太田述正コラム#11282(2020.5.11)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その17)>(2020.8.2公開)

 「このように、仏教においては密教的な儀礼が大きく注目されることになった。

⇒必ずしも間違ってはいませんが、これまで、「密教的な儀礼」の話が出てきていないのですから、戸惑ってしまいます。(太田)

 密教は空海が組織的に請来して注目を浴びたため、後れを取った天台宗では円仁<(注40)>・円珍<(注41)>らが入唐して密教を導入し、台密(天台宗の密教)の基礎を作った。

 (注40)圓仁(794~864年)。「延暦寺第3世座主。天台宗山門派の祖。俗姓壬生氏。・・・802・・・ 年<下野の国の>大慈寺広智に入門。・・・808)・・・年比叡山に登り,最澄に・・・学ぶ。・・・816・・・年東大寺で具足戒を受ける。838・・・年入唐,・・・<結果的に最後となった>遣唐使<の一員。>。<支那>各地で顕密両教を学び,・・・会昌(かいしょう)の廃仏(仏教弾圧政策)にあい、道士の身に変えて長安を逃れ、・・・経疏類 802巻などを得て<9年後>帰国。<ライシャワーが紹介して有名になった>『入唐求法巡礼行記』はその旅行記である。最澄の業績を発展させ,・・・天台宗の密教化に影響を与えた。・・・慈覚大師を追諡。」
https://kotobank.jp/word/%E5%86%86%E4%BB%81-14600
 (注41)814~891年。「空海(弘法大師)の甥(もしくは姪の息子)にあたる。・・・比叡山に登り義真に師事、12年間の籠山行に入る。
 ・・・845年・・・役行者の後を慕い、大峯山・葛城山・熊野三山を巡礼し、修験道の発展に寄与する。・・・846年・・・延暦寺の学頭となる。・・・853年・・・新羅商人の船で入唐・・・。
 ・・・858年・・・唐商人の船で帰国。・・・868年・・・延暦寺第5代座主となり、園城寺(三井寺)を賜<る>・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E7%8F%8D
 「修験道(しゅげんどう)・・・は、森羅万象に命や神霊が宿るとして神奈備(かむなび)や磐座(いわくら)を信仰の対象とした古神道に、それらを包括する山岳信仰と仏教が習合し、さらには密教などの要素も加味されて確立した日本独特の宗教である。日本各地の霊山を修行の場とし、深山幽谷に分け入り厳しい修行を行うことによって功徳のしるしである「験力」を得て、衆生の救済を目指す実践的な宗教でもある。 この山岳修行者のことを「修行して迷妄を払い験徳を得る 修行してその徳を驗(あら)わす」ことから修験者、または山に伏して修行する姿から山伏と呼ぶ。修験とは「修行得験」または「実修実験」の略語とされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E9%A8%93%E9%81%93

 それを集大成したのは安然<(注42)>(あんねん)である。

 (注42)841~?年。「最澄(さいちょう)と同姓の出身という。・・・
 円仁<等から>・・・天台宗の密教を学び,その教義の大成に努力,台密(たいみつ)教学を完成させた。・・・
 <具体的には、>円仁,円珍の天台宗密教化を推し進めて,大日如来を諸仏菩薩の最高位に置き,一切の教法は真言の一教に摂取され,天台宗も包括されると説き,さらに空海の「十住心論」「顕密論」および諸宗の教学を論破して,台密を優位に置き,天台宗における密教の位置を明確にして教学体系を完成させた。
 入唐求法を志し,877年・・・官符が下されて大宰府に行くための食料と駅馬が給されたが,入唐<(にっとう)>は果たされなかった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%89%E7%84%B6-429661

 安然の活動期は9世紀末から10世紀初めの時代の変わり目に当り、入唐を志しながらも果たせず、期せずして日本的な密教の隆盛に道を開くことになった。

⇒安然の入唐断念の経緯を見ると、入唐に成功した円珍も朝廷の支援を得ていたと思われるのであって、彼らは、要するに、事実上の遣唐使であった、と言えそうです。
 末木が、どうして、朝廷が、国家的事業として、天台宗、及び、天台宗と真言宗を通じての密教、の継受を図ろうとしたのかについて、説明を試みていないのは残念です。(太田)

 安然は教相(きょうそう)(密教理論)面では、あらゆる「多」なるものは「一」なる真如に帰着するという一元論により、世界の多様性を統合しようとした。
 教判論では「四一教判」(一仏・一時・一処・一教)を立て、すべてを「一」に統合するが、そのことは逆にあらゆる多なるものがそのまま認められることになり(一即多)、それがその後の事相の多様な発展に結びつくことになった。
 東密(真言宗系の密教)は小野流・広沢流の二流が根本となり、台密は川流・谷流などからさらに分かれていった。
 また、思想的にはここから後の本覚<(注43)>思想が展開することになった。」(45~46)

 (注43)「本覚(ほんがく)とは、本来の覚性(かくしょう)ということで、一切の衆生に本来的に具有されている悟り(=覚)の智慧を意味する。如来蔵や仏性をさとりの面から言ったものと考えられる。平たく言えば、衆生は誰でも仏になれるということ、あるいは<仏性は>元から具わっている(悟っている)ことをいう。
 本覚思想は、・・・主に天台宗を中心として仏教界全体に広まった思想と考えられ、今日では本覚思想、天台本覚思想とも称されている<ものであって、>・・・衆生の誰もが本来、如来我・真我・仏性を具えている(本来、覚っている)が、生まれ育つと次第に世間の煩悩に塗(まみ)れていき、自分が仏と同じ存在であることがわからなくなる、ということである。もちろん、これは無明と共に輪廻が始まるとする釈迦の教説とは全く相反するものである。・・・
 [より詳しくは、例えば、 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%80%A7 参照(太田)]
 鎌倉仏教は天台本覚思想の発展とする考え方<が>・・・伝統的な見方で・・・あり、従来から、島地大等や宇井伯寿ら仏教学者によっても唱えられている。とくに島地は、日本には「哲学」がないと説いた中江兆民に対して、「哲学なき国家は精神なき死骸である」と述べて批判し、日本独自の「哲学」を代表するものとして本覚思想を掲げている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%A6%9A
 宇井伯寿(ういはくじゅ)(1882~1963年)は、「愛知県宝飯郡御津町の生まれ。12歳で同郡の曹洞宗の東漸寺で出家。名古屋曹洞宗専門支校(現・愛知中学校・高等学校)、 旧制京北中学校を経て東京帝国大学印度哲学科に入学し、・・・卒業後、曹洞宗第一中学林(現・世田谷学園中学校・高等学校)、曹洞宗大学(現・駒澤大学)で講師を務めつつ、1913年・・・から・・・テュービンゲン大学と・・・オックスフォード大学に留学。帰国後に・・・東北帝国大学法文学部教授となり、<更に>東京帝国大学教授、・・・退官。・・・1921年・・・に東京帝大より文学博士号を授与される。1941年・・・に曹洞宗本庁によって駒澤大学学長に任命される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E4%BA%95%E4%BC%AF%E5%AF%BF

(続く)