太田述正コラム#11263(2020.5.2)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その8)>(2020.7.23公開)

 「・・・中国文化の圧倒的な影響を受けながらも、その柵封体制に入らない自立性を維持しようとするには、どうすればよいのか。
 それには、自らが中国と同じような文明国としての体制を整え、同等であることを示す必要がある。
 皮肉なことに、自立の要求が模倣を促進する。
 それはあたかも明治の日本がたどった道と似ている。
 巨大で先進的な文明の受容に基づく制度の整備は、同時に豪族の集合体である大和朝廷の中央集権的な権力を強める。・・・

⇒このくだりについて、末木を批判するのはいささか酷かもしれませんが、末木が言及しているのは天武朝の構想であって、私の言うところの、復活天智朝の聖徳太子コンセンサス/天武天皇構想はそうではないのであって、我々は、後者こそが日本で中長期的に採用され定着したコンセンサス/構想であったことを既に知っています。
 ちなみに、天武朝は、律令体制を一応採ったわけですが、その際に「唐と同様の体系的法典<まで>編纂・施行したことが実証されるのは<唐以外の諸国中>日本だけである」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8B%E4%BB%A4
ところであり、この点を含め、末木による天武朝の構想の紹介は的確ではあります。(太田)

 <ちなみに、>平安中期には実質的には律令による統治は有名無実化した。
 それは古代から中世への転換の大きなメルクマールとなることである。
 それでは、律令はまったく意味を持たなくなったのかというと、そうではない。
 形式的には律令は近世の終わりまで生き続けた。
 一つは、国内を分ける単位としての国郡制度であり、もう一つは官位<(注18)>である。

 (注18)「日本における・・・人が就く官職と、人の貴賤を表す序列である位階の総称・・・
 <日本で>官吏を序列化する制度は603年(推古天皇11年)の冠位十二階に始ま<る、>・・・
 [日本に冠位が設置施行された時期に<支那>にあった官品制度は、官を序列する仕組みであって、人を序列する冠位・位階制度とは原理的に異なる。冠位は隋・唐の制度を参照して作られたものではない。]
 官位制は位階と官職を関連付けて任命することにより、官職の世襲を排して適材適所の人材登用を進めることを目的とした。しかし高位者の子孫には一定以上の位階に叙位する制度(蔭位の制)を設けるなど、当初からその目的は達成困難なものであった。・・・
 俸給は、原則として位階に対して支給される。そのため、異なる官職に就いていても位階が同じならば同じ俸給であった。平安時代以降には皇族・公卿など高い身分にある者、または上級の官職や博士など官職に対しても俸給が支給されるようになった。その他、国司には俸給の他に国司としての収入があった。・・・
 官位制自体は、形骸化されつつも明治時代に律令法が廃止されるまで続いた。また、位階制度はその後変遷を重ねながらも栄典制度のひとつとして現在に至るまで存続する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%98%E4%BD%8D
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%A0%E4%BD%8D%E5%8D%81%E4%BA%8C%E9%9A%8E ([]内)
 「武家政権が成立すると、源頼朝は御家人の統制のため、御家人が頼朝の許可無く任官することを禁じた。・・・後に武家の叙位任官は官途奉行の取り扱いのもと、幕府から朝廷へ申請する武家執奏の形式を取ることが制度化され、室町幕府もこの方針を踏襲した。
 戦国時代になると、幕府の権力が衰え、大名が直接朝廷と交渉して官位を得る直奏の例が増加することになる。朝廷が資金的に窮迫すると、大名達は献金の見返りとして官位を求め、朝廷もその献金の見返りとして、その武家の家格以上の官位を発給することもあった。・・・官位は権威づけだけではなく、領国支配の正当性や戦の大義名分としても利用されるようになる。・・・一方この時代には、朝廷からの任命を受けないまま官名を自称(僭称)する例も増加した。・・・
 徳川家康が江戸幕府を開くと、・・・まず、・・・1606年・・・に武家官位は江戸幕府の推挙によるものとした。・・・1611年・・・には武家官位を員外官(いんがいのかん)として公家官位と切り離す方針が打ち出され、禁中並公家諸法度により制度化された。これは将軍であっても例外ではなかった。ただし、武家官位の太政大臣(徳川家康・秀忠・家斉が任官)と公家官位の太政大臣の重複は発生しなかった。・・・これによって武士の官位保有が公家の昇進の妨げになる事態を防止した。・・・
 武家官位の授与は江戸時代の天皇・皇族・公家にとっては大きな収入源になっていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E5%AE%98%E4%BD%8D

 官位は名目化したとはいえ、近世の武士もまた、それを得ることが慣例化して、朝廷は官位を与える権限において形式的な優位を保持することになった。
 皮肉なことに、明治維新は・・・、国郡制度を廃止し、官位を廃止することで、逆に律令制度にとどめを刺すことになった。
 それによって大伝統が終わり、中伝統の時代となるのである。」(22~24)

⇒国郡制度が県(等)郡制度に変わったことなど、変化とは言えないでしょう。
 そもそも、国郡里制(注19)「廃止」後の国郡制度においては、律令制/軍団制律令制との関係は絶たれていますし、「注18」から分かるように、官位制の歴史は律令制/軍団制の導入より前に遡るものであって、しかも、隋にそんな制度はなく、従って、律令制・軍団制と直接関係があるものではありません。

 (注19)国郡制ならぬ国郡里制は、律令制の本質の一端だった。
 すなわち、「701年(大宝元)に制定された大宝律令で<は、>・・・里は五十戸で構成された。その統率者が里長で末端行政を担った。715年(霊亀元)に里は郷(ごう)と改称され、郷里制に変わった。郷は2~3里に分かれ統率者は郷長であった。里には里正が置かれた。740年(天平12)頃を境に里は廃止され郷制に移行した。・・・
 戸は、正丁(せいてい)成年男子を三丁ないし四丁含むような編成を編戸(へんこ)といい、一戸一兵士という、軍団の兵士を選ぶ基礎単位になった。・・・
 国には軍団が設置され、国司がこれを統率した。軍団は、兵士千人で構成され<た。>・・・実際は千人に満たない軍団もあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%83%A1%E9%87%8C%E5%88%B6

 明治維新の最大の意義は、(復活天智朝が導入した)封建制を廃止し、かつての中央集権制/国軍制に戻したところにあるのです。
 そして、明治維新に伴い、この中央集権制化と必ずしも論理整合性がないところの、(やはり復活天智朝が導入した)神仏習合教の解体が行われたことも併せ銘記すべきである、と思います。
 なお、厩戸皇子が導入した冠位制(「注18」)の目的についての新説たる私見を、次の東京オフ会「講演」原稿でご披露するつもりです。(太田)

(続く)