太田述正コラム#11302(2020.5.21)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その27)>(2020.8.12公開)

 「・・・院政期になって、仏教的な三国史観と別に、四鏡<(注74)>(『大鏡』『今鏡』『水鏡』『増鏡』)の最初の『大鏡』<(注75)>が編纂され、再び歴史への関心が生まれるようになった。

 (注74)「いずれも鏡という名前を冠しており、また非常に高齢の老人が「昔はこんな事があったなぁ」という話を2人でしていたり作者に対して語ったりするという形式を取っている。これらは初めに成立した大鏡の特徴を後の3つが踏襲している。
 成立順は大鏡・今鏡・水鏡・増鏡の順・・・。しかし作中で扱っている時代の順に並べると水鏡・大鏡・今鏡・増鏡の順となる。
 また、『増鏡』によれば他に『弥世継』(いやよつぎ)と言われる「鏡物」(世継とは『大鏡』の別称)が存在していた事が明記されており、『今鏡』以後『増鏡』以前の歴史を扱ったと見られているが、今日では亡失してしまい見ることはできない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E9%8F%A1
 (注75)「白河院院政期の前後に成立か。大宅世継(おおやけよつぎ)・夏山繁樹という二老人の昔語りに若侍が批判を加えるという形式で、藤原道長の栄華を中心に、文徳天皇の嘉祥3年(850)から後一条天皇の万寿2年(1025)までの歴史を紀伝体で記す。・・・
 作者の透徹した歴史認識によって選択された事象は、多く説話を用いて語られているが、それらの説話は、作者の豊かな想像力と創意によって形成され、変容されたもので、虚構や事実の錯誤や誇張による歪曲などもある。しかし、それらは、事実性を拒絶した虚妄の話ではなく、事実を包摂した虚構の世界であり、それによって、善悪、正邪、美醜などのさまざまな矛盾をもったものとして人間を描き、歴史の本質に迫ることができた。『大鏡』は歴史物語のなかでも傑出した作品で、その問答、座談形式は後代の歴史物語に大きな影響を与え、確かな史眼と鋭い批評精神は『愚管抄』などに継承されていった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E9%8F%A1-39069
 「「伊勢物語」の「みやび」から「源氏物語」の「もののあわれ」に昇華されて行くかに見える、「かそけき」平安朝美意識を陰謀・大胆・憎悪・奇行・高笑いの連打によってあざ笑うかのよう描いているのが「大鏡」」
https://plaza.rakuten.co.jp/simakumakun/diary/202004090000/
 「はじめに文徳以降の歴代の天皇のことが,本紀風に代ごとに簡略に語られ,次に左大臣冬嗣・太政大臣良房から太政大臣道長までの一の人を,列伝風に語って<おり>,作者の主眼はこの摂関列伝にある。・・・摂関政治が頂点に達する道長の繁栄絶頂期の万寿2年現在で,作品を構想したのもそのためである。語り手の世継(世継の翁)らの異常な高齢は,実は摂関政治の歴史が経てきた年数であった。同一人の眼でその歴史を見つづけてきたとしたいための,虚構なのである。」
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=752
 「作者は不詳だが、摂関家やその縁戚の村上源氏に近い男性官人説が有力で、・・・近年では・・・源顕房とする説がやや有力とみなされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%8F%A1

⇒要は、伊勢物語は男性による純文学、源氏物語は女性による純文学、大鏡は男性による大衆文学、といったところではないでしょうか。
 大鏡に関して更に言えば、司馬遼太郎流の歴史大衆文学だが、司馬の作品群と較べ、歴史の真実を穿っている点で、より上級の作品である、と、私自身は思っています。
 『大鏡』に、藤原道長が甥の藤原伊周に弓で圧勝した話と、その道長が藤原公任(注76)に同じ弓で負ける話、とが出て来るのです
http://kujoh-hujiwarashi.blog.jp/archives/1060807300.html
が、これらの諸話の真偽はともかくとして、藤原氏の宗家筋の人々がいかに武についても修練をしていたかを我々に示してくれています。

 (注76)966~1041年。「関白太政大臣・藤原頼忠の長男。官位は正二位・権大納言。・・・母(醍醐天皇の孫)・妻(村上天皇の孫)ともに二世の女王・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%AC%E4%BB%BB
 「歌人・歌学者。通称、四条大納言。故実に詳しく、また、漢詩・和歌・音楽にすぐれた。」
https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%AC%E4%BB%BB-15074

 それは、彼らと歴代天皇が協力しつつ推進していたところの、日本における弥生性の確立/武家・武士の創出、こそが、摂関時代における政治の最重要課題であったことを示唆してくれている、と、私自身は受け止めています。(太田)

 歴史の転換点には、自己の立ち位置を歴史の中に見定める必要が出てくる。
 この点で、もっとも自覚的に歴史を捉え直し、その再構築を図ったのは慈円<(注77)>であった。」(57)

 (注77)1155~1225年。「父の藤原忠通は白河,鳥羽院政下に37年間摂政関白の地位を保ち,貴族社会の頂点に立ち続けた人物で,・・・兄たちのなかで基実(近衛),基房(松殿),兼実(九条)は摂政関白に,兼房は太政大臣になった。・・・」
https://kotobank.jp/word/%E6%85%88%E5%86%86-72175
 「幼いときに青蓮院に入寺し、・・・1167年・・・受戒。・・・覚快法親王の没後に空席になっていた青蓮院を継いだ(なお、覚快は生前に別の人物に譲る意向があったが、慈円の兄である九条兼実が慈円に譲らせようと圧迫したと伝えられている。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E5%86%86
 「<その後も>兼実の尽力により<天台宗の僧として>順調な昇進をとげ<、>・・・混乱の続く貴族社会のなかで,慈円は,関東の武家との協調を図る同母兄の兼実の庇護の下で活動し,・・・1192・・・年に天台座主,・・・1203・・・年には大僧正に任ぜられ,後鳥羽上皇の護持僧にもなったが,貴族社会の政局の推移につれて天台座主の辞退と復帰を繰り返し,補任は4度におよんだ。」
https://kotobank.jp/word/%E6%85%88%E5%86%86-72175 前掲
 「兄・兼実の孫・九条道家の後見人を務める<が、>・・・<その>道家の子<が>藤原頼経<だ。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E5%86%86
 「源頼朝の死後,後鳥羽上皇の周りは討幕に傾いていったが,兼実と同じ立場に立っていた慈円は,承久の乱(1221)の直前,兼実の曾孫九条(藤原)頼経が征夷大将軍になる予定で鎌倉に下ったことを,公武協調の現れと考えた。討幕の動きが起これば,九条家の立場が崩れることを恐れた慈円は,焦燥にかられながら,国初以来の歴史をたどり,歴史のなかに流れている道理に基づいて,日本国のあるべき姿を明らかにしようとして,史書・史論書として名高い『愚管抄』を著した。」
https://kotobank.jp/word/%E6%85%88%E5%86%86-72175 前掲
 「後鳥羽上皇の挙兵の動きには西園寺公経とともに反対し、『愚管抄』もそれを諌めるために書かれたとされる。だが、承久の乱によって後鳥羽上皇の配流とともに兼実の曾孫である仲恭天皇(道家の甥)が廃位されたことに衝撃を受け、鎌倉幕府を非難して仲恭帝復位を願う願文を納めている。・・・
 また、当時異端視されていた専修念仏の法然の教義を批判する一方で、その弾圧にも否定的で法然や弟子の親鸞を庇護してもいる。なお、親鸞は・・・1181年・・・9歳の時に慈円について得度を受けている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E5%86%86 前掲
 「<政治的スタンスこそ違え、>後鳥羽上皇は,慈円の平明な歌風を高く評価し,『新古今和歌集』には,西行の94首に次いで,91首もの歌が収められている。・・・
 <なお、>吉田兼好の《徒然草》226段によれば,・・・慈円に扶持されていた遁世者信濃前司行長が,東国武士の生態にもくわしい盲人生仏(しようぶつ)の協力をえて《平家物語》を作り,彼に語らせ,以後,生仏の語り口を琵琶法師が伝えたという。」
https://kotobank.jp/word/%E6%85%88%E5%86%86-72175 前掲

(続く)