動かすべからざる前提とせざるをえなかつた漢以後の儒教が、抗議的性質を喪失して一種のRechtfertigungs’ehre<(注8)> に化したことは怪しむに足りない。しかしかうした變貌も儒教そのものに始から内在してゐた或るモメント(たとへば、階統敵秩序維持の為の體の高調、天命による王位の基礎づけ)が發展したまでのことである。・・・」(4、6~7)

 (注8)「言い訳的面目」といったところか。
https://tureng.com/en/german-english/rechtfertigungs-
https://ja.glosbe.com/de/ja/Ehre

⇒ここで丸山が書いていることもさることながら、そもそも、その中で、こんな分かりにくいドイツ語を用いるなど、もってのほかです。(太田)

(続く)