太田述正コラム#11288(2020.5.14)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その20)>(2020.8.5公開)

 「・・・比叡山<を>復興<した>・・・良源<(注53)>(りょうげん)・・・の弟子に源信<(注54)>が出て『往生要集』<(注55)>(985<年>)によって浄土信仰を体系化した。・・・

 (注53)912~985年。「諡号は慈恵大師(じえだいし)。一般には通称の元三大師(がんざんだいし)の名で知られる。第18代天台座主・・・
 最澄(伝教大師)の直系の弟子ではなく、身分も高くはなかったが、南都(奈良)の旧仏教寺院の高僧と法論を行って論破したり、村上天皇の皇后の安産祈願を行うなどして徐々に頭角を現し<た。>・・・
 比叡山の伽藍の復興、天台教学の興隆、山内の規律の維持など、様々な功績から、延暦寺中興の祖として尊ばれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%89%AF%E6%BA%90
 (注54)942~1017年。「956年・・・、15歳で『称讃浄土経』を講じ、村上天皇により法華八講の講師の一人に選ばれる。そして、下賜された褒美の品(布帛〈織物〉など)を故郷で暮らす母に送ったところ、母は源信を諌める和歌を添えてその品物を送り返した。その諫言に従い、名利の道を捨てて、横川に・・・に隠棲し、念仏三昧の求道の道を選ぶ。
 母の諫言の和歌 – 「後の世を渡す橋とぞ思ひしに 世渡る僧となるぞ悲しき まことの求道者となり給へ」・・・
 1004年・・・、藤原道長が帰依し、権少僧都となる。
 1005年・・・、母の諫言の通り、名誉を好まず、わずか1年で権少僧都の位を辞退する。・・・
 2016年は源信千年遠忌に当たり宗派の枠を超えて浄土宗と西本願寺が延暦寺(天台宗総本山)において法要を営んだ。また、源信千年遠忌を迎えたのに合わせ、2017年2月には天台宗総本山・延暦寺の座主を導師に浄土宗総本山・知恩院と浄土真宗本願寺派本山・西本願寺において法要が営まれることとなった(天台宗最高位の座主が両寺で法要を営むのは史上初)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E4%BF%A1_(%E5%83%A7%E4%BE%B6)
 (注55)「死後に極楽往生するには、一心に仏を想い念仏の行をあげる<(=専修/称名念仏)>以外に方法はないと説き、浄土教の基礎を創る。また、この書物で説かれた、地獄・極楽の観念、厭離穢土・欣求浄土の精神は、貴族・庶民らにも普及し、後の文学思想にも大きな影響を与えた。一方、易行とも言える称名念仏とは別に、瞑想を通じて行う自己の肉体の観想と、それを媒介として阿弥陀仏を色身として観仏する観想念仏という難行について<も>多くの項が割かれている。・・・
 法然は、一見すると天台の教えに沿ったこの書<を、>・・・観想念仏から専修念仏へ誘引するための書として重視した。・・・
 法然を師とする親鸞も同様に、当時の貴族の間で流行していた観想念仏の教えを説きつつ、観想念仏を行えない庶民に称名念仏の教えを誘引するための書と受けとめ<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%80%E7%94%9F%E8%A6%81%E9%9B%86

⇒悪妻はソクラテスの例のように人を哲学者にする場合があるけれど、良母は、人を既存の「哲学」ならぬ迷信に凝り固まらせ、後世に大いなる不幸をもたらす場合がある、と皮肉の一つも言いたくなりました。
 支那における孟子の母の断機の故事、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E5%AD%90
欧米におけるエンリケ航海王子の母の故事(コラム#10813)、そして、日本におけるこの源信の母の故事、と。
 源信の言う、観想、観想念仏、専修/称名念仏、中、非科学的・・迷信・・であると断定できないものは、最初の「観想」だけであったというのに・・。(太田)

 浄土信仰はこの後、末法説とともに盛んになった。・・・
 この頃までの仏教は僧侶中心で、在家者は受け身であったが、この頃から在家者も積極的に実践に関わるようになった。
 その先例をなすのが藤原道長である。
 道長は壮大な法成寺<(注56)>(ほうじょうじ)を建立するとともに、吉野金峯山<(注57)>(きんぷせん)に詣でて自ら書写した経典を埋経(まいきょう)した。

 (注56)「京極御堂とも称され、道長の異称「御堂殿」「御堂関白」やその子孫御堂流の由来ともなった。・・・14世紀前半、吉田兼好は『徒然草』の中で、無量寿院およびその9体の丈六仏と法華堂のみが残っていることを記し、世の無常の例えとしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E6%88%90%E5%AF%BA
 (注57)「7世紀に活動した伝説的な山林修行者・役小角が開創したと伝え<られる>・・・金峯山寺の中興の祖とされるのは、平安時代前期の真言宗の僧で、京都の醍醐寺を開いたことでも知られる聖宝である。・・・聖宝は・・・894年・・・、荒廃していた金峯山を再興し、参詣路を整備し、堂を建立して如意輪観音、多聞天、金剛蔵王菩薩を安置したという。「金剛蔵王菩薩」は両部曼荼羅のうちの胎蔵生曼荼羅に見える密教尊である。この頃から金峯山は山岳信仰に密教、末法思想、浄土信仰などが融合して信仰を集め、皇族、貴族などの参詣が相次いだ。金峯山に参詣した著名人には、宇多法皇(・・・900年)、藤原道長(・・・1007年)、藤原師通(・・・1088年)白河上皇(・・・1092年)などがいる。このうち、藤原道長は山上の金峯山寺蔵王堂付近に金峯山経塚を造営しており、日本最古の経塚として知られている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%B3%AF%E5%B1%B1%E5%AF%BA

⇒法成寺建立の、平安京内への寺院の設置の禁との関係、や、藤原氏の氏寺である興福寺との関係、がどうだったのか、知りたいところです。(太田)

 埋経は・・・弥勒菩薩の下生(げしょう)(釈迦の次の仏としてこの世界に出現すること)を待つことを目的とし、この後中世へかけて流行する。
 56億7千万年先の弥勒の下生までは、阿弥陀の浄土で待つことを願い、阿弥陀信仰と弥勒信仰を複合している。・・・
 また、寺院への参詣や参籠も盛んになり、その風習は貴族だけでなく、庶民にも広がった。」(47~48)

(続く)