太田述正コラム#11153(2020.3.8)
<丸山眞男『日本政治思想史研究』を読む(その7)>(2020.5.29公開)

 「しかし近世における儒教の隆盛にはなほ主觀的條件が存在しなければならない。
 それは儒教そのものゝ思想的革新である。
 近世における存在形態を、それ以前の儒教から特徴づける點は、從來の儒學が朝廷における博士の漢唐訓詁の學であるか、民間の研究にしてもほとんど寺院内における僧侶の個人的=趣味的研究にとどまつてゐたのに對し、近世の儒教はすぐれて教學としての意義をもち、その研究も特殊なサークルを脱して獨立の儒者によつて多少とも公開的になされたことにある。
 かゝる轉開の思想的契機となつたのは宋學の渡來であつた。
 宋學は夙に鎌倉時代に禪僧によつて我國に移入され爾來五山の僧侶らによつて傳承されたが、そこでは宋學の哲學は當然に佛教教理とくに禪宗の教理と妥協せしめられて、いはゆる儒釋不二<(注19)>が説かれ、例へば窮理盡性<(注20)(きゅうりじんせい)>は見性成佛<(注21)>と、持敬静坐<(注22)>は坐禪と同一視された。」(11)

 (注20)「窮理はもと《易》説卦(せつか)伝に〈理を窮(きわ)め性を尽<(=盡)>くし以て命に至る〉とあるのに由来する。・・・謝良佐<は、>・・・程(程顥(こう),程頤(い))門の高弟だが,・・・その学風は程顥(明道)に近い<ところ、>仁を覚(知覚)とし,誠を実理とし,敬を常惺惺(せいせい)(心をたえず覚醒させておく)とし,窮理とは是(ぜ)(正しいあり方)を求めることだと<した>。青年期の朱熹(子)は彼の思想にゆり動かされたが,やがて批判するに至る。・・・<すなわち、彼>は<、>・・・心の静なるとき(未発(みはつ))も動くとき(已発(いはつ))も敬を持すことによって心の主体性を確立しようと<するとともに、>敬だけでは現実世界の筋道が見えてこないので,居敬と窮理(道理の追求)の双修を強調し・・・一事一物の・・・〈窮理〉または〈格物致知〉・・・を積み重ねてゆくと,突如〈豁然貫通(かつぜんかんつう)〉(一種のさとり)が訪れると<した。>」
https://kotobank.jp/word/%E7%AA%AE%E7%90%86-477444
 (注21)「見性(けんしょう)とは、人間に本来そなわる根源的な本性を徹見すること。性(しょう)は本来、煩悩に汚されることはなく、それ自体で清浄なものであり、この自性清浄心に気づくことを指す。性(しょう)を仏性、法性、心性ともいう・・・。
 禅における悟りであり、見性はただちに成仏であるとされた。ただし、道元は見性を全く否定する禅を説く。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%8B%E6%80%A7
 (注22)「宋代の儒教では心の修養に仏教や道教に依らない独自のものを模索してい<て、>その一つに「敬」があり、朱熹(朱子)の先駆者であった程頤は、儒家経典である『論語』憲問篇の「己を修めるに敬を以てす」や『易経』坤卦文言伝の「君子は敬もって内を直し、義もって外を方す。敬義、立ちて徳、孤ならず」の「敬」を「主一無適」(意識を一つに集中させてあちこち行かない)と定義し「持敬」という修養法を唱えた。朱熹はこれを継承して「敬」を重視し、「窮理」のための一つの方法とし・・・た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%85%E6%95%AC
 「朱熹は儒教経典に見られる「敬」を重視し、日常的な場面でも心を安静の状態に置くこと(居敬)を求め、静坐をその一部に位置づけた。一方で静坐にも一定の意義を認め、静坐での呼吸法について『調息箴』という書物を著している。・・・
 朱熹は仏教の禅の座禅を思考を断絶するものだとして退け、しっかりと意識をもちながら心の安静な状態を維持するものを静坐とした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%99%E5%9D%90

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[儒釋不二]

 「三教言致説あるいは儒仏不二の説というのは、その深源を求めれば、遠く後漢時代にまで遡りうるが、それが極盛となるのは宋代に至ってであり、それは禅宗が最も隆盛を極める時代とその機を一にしている。この時代、儒者は儒教振興のために仏教を仇敵とし排仏論を主張する者が多出するが、禅門においても儒学を研究し、それとの調和を計り、あるいはそれに対校して排仏論を論破する者も出ている。
 我が国において最も早く三教言致説がみられるのは、東福寺の辮円 (聖一国師) であるとされる。それ以後、帰化僧の大休正念 (文永六年、二ニハ九来朝)・無学祖元 (弘安二年、一二七九来朝)・兀奄普覚 (文応元年、二一六〇来朝)・明極楚俊(元徳元年、二三一九来朝)・清拙正澄 (嘉暦元年、二一二一六来朝)・竺仙梵儒 (元徳元年、二三ー九来朝) 等々の諸師に三教一致説が見られる。我が国の禅僧においては、不二道人と号した岐陽方秀 (二二六一-一四二四) を代表として、所謂の五山僧、臨済系の諸師に儒仏合一・不二・三教一致説が多く見られる。
 このように、鎌倉時代から室町時代にかけて、一つの時代思漸として三教一致に関する諸説は存在したのであり、その影響は根深く近世にまで波及しているのである。
 換言すれば、三教言致思想は、<支那>においては宋代の時代思潮の一つとして存在したのであるから、当然その影響を受けている日本においても時代思潮となっているのである。」(大谷哲夫「日本禅門における三教観」より)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/31/2/31_2_583/_pdf/-char/ja
 「三教(さんきょう)とは、<支那>において、儒教・仏教・道教の三つ・・・を指して言う用語<であり、>・・・廃仏事件のあった北周の時期より、使われ始める。廃仏を断行した武帝は、その廃仏断行前から、三教談論を数次にわたって開催して、その優劣を、儒者・僧侶・道士に討議させていた<ところ、>この三教談論の慣習は、隋唐にまで受け継がれ、形式化したものではあったが、宮中で行われる風が受け継がれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%95%99
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⇒すぐ上の囲み記事や「注20」~「注22」を踏まえれば、「窮理盡性は見性成佛と、持敬静坐は坐禪と同一視された」のが日本において(のみ)であったかのように書いた丸山は、仏教や儒教の知識が乏しかったのか、それとも自分の文章を十分読み返さなかったために書き間違いを見過ごしたのか、どちらかでしょうね。
 なお、復習も兼ねて、(道教についてはさておくとして、)儒仏不二の説について、私見を申し上げておけば、本来の仏教(釈迦の教え)は全ての人に仏性(人間主義性)が備わっているのでそれを発現させてやればよいとしているのに対し、儒教は人倫は教化されるか自己修養しなければ身に付かないとしている、という点で大きく異っているので、不二ではない、というものです。
 但し、儒教と言っても、程明道と王陽明にとっての人倫は「万物一体の仁」であって、孔子以下のその他の儒者達にとっての人倫たる「仁」とは、万物一体性の有無において異なっているところ、前者の人倫は仏性とほぼ同じものである、と、私は見ているわけです。(コラム#省略)(太田)

(続く)