太田述正コラム#11290(2020.5.15)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その21)>(2020.8.6公開)

 「・・・六国史<でもって、>・・・勅撰の歴史書は終わっている。・・・
 それより一足早く『経国集』(827)によって、勅撰の漢詩集も終わっていた。
 それでは、それに代わる勅撰の書物は何かというと、それが『古今和歌集』(905)に始まる和歌集であり、その後『新続(しんしょく)古今和歌集』(1439)に至るまで二十一代集<(注58)>が延々と編纂され続ける。

 (注58)「このほかに南朝で編纂された『新葉和歌集』は準勅撰集とされる。また、編纂時期により、「八代集」(『古今集』から『新古今集』)と「十三代集」(『新勅撰集』から『新続古今集』)に大別され、八代集のうち最初の三集は特に「三代集」(『古今集』・『後撰集』・『拾遺集』)と呼ばれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%85%E6%92%B0%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%9B%86

 歴史から和歌へという転換は、一見奇妙に見える。
 それは何を意味するのであろうか。

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[万葉集の位置付け]

 最近はこういう「新説」が出ているようだ。↓

 「万葉集は、伝統的に評価が高かったわけではなく、明治期に、庶民から天皇までの歌が収められているために、「日本」という統一国家観の形成のために価値が創りだされた、と品田悦一<(注59)>は指摘している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9D%E7%B5%B1#%E5%89%B5%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E4%BC%9D%E7%B5%B1

 (注59)1959年~。東大院博士課程単位取得退学、「聖心女子大学文学部教授などを経て、2004東京大学准教授、2011年10月教授。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%81%E7%94%B0%E6%82%A6%E4%B8%80

 「万葉集の詠み人は天皇、貴族から下級官人、防人、大道芸人などさまざまな身分の人々と考えられてきているが、品田悦一(東京大学教授)によれば、今日ではほぼ全ての研究者から否定されている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86 前掲

 しかし、後段については、ネットに少し当たった限りでは、同調する意見は余りなさそうであるし、前段についても、「『万葉集』は・・・、すぐに公に認知されるものとはならなかった。・・・785年・・・、家持の死後すぐに大伴継人らによる藤原種継暗殺事件があり家持も連座したためである。その意味では、『万葉集』という歌集の編纂事業は恩赦により家持の罪が許された・・・806年・・・以降にようやく完成したのではないかと推測されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86
という事情はあったものの、「951年・・・に梨壺の五人の附訓で、万葉歌の9割にあたる4,000以上の歌が訓をつけられ<た>」ことに始まり、次々に、「「古点本」「次点本」「新点本」」が登場することとなる(上掲)ので、成り立たないように思われる。
 また、末木は、それが勅撰集ではなかったから、ということなのだろうが、万葉集に言及すらしていないが、持統天皇、元明天皇、元正天皇の関与が推測されること(下掲)↓

 「『万葉集』の成立に関しては詳しくわかっておらず、勅撰説、橘諸兄編纂説、大伴家持編纂説など古来種々の説があるが、現在では家持編纂説が最有力である。ただ、『万葉集』は一人の編者によってまとめられたのではなく、巻によって編者が異なるが、家持の手によって二十巻に最終的にまとめられたとするのが妥当とされている。
 『万葉集』二十巻としてまとめられた年代や巻ごとの成立年代について明記されたものは一切ないが、内部徴証から、おおむね以下の順に増補されたと推定されている。
巻1の前半部分(1 -53番)…
原・万葉集…各天皇を「天皇」と表記。万葉集の原型ともいうべき存在。持統天皇や柿本人麻呂が関与したことが推測されている。
巻1の後半部分+巻2増補…2巻本万葉集
 持統天皇を「太上天皇」、文武天皇を「大行天皇」と表記。元明天皇の在位期を現在としている。元明天皇や太安万侶が関与したことが推測されている。
巻3 – 巻15+巻16の一部増補…15巻本万葉集
 契沖が万葉集は巻1 – 16で一度完成し、その後巻17 – 20が増補されたという万葉集二度撰説を唱えて以来、この問題に関しては数多くの議論がなされてきたが、巻15までしか目録が存在しない古写本(「元暦校本」「尼崎本」など)の存在や先行資料の引用の仕方、部立による分類の有無など、万葉集が巻16と17の間で分かれるという考え方を裏付ける史料も多い。元正天皇、市原王、大伴家持、大伴坂上郎女らが関与したことが推測されている。
残巻増補…20巻本万葉集
 ・・・783年・・・ごろに大伴家持の手により完成したとされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86

、及び、「古今和歌集<が、>・・・醍醐天皇の勅命により『万葉集』に撰ばれなかった古い時代の歌から撰者たちの時代までの和歌を撰んで編纂<された>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%9B%86
と自認していることからして、万葉集が天武朝による勅撰集的なものであったことは否定できまい。↓
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 紀貫之らの編纂になる『古今集』は、春夏秋冬の季節の歌を最初に置き、その後、賀歌・離別歌・羇旅(きりょ)歌・物名と続き、その後に恋歌が五巻分を占めている。
 四季の歌を最初に置くという構成は、その後も踏襲される。
 歴史として流れ去るのではなく、四季として循環する時間が基準となる。
 帝の支配は転変するものではなく、常に新たにされた生命の繰り返しであり、和歌集はその永続を寿ぎ祝福するものである。
 恋はその生命力を裏づける。
 それは男だけの政治の世界から男女が関わる私的世界に場を広げる。
 こうして、和歌は「天地の開け始まりける時より」続くもので、「天地を動かす」(『古今集』仮名序)宇宙的な力を持つ。」(49~50)

⇒末木のご高説は聞き流すこととし、六国史の「終了」は、事実に即したフィクションの一種である公式権力史の上梓を止めることによって、爾後、朝廷は日本の「権力」の担い手であることを止めると宣言した(コラム#11235)、と、私は見ているわけですが、万葉集的なものの復活であるところの、二十一代集の「開始」は、朝廷が事実に即したフィクション中の権力に関わらないものの中の代表的なものであった和歌、の勅撰集を爾後上梓し続けることにすることによって、自らが、引き続き日本の「権威」の担い手ではあることを宣言した、と、見たらいかがでしょうか。(太田)

(続く)