太田述正コラム#11185(2020.3.24)
<丸山眞男『日本政治思想史研究』を読む(その18)>(2020.6.14公開)

 「一般に抽象的な合理的思惟は、歴史的發展の多様性を一個の理性的規準から超越的に判斷する結果、しばしば歴史的個性を見失ふが、朱子學的「合理主義」においてはその規準たる「理」が道徳性を本質とするため、その歴史觀は朱子の通鑑網目に典型的に表現されてゐる如き、きはめて特徴的な形態をとる。
 そこでは歴史はなによりも教訓でありかゞみであつて「名分を正す」ための手段でしかない。
 さうした規準から離れて歴史的現實の獨自的な價値は認められない。・・・

⇒プラトンは「人性論→存在論」的な説であったのに対し、アリストテレスは「存在論・人性論並立」的な説であった、めいたことを、先ほど申し上げたわけですが、このプラトンもまた、’Plato was not primarily interested in historical inquiry for its own sake. His references to history or prehistory, when they occur, are introduced for the purpose of illustrating some particular point of doctrine, generally ethical or political.’
https://www.cambridge.org/core/journals/classical-quarterly/article/plato-and-history/BB4E4E4390411A598813F90BFEF9D5A4
であったのであり、プラトンにとっても、「歴史はなによりも教訓でありかゞみであつて「名分を正す」ための手段でしかな<かった>」と言えそうです。
 ちなみに、’the ideal State <Plato> described in the Republic and referred to elsewhere had actually existed in the remote past, and his purpose in putting in the elaborate account of decline of the state was “to describe both the original course of development by which the main forms of constitutional decay were first generated, and the typical course of social change”
https://www.jstor.org/stable/2504332?seq=1
であったところもまた、朱子学、ひいては儒教一般、が、聖人が統治した時代があったとしてその時代を理想視したこととそっくりですよね。
 繰り返しますが、丸山は、ソクラテス/プラトン、を、ディスりまくっているに等しいところ、その覚悟、いや、覚悟どころか自覚すら、が、あったとは到底私には思えないのですが・・。(太田)

 <要するに、>自然歴史文化の一切が道徳的至上命令の下に立つてゐることが朱子學の「合理主義」乃至「主知主義」の基本的性格<なの>である・・・。
 かうした道徳性の優位にも拘らず、道理は同時に物理でもあることによつて、換言せば倫理が自然と連<←之繞を二点之繞に(太田)>續してゐることによつて、朱子學の人性論は當為的=理想主義的構成をとらずむしろそこでは自然主義的なオプティミズムが支配的となる。
 未然の性は聖人にも凡人にも等しく具り、ただ混濁した貴稟が之を蔽ふから悪が生ずる、蔽ふてゐるものを除きさへすれば元來存在してゐる善性が顯現する。–といふ思惟方法は徳行の目標を超越的な理念とせずに之を人間性に全く内在せしめる限りまぎれもなく一種のオプティミズムである。
 「人皆聖人たるべし」といふ言葉もその現れであり、「篤信力行すれば天下の理至難なるありと雖も猶必ず至るべし」(玉山講義<(注45)>)といふ確信もそこから生れる。

 (注45)「会津三部書は保科正之が編纂させた朱子学の教理書で,『玉山講義附録』『二程治教録』『伊洛三子伝心録』の3部作を指す。編集の任に<は>山崎闇斎が当たった・・・。特に『玉山講義附録』は朱熹の文集に見える「玉山講義」を軸に,それに関係する朱熹の発言を諸書から持ち寄ったもので,朱子学の理気論・・・を手際よくまとめたものとして,つい最近までよく読まれていた。
 ・・・朱子学の理気論を知りたい・・・というならば,とりあえず「玉山講義」でも読まれるとよろしい(ということになっている)。とはいえ,<支那>古文が読めないと「玉山講義」は読めないし,普通の日本人にはテキストを手に入れることじたいが難しいの<だ>・・・<が、>日本語訳<が>大昔に出版された「世界の名著」シリーズのひとつ『朱子・王陽明』の朱子の部分にあり,書き下し文は『朱子学大系』の『朱子文集』にある。・・・。
 ちなみに『玉山講義附録』に現代語訳はないが,もともと日本人の編纂物だから,返り点がついている。」
http://awata.blog102.fc2.com/blog-entry-416.html

 しかしながらこの楽觀主義は同時に峻嚴なるリゴリズムをはらんでゐる事を看過<(同上)>してはならない。
 けだしこゝではまさに實現さるべき規範が自然(本然)とされて居り、逆に普通<(同上)>の人間の感性的経験なり、情動なりは必然的に善悪相混じた氣質の制約を受けてゐるから「天理」は具體的實践的にはあらゆる自然的基礎を失つて絶對的當為として「人欲」に對立するに至るからである。
 この様に自然主義的な楽觀主義と克己的な嚴格主義とが一は抽象的な論理構成として一は具體的歸結として朱子學人性論に共存してゐるところから、やがてそれは朱子學的思惟方法の分解過<(同上)>程において二つの方向へと分裂して行く。
 一は儒敎の規範主義を自然主義的制約から純化する方向であり、他は逆に「人欲」の自然性を容認する方向である。」(26~28)

(続く)