太田述正コラム#11211(2020.4.6)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第一章等』を読む(その6)>(2020.6.27公開)

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[武士の元祖たるアイヌ(蝦夷)?]

 写真が面白い。
 可能性としては、武士をアイヌが真似したということもありうるが、(アイヌを含む)蝦夷を真似て武士が誕生したというのが正しいとすれば、このアイヌは、伝統的ないで立ちでやってきた、ということなのだろう。
 武士は、平素、弓矢の持ち歩きはしなかったのに、このアイヌは持ち歩いていることも、そのことを示唆しているように思う。↓

 「18世紀半ば・・・松前に・・・殿さまへの謁見・・・に訪れたソウヤ(現在の稚内市)のおさチョウケン・・・右手には短弓を、・・・背には飾り太刀」
https://www.nikkei.com/article/DGXKZO57633180T00C20A4BC8000/

 このアイヌが馬に乗っていないことだけは気になるが・・。
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 「古代・中世の武士を「弓馬の士」、武芸を「弓馬の芸」といった。
 武士は騎乗の士でなければならない。
 そもそも日本では、乗馬は誰にでも許されていたわけではなかった。
 律令制では、官位を持つ役人の権利であり義務である。

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[馬寮]

 「馬寮(めりょう/うまのつかさ)は、律令制における官司の一つ。唐名では典厩(てんきゅう)。左馬寮(さめりょう/さまりょう)と右馬寮(うめりょう/うまりょう)に分かれていた。
 諸国の牧から貢上された朝廷保有の馬の飼育・調教にあたった。
 諸国から集められた馬は馬寮直轄の厩舎や牧(寮牧・近都牧)で飼養したり、畿内及び周辺諸国に命じて飼養させた。また、後には勅旨牧の経営も監督した。そして軍事や儀式において必要なときに牽進させて必要部署に供給した。
 馬寮の官人は武官とされて帯剣を許された。後には検非違使を補助して都の治安維持の業務にあたる事もあった。後に頭以下の官職に武士が任官されるのもこうした警察的な要素があったからとも考えられる。
 伴部として実際に馬の飼育にあたる馬部(めぶ)がおり、飼育を担当する飼戸(しこ)を傘下においてこれを統率した。・・・
 平安時代後期以後は実質上の最高職である左右馬頭に河内源氏、伊勢平氏の著名な武者が相次いで任じられた事から馬寮の職は武士の憧れの官職の一つとされた。地下の武士でも、大允・少允であれば成功で獲得することが可能であったために志望者が殺到し・・・1148年・・・に大允・少允の定員は計20名に増やされたが、平安時代末期にはその数倍の者が任じられていたという(『官職秘抄』)。
 室町幕府・江戸幕府では征夷大将軍がその上に立つ馬寮御監を員外官として兼務した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E5%AF%AE
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⇒これについて、裏付けをとることができませんでした
 すぐ上の囲み記事からも、馬が、軍事用の希少財であった・・日本で馬車が普及しなかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E8%BB%8A
ことを想起せよ・・ことが窺えることから、私には、「官位を持つ役人」全員が「義務」としての「乗馬」を実行すべく、馬を私有できた、とは到底思えません。(太田)

 日本がみならった中国隋・唐の王朝でも、支配者たる貴族・官僚は全員が騎乗した。<(注7)>

 (注7)鐙は4世紀に<支那>で発明され<たが、>・・・唐は半農半牧の鮮卑の影響を受けており、騎兵隊の割合も西晋以前の王朝と比べ多<く、>・・・遊牧民の大国である突厥を滅ぼし、ユーラシアにおける超大国となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A8%8E%E5%85%B5
 「ポロ<は、>・・・紀元前6世紀のペルシャ(現在のイラン)を起源とし、騎馬隊の軍事訓練としてインド、<支那>、日本へ伝播した。特に<支那>では唐の時代以降、<歴代>皇室で楽しまれ、・・・日本にも神事としての打毬の伝統が一部で残っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AD

⇒少なくとも唐の貴族・官僚に関しては、その通りであったのかもしれませんね。(太田)

 貴族といえば中流以上に許された牛車(ぎっしゃ)などを思い浮かべるだろうが、貴族の乗車の習慣は、中国の影響のもとに9世紀以降本格化したもので、牛車に乗るからといって、上流貴族から乗馬習慣が失われることはなかった。
 行幸時に騎馬で従うのは、彼らの義務だったからである。
 ・・・藤原道長も乗馬の名手<だった。>・・・」(23~24)

⇒「競馬<は、>・・・臣下がみだりに行うことが出来ず、実際には摂関かそれに類する公卿のみの特権であった<というのに、>藤原道長は私的な競馬を度々開催し<て>・・・非難<されたこともあるほか、>・・・春日大社では藤氏長者が在任中に一度は春日参詣の折に競馬を開くのを慣例にして<いたところ>、この風習も藤原道長によって創始され<たものだ>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%BC%8F%E7%AB%B6%E9%A6%AC_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
といった具合に、道長は馬フェチであったことから、私は、彼が、上流貴族としては珍しく、自ら乗馬を好んで行っただけのように思えてなりません。(太田)

(続く)