太田述正コラム#11181(2020.3.22)
<丸山眞男『日本政治思想史研究』を読む(その16)>(2020.6.12公開)

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[プラトン、アリストテレスの人間不平等論}

 「<古典>ギリシアで<は>も、特にソフィストのアンティポンとアルキダマスは生まれながらの平等を信じていた。
 アンティポンは、ギリシア人も未開人も天賦は同じで、同様に扱われるべきだと言った。
 ゴルギアスの弟子であったアルキダマスは「神はすべての人を自由に生んだ。自然は奴隷を設けていない」と言ったとされる。
 だが、これは、ギリシアの哲学者の中で、決して主流ではなかった。
 プラトンは、各個人の魂における理性、意志、欲望の階層構造に対応させて、“金”“銀”“銅 ”の3つの魂のレベルを区別した 。
 正しく注意深く育てられれば、これらの“金”の魂は、普通は(いつもとは限らない)その性質を確実なものにできる。
 『パイドン』において、プラトンは、魂には優劣があるという考えに基づき、魂を「一定の状況における肉体状況の調和」であるとみる随伴現象的見方を却けた 。
 プラトンは生まれながら に 平等だという考えを全面否定したわけではない。
 だが、彼は、それは太古においてのみ存在したと考えた。
 『ティマイオス』において、“ 創造 ”の時はすべての魂は平等であったが、その後、確実に変化すると述べられてい る 。
 アリストテレスは 、人間の本性は不平等であると考え、大多数の人は生まれながらに奴隷であると考えた。
 彼は、奴隷のみならず、工匠、商人、農夫、女性、外国人らも市民に加えなかった。
 “熟考する能力 ”の欠如により、上述の人々は、政治におけるいかなる役割にも適さないというのだ。
 <古代ローマにおいても、>生物学的にあるいは生まれながらに平等だという考えを強調するのはストア派だけである。
 ストア派は、理性を神と同一視し、それが万物に内在すると考えた。
 万人は、神性の輝きである理性を自らの中に有するが故に、万人は生まれながらに平等である。
 キケロは言う。
 何一つとして、わたしたちすべてが互いに似ているほど、そっくり似ているものはないのであるから。悪い習慣や間違った考えが弱い心を歪め、勝手に走り出す方向へ向かわせないかぎり、すべての人間が互いにそっくりであるのと同じほど、自分が自分自身にそっくりだという者は誰一人いないだろう。したがって、人間をどのように定義するにせよ、一つの定義がすべての人間に当てはまることになる。これは、人間の間にはまったく相違がないということの十分な証拠である。
 故に、奴隷制は自然法則に抵触することになる。
 <とはいえ、>ローマの『万民法』はストア派の影響を受けたと主張する学者もいるが、ストア派はその人類平等主義を実行することに努めたとは言えない。
 プラトンの階級制の考えと<支那>の考えとを対照するとおもしろい。
 プラトンにとっては、行為における肉体の機械的領域は目的の僕であり、運命は神性の僕であり、肉体は魂の僕であった。
 すなわち、魂が肉体と密接に結びついている人は、魂の理性的部分が肉体をコントロールしている人の僕なのである。

⇒プラトンもアリストテレスも人間不平等論に立脚していた、という、ここまでのムンローの説明は啓発的だ。(太田)

  儒家思想は、本来的に、天が地に、陽が陰に優位に立つと考えるが、その考えが人の生まれつきに適用されることはなかった。

⇒専攻にのめり込むと、その専攻の世界を判官びいきしてしまう場合があるが、その典型が支那哲学専攻の筆者ムンローだ。
 儒家思想はもちろん、人間不平等観に立脚していることはご存知の通りだ(コラム#省略)。(太田)

 この違いは、2つの地域のその後の哲学に極めて長く重要な影響を与えた。
 ユダヤ教と初期キリスト教とにおける平等主義は、本質的に価値的であった。
 ユダヤ教は、神の法の前で人は平等であると言い、キリスト教は、神の子は神に対して同等の価値を有する(その結果、すべての人類は等しく救済を期待できる)と言った。

⇒ユダヤ教はユダヤ教徒つまりはユダヤ人とそれ以外の人々の不平等観に立脚している(典拠省略)ので、(彼の専攻分野とは言えないけれど、)ここもムンローは間違っている。(太田)

 パウロはガラテア人に書いた。
 「ユダヤ人もなければ 、ギリシア人もない。拘束もなければ、自由もない。男もなければ、女もない。汝らは、イエス・キリストにおいて一つだからである」。
 この意味するところは、人は神の子と認められるためにわざわざ祝日を祝ったり、割礼を受けたり、ユダヤの法を受け入れたりしなくてもよいということであった。
 人がしなければならないのは神を信仰しその導きを受け入れることだけで、それは性別や身分に 関わらずできることであった。
 しかし、そのような平等は生まれながらの平等ではなかった。
 神の子すべてが同じ価値を有するという神の信念に基づく平等は、すべての人が同様の経験的な 特徴を持って生まれてくることを意味するわけではない。
 父は、重要な属性を共有していなくてもすべての息子を平等に愛する。
 確かに、すべての人は魂を持つという信念が基礎となり、生まれながらの平等の考えが生まれた。
 そして、プラトンやアリストテレスなどの古典とは違い、キリスト教の思想には、小さいながら もこの平等を強調する流れが確かにあった 。

⇒初期キリスト教は、ユダヤ教のいわばプロテスタンティズムであったところの、キリスト教をユダヤ人なる民族以外にも布教すべく、民族の枠を取っ払ったというだけのことであり、ユダヤ教徒たるユダヤ人が非ユダヤ人を差別したように、キリスト教もまた非キリスト教徒をを差別した、という点では変わりはなかった(典拠省略)。
 ここもまた、(彼の専攻分野とは言えないけれど、)ムンローは間違っている。(太田)

 だが、生まれつき不平等だとする考えが、西洋においては現代に至るまで最も重要であったということに異論はなかろう。

⇒ここ↑↓も、ムンローに敬意を表しておこう。(太田)

 プラトンの考えを継承すると、宇宙に本来的に自然の階級が存在し、それは人間組織にも階級秩序があり、また、先天的に不平等な人間の間にも同様の関係が存在すると信じることになる 。
 聖アウグスティヌスはこの命題を補強した 。
 すなわち、「天から地まで、目に見えるものから見えないものまで、〔すべての 〕物事には優劣が存在する。この点において、すべての物がそうであるように、それらは不平等である」。
 それ故、問題は、生まれつきの不平等をいかに説明し、同時にいかに希望を与えるかということになる。
 そして、その解決法は宿命論であった。すなわち、人の不平等は神によって決定され、原罪に対する罰であると説明された。
 将来、審判の日において、神の前で人が平等だとしても、奴隷は自らの運命を受け入れなければならない。
 いささか幸運な者は、最後の審判においてましな席が与えられることを信じて、服従、謙遜、浄化儀式を一つ一つ踏み行って時を過ごすであろう。」(Donald J. Munro(注42) “The Concept of Man in Early China”(Stanford University Press 1969年 より。湯城吉信訳)
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/58053/cks_054_001d.pdf

 (注42)1931年~。ハーヴァード大卒、コロンビア大博士。ミシガン大で長く教鞭をとる。哲学と支那を研究。
http://www.phil.arts.cuhk.edu.hk/web/tcivp/donald-j-munro/ 等
 (注43)阪大卒、同大修士(中国哲学)。大東文化大学文学部教授
https://gyouseki.jm.daito.ac.jp/dbuhp/KgApp?kyoinId=ymiegeogggy
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(続く)