太田述正コラム#11199(2020.3.31)
<丸山眞男『日本政治思想史研究』を読む(その22)>(2020.6.21公開)

 「・・・筆者の宋學知識は原典からよりも主として、徳川時代の儒学者の理解を基とし、これに現今の先學諸氏の業績を参照して得られたものである。
 また、宋學の思想的系譜、たとへばその理論構成のなかに道家の思想や唐代に發展した佛敎哲學がどのやうに摂取されてゐるかといふやうな問題も筆者の能力を超えるだけでなく、徳川社會の精神構造の構成契機としての朱子學を明らかにするといふ當面の課題から外れるので一切立入らなかつた。・・・
 現代の儒敎學者のうちとくに負ふ所の多かつたのは、武内義雄<(注57)>敎授、西晉一郎<(西晋一郎)(コラム#11025、11037)>敎授、諸橋轍次<(注58)>博士の諸著である。

 (注57)1886~1966年。「三重県内部村小古曽(現四日市市)に真宗高田派の学僧・武内義淵の子として生まれる。」京大文卒、懐徳堂講師、京大博士号取得、東北大教授、「『支那思想史』(戦後『中国思想史』と改題)は、・・・儒教中心に片寄っていた従来の著作に対して仏教・道教にも光をあてた(特に宋学に対する仏・道二教の影響を明らかにした)点<等>で、画期的であると評価されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E7%BE%A9%E9%9B%84
 「1724年・・・、大坂の豪商たち・・・が出資し、三宅石庵を学主に迎えて船場の尼崎町一丁目(現在の大阪市中央区今橋三丁目)に懐徳堂を設立した。・・・1726年・・・、将軍徳川吉宗から公認されて官許学問所となり、学校敷地を拝領した。官許は得たものの、その後の運営の財政面は町人によって賄われ、懐徳堂が「町人の学校」と呼ばれ・・・席次は武家を上座と定めるが、講義開始後は身分によって分けない<こととされた。>・・・富永仲基・山片蟠桃のごとき特徴的な町人学者を輩出したことでも知られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%90%E5%BE%B3%E5%A0%82
 (注58)1883~1982年。直江兼続の子孫。東京高等師範卒、文学博士号取得、大漢和辞典を編集。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E6%A9%8B%E8%BD%8D%E6%AC%A1

 陽明學は宋の陸象山<(コラム#9687、9765、11161)>の學説が明の王陽明に至つて大成されたので、陸王學ともいはれるが、陸象山<(注59)>は程明道の思想を繼いでいゐるので、朱子學と淵源を同じくする。

 (注59)りくしょうざん(1139~93年)。「その一族はおよそ二百年間にわたり何世代もが同居することで有名であり、時の王朝より義門(儒教的に優れた一族)として顕彰された。象山の兄の陸九韶・陸九齢二人も著名な学者で兄弟を三陸と称することもある。進士に及第後地方官・中央官として経験を積んだ。49歳の時、信州の応天山に私塾をひらき、そこで講学を行ったが、その数年後肺結核のため世を去った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%B1%A1%E5%B1%B1
 「象山は朱子と・・・しばしば手紙を通じ論争した。互いに相手の学説を非難したが、基本的には尊敬の念をどちらも抱いていたらしい。そのためか1175年に呂祖謙の仲介によって直接会って論ずることもあり、これが<支那>思想史上、有名な「鵝湖の会」である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%B1%A1%E5%B1%B1
 鵝湖の会(がこのかい)。「江西から浙江・福建にかけての官僚・学者・両学派の弟子など百数名が集まったという。時に朱熹46歳、陸九齢<(陸象山の兄)>44歳、陸象山は37歳であった。
 対論は3日にも及ぶ激しい論争となった。陸兄弟は「まず人の心を明らかにし、その後に書物を読んで万物に通じる」ことを主張したが、朱熹は「広く書物を読んでそれらを集約する」ことが重要であると主張。陸象山は「(儒教で理想の世とする)堯舜の時代以前には書物が無かったのにどうやって学問したのか」と問うと、朱熹は「格物致知」すなわち事物に学び理を窮めていくことが聖人に至る道であると強調、両者は全くの平行線をたどった。朱熹は陸兄弟を「太簡空疎(簡略過ぎて中身がない)」と評し、陸兄弟は朱熹を「支離滅裂(言っていることがバラバラ)」と評価。結局3日間の論争でも両者の思想は一致することなく、むしろ互いの考えが根底から相違することを確認する場となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B5%9D%E6%B9%96%E3%81%AE%E4%BC%9A

 從つて屡々朱子學と對照されるほどには對立的な思想體系ではない。」(30~33)

⇒朱熹と陸象山の思想が「対立的」であったことは鵝湖の会での論争からも明らかであり、況や、朱熹と王陽明の思想は、それより更に「対立的」であったと思わざるを得ないのですが・・。
 いずれにせよ、陸王学と朱子学との決定的な違いは、「象山・・・の学統は程明道―謝上蔡(注60)と受け継がれてきた「万物一体の仁」に連なるものであ<り、>それはやがて明代に至り王陽明へと受け継がれ<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%B1%A1%E5%B1%B1 前掲
ところ、朱熹が、「万物一体の仁」・・私見では人間主義と同値・・を承継しなかった点にある、と私は考えています。(太田)

 (注)しゃりょうさ(1050~1103年)。「程顥<(程明道)>、後に程頤に学問を授けられ、・・・1085年・・・に進士とな<るが、>・・・徽宗・・・の意に逆らって・・・左遷され・・・讒言により獄に下され、官職を解かれた。・・・
 その学説は、程顥の影響をもっとも強く継承しており、「心」をもって仁の本体とし、窮理により「心」を開発しようとする。根本的で最大の理法を求めるために「心」を重んじるところから、「知行合一」という徳目に到達した。このことが陸象山の学に継承された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AC%9D%E8%89%AF%E4%BD%90

(続く)