太田述正コラム#11257(2020.4.29)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その5)>(2020.7.20公開)

 「中伝統は明治以後、第二次世界大戦敗戦までの思想構造である。
 この時期には、大伝統の両極構造、さらには両極がそれぞれまた内部の重層構造を持つと言う複雑な構造が一気に崩壊し、天皇を頂点とする一元的な構造へと転換する。・・・

⇒間違いから行くと、「両極構造」は維持され、天皇は引き続き権威だけ担い、権力は内閣等が担うことになったのが明治以後の戦前期です。
 (但し、憲法上は、天皇は日本軍の最高司令官であり、その限りにおいては権力も持っていたけれど、実態としてはそれも、参謀総長と軍令部長に委ねられていました。)
 次に認識不足ですが、重層構造は、幕末から明治初期にかけては、プロト日本型政治経済体制から日本型政治経済体制への移行期であって、多数の官営工業が設立される等、不鮮明になった部分があるけれど、官営工業の払い下げ(注9)や国会の開設(注10)、以降は、次第に重層構造への回帰が果たされ、昭和戦前期から戦中にかけて、日本型政治経済体制が確立することになるのです。

 (注9)「明治維新政府が殖産興業と機械制大工業の移植を意図して旧幕府から接収または新設した官営鉱工業(官営工業)を,特定部門を除いて民間に払い下げた政策。それを明治政府の方針として正式決定して布達されたのが〈工場払下概則〉(1880年11月施行)で,全4条からなる。払下げの条件は,(1)数人合資の会社または個人で必要な資力をもつ者,(2)各工場の営業資本金(企業経営のために国庫より支出した運転資本と赤字補塡のため支出した資本総額,いずれも国庫よりの借入金として会計処理されている)は払下げの際に全額支払うこと,興業費(各工場の建設費・拡張費と営業開始前の諸費用の合計)は年賦払い,(3)興業費の完納までは当該工場の建物・機械を政府へ抵当とすること。・・・
 <しかし、その実態は、>軍事工場・公益事業を除いた多くの工場・鉱山を三井・三菱などの政商に対して無償に近い額で払い下げた<ものであり、>これはのちの財閥形成の基礎となった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%98%E6%A5%AD%E6%89%95%E4%B8%8B%E3%81%92-827114
 (注10)「1881年(明治14年)10月12日に、明治天皇が・・・国会開設の勅諭<を発出し、>・・・1890年(明治23年)を期して、議員を召して国会(議会)を開設すること、欽定憲法を定めることなどを表明した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BC%9A%E9%96%8B%E8%A8%AD%E3%81%AE%E8%A9%94

 最後に指摘しておきたいのは、末木に、(私の言う)復活天智朝が確立した「国教」としての神仏習合教が明治維新を契機に廃止された、的なことを、具体的に記述して欲しかったということです。
 明治維新後、導入された国家神道<(注10)>は、タテマエ上宗教ではないとされただけでなく、実態上も、教義がない(注11)ので、国際通念上、宗教とは言い難かったわけであり、その導入は、国教の置き換えではなく、国教(神仏習合教)の解体の第一段階と捉えるべきでしょう。

 (注10)「大日本帝国憲法では文面上は信教の自由が明記されていた。しかし、政府は「神道は宗教ではない」(神社非宗教論)という公権法解釈に立脚し、神道・神社を他宗派の上位に置く事は憲法の信教の自由とは矛盾しないとの公式見解を示し、また自由権も一元的外在制約論で「法律及び臣民の義務に背かぬ限り」という留保がされていた。宗教的な信仰と、神社と神社で行われる祭祀への敬礼は区分されたが、他宗教への礼拝を一切否定した完全一神教の視点を持つキリスト教徒や、厳格な政教分離を主張した浄土真宗との間に軋轢を生んだ面もある。
 大日本帝国憲法第28条の条文では「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」となっていたが、この「臣民タルノ義務」の範囲は立法段階で議論の対象となっており、起草者である伊藤博文・井上毅は神社への崇敬は臣民の義務に含まれないという見解を持っていた。昭和に入ってから美濃部達吉や神社局には神社崇敬を憲法上の臣民の義務ととらえる姿勢があったが、内務省の公式見解として示されることはなかった。
 1899年の文部省訓令第12号「 一般ノ教育ヲシテ宗教外ニ特立セシムルノ件」によって官立・私立の全ての学校での宗教教育が禁止され、「宗教ではない」とされた国家神道は宗教を超越した教育の基礎とされた。・・・
 時代により、政府による国民への「神社崇拝」の奨励の度合いは異なった。官国幣社は内務省神社局が所管し、新たな官国幣社の造営には公金が投入された。万世一系・神聖不可侵の天皇が日本を統治すること、国家の中心に存在する天皇と国民との間に伝統的な強い絆があることを前提に、全国の神社は神祇官の元に組織化され、諸制度が整備された。当初、全国の神社は全て官有となり、全神職は官吏(神官)となった。だが、制度に未成熟な部分があり、神官と呼ばれる官吏としての神職は伊勢神宮に奉仕する者のみとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E7%A5%9E%E9%81%93
 (注11)「「教育勅語」は、国民に天皇制国家への忠誠を命じるとともに祖先崇拝を強調し、国家神道の事実上の教典となった。また各学校へ配布された天皇・皇后の「御真影(ごしんえい)」は、国家神道の事実上の聖像として礼拝の対象となった。」(村上重良)
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E7%A5%9E%E9%81%93-65214#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29
 村上重良(1928~91年)は、東大文(宗教学)卒、慶大講師。「日本共産党に属し、日本共産党に敵対的な創価学会および公明党を批判する著作や論文をいくつも発表していた。しかし宮本顕治が中心となって、「日本共産党と創価学会との合意についての協定」(創共協定)を1974年12月に締結したことに始まり、日本共産党指導部が宗教に対する融和的態度を示したことに反発し、世界1977年10月号(岩波書店発行)で、「共産主義政党と宗教 『創共協定』を再考する」という論文を発表し、宮本指導部を公然と批判したため党から除名された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E9%87%8D%E8%89%AF

 (なお、村上重良は、教育勅語が「国家神道の事実上の経典となった」としていますが、教育勅語は、人間主義の普遍性を宣言すると共にこの人間主義に基づく教育を謳ったものであった(コラム#10728、10738)のであり、(丸山眞男ら東大法出身の「学者」達の大宗以上に)学者としての訓練を受けていない人物による妄想、思い付き、でしかありません。)
 そして、戦後、国家神道が廃止されたことで、神仏習合教は完全にとどめを刺されたわけです。
 以上からして、復活天智朝以来の日本の歴史において、明治維新以降の戦前期に、日本の政治経済体制に関して決定的に変化したのは、この点だけだ、と、言えるのではないでしょうか。(太田)

 第二次世界大戦敗戦によってこの中伝統が崩壊して、新たに小伝統が形成される。
 これは、平和・人権・民主などの原理を人類普遍的な理想として掲げ、王権=天皇は象徴として議論の外に置かれ、また神仏の要素はまったく考慮されなくなる。
 しかし、実情に合わない急ごしらえの理想主義はあくまでもタテマエであり、ホンネは冷戦構造の中でアメリカ依存の半独立状態が続く。
 その中で、タテマエに基づく戦後進歩主義が進展する。
 そのような小伝統が解体する中で、今日の脱近代の思想崩壊状態に至っている。」(11~12)

⇒復活天智朝以来の日本の歴史において、今度は戦後に、日本の政治経済体制に関して決定的に変化したのは、私の言う弥生性、の放棄である、と、私なら、より単純明快な形で結論付けたところでしょうね。(太田)

(続く)