太田述正コラム#11243(2020.4.22)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第一章等』を読む(その22)>(2020.7.13公開)

 「「ツワモノの家」の「家を継ぎたるツワモノ」が登場してくると、それ以外の人間の武勇は、時に反社会的な行為として非難の対象になってゆく。
 1028<年>左衛門尉藤原範基<(注38)>(のりもと)が、自分の郎党を殺害した時、右大臣藤原実資<(注39)が「範基武芸を好む、万人の許さざるところ、内外ともに武者の種胤(しゅいん)に非ず」、内(父方)・外(母方)ともに武者の家柄ではないのに、と非難したのは(『小右記』<(注40)>同年7月24日条)、そうした社会規範の成立を物語っている。」(61)

 (注38)藤原冬嗣(左衛士大尉、左衛士督、左近衛大将)–長良(左衛門佐、右馬頭、左兵衛督、左衛門督)–清経(右近衛権少将、左近衛権少将、右兵衛督、右衛門督)–元名(海賊の頭目!)–文範(右衛門権佐)–為雅–中清–範基
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%86%AC%E5%97%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%95%B7%E8%89%AF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B8%85%E7%B5%8C
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%83%E5%90%8D
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%96%87%E7%AF%84
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%82%BA%E9%9B%85
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%B8%AD%E6%B8%85
 (注39)957~1046年。右兵衛佐、右少将、左中将、右大将。「有職故実に精通した当代一流の学識人で・・・蹴鞠の達人・・・<だが、>藤原北家嫡流でありながら、分派であるはずの九条流に摂関家の主導権を奪われた<状態の挽回はならなかった。>・・・ 
 「・・・1019年・・・、刀伊の入寇を撃退した大宰権帥・藤原隆家が部下らに対する恩賞を懇請し、これに対して諸国申請雑事定が公卿らによって行われた。大納言公任と中納言行成は、「彼らは追討の勅符が到達する以前に戦った。故に私闘であるから賞するには及ばない」と主張した。これは貴族たちが隆家は道長の政敵であった伊周の弟でもあることから道長に追従したためでもあるが、同時に文官統治を維持する立場から当時各地の豪族や在庁官人が武装化して勢力を拡大しつつある現状に危機感を抱いていたことも背景にはあった。そのため、勅符なしでの軍事行動を許容することで彼らが朝廷の命令を無視して独自の判断で軍事行動を起こすことが危惧されたことから、公任・行成らの主張にも一理があった(普段、公任らに対して批判的な記事の多い『小右記』でも、この主張そのものに関する批判的な記述はしていない)。
 これに対し実資は勅符が到達する以前に戦った点には問題があることを認めつつも、「勅符が到達したかどうかは問題ではない。たとえ勅がなかったとしても、勲功ある者を賞する例は何事にもある。・・・894年・・・に新羅の凶賊が対馬国を襲撃したとき、島司文室善友は直ちにこれを撃退し、賞を賜った。これと同じことである。特に今回の事件は、外敵が警固所に肉薄し、各島人が一千人余りも誘拐され、数百人が殺された。壱岐守・藤原理忠も戦死した。しかし、大宰府は直ちに軍を動かしてこれを撃攘せしめた。何故に賞さないことがあろうか。もし賞さないならば、今後進んで事に当たる勇士はいなくなってしまうであろう」と弁じ立てる。
 まず、大納言藤原斉信がこれに同意し、続いて公任・行成も翻意、ついに公卿ら皆意見を同じくして褒賞は決議された。また、当時政治の一線から退いていた道長もこれを是としている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9F%E8%B3%87
 (注40)「平安貴族にとって、その日の出来事を記録して後代の参考に供することはとても重要で、最高身分の者までが具注暦[ぐちゆうれき]などに日記を付けるという古記録文化が定着した。記主[きしゅ](日記を付ける人)自身も、前代の日記を参照して政治・儀式を行なっていたから、当然、自らの日記も後代の人に読まれることを意識し、正確に記述するように心がけられていた。重要な日記は何世紀にもわたって書写され続けたので、たとえ自筆本がなくなっても、今日に伝えられているのである。その書写作業の中で日記に名称(書名)が与えられた。記主の姓名・称号・官職などから二字を組み合わせるのが普通だが、死後に作られるので諡号(おくりな)や極官(その人が着いた最高の官職)が用いられ、さらに工夫が加えられる場合もある。
 藤原実資は自らの日記を「暦」「暦記」などと書いているが、同時代には『右府御記』などと呼ばれていた。現在一般化している『小右記』は『小野宮右大臣記』のことで、実資が祖父であり養父でもある藤原実頼(900~970)から受け継いだ邸宅「小野宮殿」と、実資の極官である「右大臣」から一字ずつを取って付けられた。「右」は漢音により「ユウ」と訓む。」
http://shoyuki.jp/fw.php?page=d_shoyuki

⇒まず指摘したいのは、高橋が「武者の家柄ではない」ことの定義を示していないことです。
 定義が与えられていないために、(「注38」の藤原範基の系図を見て欲しいのですが、)範基のひいおじいさんの文範からの上の4代はすぐ上の元名を除き、私が括弧書き内に示した武官職に「も」それぞれついており、もとより、彼らは上流貴族まで登っている(「注38」中の該当典拠(URL)参照)ので、統治者として武官職に就くのは当然、という見方もできるけれど、元名は、武官職にこそ就いていないけれど、まさに、高橋らの言う暴力団的キャリアを有しており、彼の子孫が、武士への道を歩んでも不思議はなかったところ、その孫・・範基のおじいさん・・からは、上流貴族になれず受領階級で終わるようになったにもかかわらず、武士への道を歩まなかったわけですが、二代、武官職とも武士とも無縁であれば、「武者の家柄ではない」ことになるのか、といった疑問が湧いてしまうわけです。
 恐らく、高橋は、『小右記』の記述を鵜呑みにしているのでしょうが、既に、我々は、日本の正史には必ずしも真実だけが書かれてはいないことを知っています。
 『小右記』もまた、「注40」から、それが公文書的な性格のものであったことが分かりますが、だからこそ、同じことが言えるのです。
 私の読みはこうです。
 まず、桓武天皇構想は、歴代天皇に口伝され、その内容は、右大臣以上の最上流貴族にしか明かされなかったからこそ、「注39」で紹介したような、刀伊の入寇の際のような、「並」上流貴族達から、外敵に対する武士達の自主的開戦を問題視する声が一斉に上がったのであろう、と。
 それに対し、実資や道長クラスは、桓武天皇構想を知らされていたので、全く問題視しなかった、と。
 そして、その折、「並」上流貴族達を抑え込んだ時の屁理屈を補強するために、「武者の種胤」なる、事実にはそぐわないが一見もっともらしい理屈を、その後の後知恵でひねり出し、この理屈を数年後の範基の事件の際に書き残すことにした、と。
 そして、更に想像を逞して、刀伊の入寇の際の在九州の武士達の活躍ぶりを見て、当時の天皇や最上流貴族達は、桓武天皇構想の実現が見通せたという判断の下、一、中央の「並」上流貴族達以下の貴族達に軍事安全保障への関心の低下を促すとともに、二、彼らの間からの新たな武家の創出を事実上禁止し、その旨を婉曲的表現で『小右記』に記すことにしたのでは、とも。(太田)

(続く)