太田述正コラム#11245(2020.4.23)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第一章等』を読む(その23)>(2020.7.14公開)

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[『今昔物語集』と「ツワモノの家」]

 高橋は、『今昔物語集』中に「ツワモノの家の出身者ではない」、すなわち、「文官貴族の家系にも武を誇る人々が」いたことが記されているとし、その具体例として、「和泉式部の夫だった藤原保昌(注41)、醍醐源氏の源章家(注42)(あきいえ)、光孝源氏の源公忠(注43)(きんただ)、その「父好古<が>藤原純友の反乱の鎮圧に大きな役割を果たし」た小野武古(注44)(たけふる)、そして、「10年以上清少納言の夫であった」橘則光(注45)(のりみつ)を挙げている。(59~61)

 (注41)958~1036年。武官職の左馬権頭にも就いている。「歌人で<も>あり、『後拾遺和歌集』に和歌作品1首が採録されている。・・・
 和泉式部に紫宸殿の梅を手折って欲しいと請われ、警護の北面武士に弓を射掛けられるもなんとか一枝を得て愛を射止めたという逸話があ<る。>」」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BF%9D%E6%98%8C
 高橋は、保昌の「弟が保輔(やすすけ)で、『尊卑分脈』(14世紀に編さんが完了。諸系図のうちでもっとも信頼すべきもの)という系図集に、「強盗の張本、本朝第一の武略、追討の宣旨をこうむること一五度、のちに禁獄、自害す」とある。そして彼らの姉妹は軍事貴族の源満仲と結婚し、頼親と頼信を生んでいる」と記している。(60)
 また、二人の長兄の斉明だが、「985<年>正月六日夜、大内裏上東門の東、洞院西大路土御門付近にて弾正小弼大江匡衡が何者かに襲われ左手の指を切り落とされる事件が起きた。
 続いて同月二十日に土御門左大臣源雅信邸にて大饗が催された帰りに中門の内にて下総守藤原季孝が何者かに顔を傷つけられる事件が起こった。
 ・・・<その>犯人が藤原斉明の従者二名らしいと判明。・・・逃げ遅れた郎党の藤原末光を逮捕尋問したところ「斉明が大江匡衡を傷つけ、藤原季孝を襲ったのは弟の保輔である。」と自白した。 ・・・<しかし、>保輔が出頭したり逮捕された様子も無く消息は絶える。
 一方、摂津より船で逃走した斉明は、山陽・南海・西海諸道に追討の官符が出されてる事を知って東国に逃げようとしたが、・・・射殺された。」
https://blog.goo.ne.jp/gofukakusa/e/e46d1681ed6049af21d1fc142b76fb09
という人物だ。
 (注42)主殿寮(とのもりょう=とのもりのつかさ)の頭が極官? 今昔物語の中で、彼は、狩猟大好き人間であったことを捉えて殺生狂だとして批判されている。
http://www.randdmanagement.com/c_jk/jk_395.html
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%BB%E6%AE%BF%E5%AF%AE-105568
 (注43)889~948年。「光孝天第十四皇子である大蔵卿・源国紀の次男<で、>・・・『後撰和歌集』(2首)以下の勅撰和歌集に21首が入集。家集に『公忠集』がある。また、香道や鷹狩に<も>優れていた。・・・公務の間、予め馬をどこかに繋いでおき、公務が終わるとすぐにそのまま鷹狩に毎日のように出かけていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%85%AC%E5%BF%A0
 (注44)不明。小野好古の子に「武古」という名前の者はいない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%A5%BD%E5%8F%A4
ので、その旨の記述は高橋のミスかも。
 (注45)965~?年。武官職の左衛門尉にも就いている。「『金葉和歌集』に1首が入首(第360歌)。『後拾遺和歌集』1156の詞書の中にもその名が見られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E5%89%87%E5%85%89

 だが、このようなことは、私の主張と矛盾はしない。
 というのも、『今昔物語集』「の成立年代と作者は現在も不明である<ところ、>・・・1120年代以降の成立であることが推測されている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%98%94%E7%89%A9%E8%AA%9E%E9%9B%86
ことから、その著者(達?)が、後付けでそのように書いているだけだ、と推測されるからだ。
 しかも、「各部では先ず因果応報譚などの仏教説話が紹介され、そのあとに諸々の物話が続く体裁をとっている」(上掲)こと等から、『今昔物語集』の著者(達?)は「構成、素材、文体などを総合的に判断して、仏教界に属する者の編であろう」
https://kotobank.jp/word/%E4%BB%8A%E6%98%94%E7%89%A9%E8%AA%9E%E9%9B%86-67264
とされていることから、彼(ら?)が殺生に係る「武」それ自体に対しては否定的なスタンスを採ったのは当然だろう。
 なお、高橋の書き方だと誤解させかねないが、『今昔物語集』では、小野武古、橘則光、藤原保昌、源公忠、の4人については、「「兵ノ家」の出身ではないが、武芸に関わって「思量」があると語られ<てい>る人々」として紹介されているところだ。
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=6&ved=2ahUKEwiugZe81_voAhVXQd4KHUODDGMQFjAFegQIBRAB&url=https%3A%2F%2Faichi-pu.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D2937%26item_no%3D1%26attribute_id%3D22%26file_no%3D2&usg=AOvVaw14622qyLE-_WzOuXsy31ge (大川のどか(注46)「『今昔物語集』における駐留貴族の武勇譚」より)

 (注46)愛知県立大学文学部国文科?
http://fd10.blog.fc2.com/blog-entry-467.html

 小野武古については不明だが、藤原保昌と橘則光には武官歴があり、源章家と源公忠は狩猟大好き人間であって、いずれも、「武芸に関わって」いたところ、彼らの時代には、まだ、「武者の家柄」などといった観念は存在しなかったはずだということを再度指摘しておこう。
 ついでに言えば、「注41」に登場する藤原保輔(?~988年)は、右兵衛尉と右馬助という武官職にも就いており、「逮捕の際、保輔は自らの腹部を刀で傷つけ腸を引きずり出して自害を図り、翌日その傷がもとで獄中で没したという。なお、これは記録に残る日本最古の切腹の事例で、以降武士の自殺の手段として切腹が用いられるようになったという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BF%9D%E8%BC%94
 これは、むしろ、発祥期の武士達の間で、藤原保輔の家が「ツワモノの家」(武士の家=武家)である、と見なされていたことを推測させるものだ。
 そもそも、保昌、保輔の父親の藤原致忠(むねただ。?~?年)だって、右近衛少将、右馬権頭、という武官職にも就いており、「999年・・・橘惟頼及びその郎等を殺害した罪で惟頼の父の橘輔政に訴えられ佐渡国に流され」た
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%87%B4%E5%BF%A0
ような人物だ。
 だから、藤原保輔の家であるところの、致忠流、が、武家と見なされる方がむしろ自然だろう。
 保昌の子の快範は僧になったようだ
https://geocity1.com/okugesan_com/nanke2.htm
し、保昌・保輔兄弟の間の兄弟である維光も武官職にすら就かなったよう(上掲)ではあるけれど、致忠流は、この兄弟の姉妹たる女子を通じて清和源氏たる武家の嫡流の祖となったところ、藤原致忠流は遡れば天智朝の天智天皇・藤原不比等「父子」であって、この、天智・不比等/到忠流は、復活天智朝の清和流と並ぶ、清和源氏なる武家の共同の祖、と言ってしかるべきだろう。
 皆さんも、どうやらこの辺りに、(天皇家と二重に繋がる)清和源氏が(天皇家と一重しか繋がらない)桓武平氏を抑えて武家の棟梁の本流となった背景があるような気がしてきたのでは?
 とまれ、高橋には申し訳ないけれど、保昌を含む藤原致忠流は、まさに、「ツワモノの家」そのものだったのではあるまいか。
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(続く)