太田述正コラム#11177(2020.3.20)
<丸山眞男『日本政治思想史研究』を読む(その14)>(2020.6.10公開)

 「萬物は一理を根源とするといふ意味に於て平等であるが、(萬物各々其の性を一にす–太極圖説解<(注38)>)氣の作用によつて差別相が生ずる。

 (注38)「宇宙間のすべての物 (現象) は無規定で,しかも唯一の「太極」を根源とし,背反,矛盾,調和,累積などの陰陽二気と五行の錯綜によって万物が生成するという世界観とその思弁的理法とを体系化し,図式化した「太極図」につけられている・・・宋代の思想家周敦頤の・・・論文。わずか 250字の論文であるが,戦国時代,特に漢代以来追究されていた万物の生成,展開の根本理法,いわゆる陰陽五行説を簡明に体系化している。・・・ 
 のち、朱熹が「太極図説解」を著したため、朱子学の聖典とされ・・・周敦頤は宋学の開祖と目されるようになった。なお本書は易の思想に基づくが、唐代以来、仏教・道教の方面で理論を図解して示すことがたびたび行われていて、本書はその様式を踏襲しているし、思想のうえでも道家ないし道教的な思考を継ぐ点のあることが指摘され、さらには『太極図説』を周敦頤の作ではないとする議論も後を絶たない。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%AA%E6%A5%B5%E5%9B%B3%E8%AA%AC-91006

 そこで人間も他の自然物も同じく理によつて貫かれてゐながら、人間は最も秀でた氣を稟<(う)>くることによつて萬物の總長となる。
 ところがかうした平等と差別の關係は人間一般對自然物の間にのみ存在せずして人間相互の間にも存在する。

⇒丸山のここでの朱子学紹介内容を信じるとすれば、この人間中心主義、キリスト教(ネストリウス派)臭ぷんぷんですね。(太田)

 かくて朱子學の宇宙論はそのまゝ人性論へと接續する。
 太極=理は人間に宿つて性となる。
 これが「本然の性」であつて生れながら之を具へない人間はない。
 人に聖賢暗愚の差別が生じるのは氣の作用に基く。
 氣が人間に賦與されて「氣質の性」となる。
 氣質の性には清明混濁の差がある。
 聖人はその稟けた氣質が全く透明なので本然の性が殘るくまなく顯現する。
 しかるに通常の人間は多かれ少かれ混濁した氣質の性を持つて居りそれから種々の情欲が生れる。
 この情欲が本然の性を覆ふて之を曇らすところに人間悪が發生する。
 しかし人間性の善は悪より根源的である。
 けだし理に基く本然の性–絶對善–は氣に基く氣質の性–相對的な善悪–よりも根源的だからである。
 そこで何人と雖も氣質の性の混濁を清めれば本然の性に復りうる。

⇒考えてみれば、(プロテスタント出現以前の)キリスト教における、(死後認定される場合が多いが)聖人、聖職者、平信徒、の3分類、
https://kotobank.jp/word/%E5%90%9B%E5%AD%90-58330
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E8%81%B7%E8%80%85
と、儒教における、聖人、君子、小人、の3分類、
https://kotobank.jp/word/%E5%90%9B%E5%AD%90-58330 前掲
は、そっくりですね。
 (最底辺に、奴隷的な存在は別として、それぞれ、非キリスト教徒、夷狄、が存在した、という点も・・。)
 ここからも、朱熹らが、ネストリウス派から影響を受けやすい素地があった、という気が私にはします。(太田)

 そこで次の問題はいかにして氣質を改善するかといふことになり、こゝから朱子學の實践倫理が展開される。・・・
 <すなわち、>存心<(注39)>と窮理<(注40)>と、主觀的方法と客觀的方法と、によつて内、人欲を減盡して本然の性に歸り外、世界の理法と合一すればその身は聖人となる。

 (注39)「儒家の実践命題。『孟子』尽心編にみえる「その心を存し,その性を養うは天に事 (つか) えるゆえんなり」という語に基づく。性善説に立って,善なる性を曇らされないままで維持し,放心を求めていくことが,ついには天に通じる道であるという考え方で,特に宋学などで強調された。」
https://kotobank.jp/word/%E5%AD%98%E5%BF%83-90621
 (注40)「〈窮理〉とは,もともと易の説卦伝に・・・〈理を窮(きわ)め性を尽くし以て命に至る〉とあるのに由来・・・し,朱子によって学者の修養法として強調されたもので,・・・格物致知の方法により、一事一物の道理をきわめ、そこに一貫する原理を発見すること。・・・
 しかし,<欧洲>的な認識論とは異なり,一事一物の窮理を積み重ねてゆくと,突如〈豁然貫通(かつぜんかんつう)〉(一種のさとり)が訪れるという。」
https://kotobank.jp/word/%E7%AA%AE%E7%90%86-477444
 「江戸時代に蘭学者によって西洋の自然科学,具体的にはオランダ語のNatuurkundeの訳語として用いられた言葉で,後に明治初年にいたって物理学を意味するようになった。・・・蘭学者たちはみずからの学問を権威づけるために,当時の正統儒教であった朱子学から〈窮理〉なる語を借用したのである。」(上掲)

 これが道徳的精進の窮極的目標であり、個人のかうした道徳的精進がまた一切の政治的社會的價値實現の前提條件である。」(23、25)

⇒キリスト教においては、聖職者に妻帯さえ禁じたのに対し、朱子學においては、「人欲を減盡」するとは言っても、君子にそこまで求めることはなかったわけであり、この違いは結構大きいですね。(太田)

(続く)