太田述正コラム#11310(2020.5.25)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その31)>(2020.8.16公開)

 「フビライは南宋を滅ぼして中国を統一した(1279)。
 ・・・日本にも高麗軍とともに2回遠征したが、強風に被害を受けて撤退した(1274、1281)。

⇒まず、文永の役については、「元軍は夜間の撤退を強行し海上で暴風雨に遭遇したため、多くの軍船が崖に接触して沈没し、高麗軍左軍使・金侁が溺死するなど多くの被害を出した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87
ものであり、因果関係が逆ですし、弘安の役については、「元・高麗軍を主力とした東路軍約40,000~56,989人・軍船900艘と旧南宋軍を主力とした江南軍約100,000人および江南軍水夫(人数不詳)・軍船3,500艘、両軍の合計、約140,000~156,989人および江南軍水夫(人数不詳)・軍船4,400艘の軍が日本に向けて出航した。日本へ派遣された艦隊は史上例をみない世界史上最大規模の艦隊であった。 ・・・博多湾沿岸からの上陸を断念した東路軍は陸繋島である志賀島に上陸し、これを占領。志賀島周辺を軍船の停泊地とした・・・東路軍は・・・志賀島の戦いで大敗し・・・志賀島を放棄して壱岐島へと後退し、江南軍の到着を待つことにした。・・・<合流した両軍は>元軍は・・・戦闘により・・・損害を出し・・・そのためか、元軍は合流して計画通り大宰府目指して進撃しようとしていたものの、九州本土への上陸を開始することを躊躇して鷹島で進軍を停止した。・・・台風が襲来し、元軍の軍船の多くが沈没、損壊するなどして大損害を被った。
 東路軍が日本を目指して出航してから約3か月、博多湾に侵入して戦闘が始まってから約2か月後のことであった。なお、北九州に上陸する台風は平年3.2回ほどであり、約3か月もの間、海上に停滞していた元軍にとっては、偶発的な台風ではなかった。・・・<最終的に>日本軍による鷹島総攻撃により10余万の元軍は壊滅し、日本軍は20,000〜30,000人の元の兵士を捕虜とした」(上掲)と、台風前後の日本側の奮戦が日本側勝利の主要原因であり、末木の記述は読者に誤解を与えるものです。(太田)

 小さな島国である日本にとって、強大なモンゴル軍の来襲は存亡の危機であり、幕府を中心に北九州の防備を固めるとともに、朝廷も幕府も盛んに神仏への祈禱を行った。
 日蓮は『立正安国論』(1260)で、王権が正しい仏法に従わないと、他国の侵略などの災厄を招くと主張していたが、その予言の正しさが証明されたと考え、幕府に対して諫暁(かんぎょう)を行った。
 結果的にモンゴル軍<は>撤退し・・・神の加護によって日本が危機を逃れたという信念から、神国思想が進展した。
 神国思想は、もともとは日本は仏の教化が及ばない辺土であるから、仏が神となって垂迹して教化するという日本辺土観に基づいているが、それが逆に、日本が神によって守られた特別の国だという日本優越論に転換することになった。<(注86)>」(59~60)

 (注86)「浄土思想・鎌倉新仏教側も・・・日本を神国とする認識・・・を取り入れていく方向に変化して行き、神々は仏に従属するとした「仏教の超越性」を唱えていた法華宗を含めて、日本の仏教は神々の加護によって初めて成立しており末法の世を救う教えも日本が神国であるからこそ成立したという主張に転換していく事になる。虎関師錬の『元亨釈書』の「大乗仏教は日本において完成した」という主張はその典型である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%9B%BD
 虎関師錬(1278~1346年)は、密法を修する兼習禅者、詩人。
https://kotobank.jp/word/%E8%99%8E%E9%96%A2%E5%B8%AB%E9%8C%AC-63614
 元亨釈書(げんこうしゃくしょ)は、・・・「日本で初めての仏教史書。30巻。1322年(元亨2年)虎関師錬編著。3部からなり,僧伝の部では400人余の伝記を,資治表(しじひょう)の部では仏教伝来後683年間の史実を,志の部では学修など10項目にわたる事項を収録する。・・・後醍醐天皇に上呈した。・・・親鸞を除き道元を軽視するなど,多少の偏見がある」
https://kotobank.jp/word/%E5%85%83%E4%BA%A8%E9%87%88%E6%9B%B8-60432

⇒日本の当時の最高の知識人であるはずの「虎関師錬<は、>・・・「皇朝」は、仏教的世界観における最高の国土である「竺乾<(インド)>」と同様、一系の皇統が連綿と続いているために、政治は理想的に遂行されているという認識<であり、>・・・「支那」は、仏教に劣った儒教に、それも不完全なあり方で依っているために、「閻浮の本邦に非」ざる国柄である、と<している>。」(市川浩史(注87)「虎関師錬の思想」より。
http://ajih.jp/backnumber/pdf/19_02_04.pdf
という「日本優越論」を展開したわけですが、思い付きをしかも非論理的に繋ぎ合わせた愚論に過ぎず、論評する気も起きません。

 (注87)ひろふみ。1956年~。東北大文卒、同大博士。現在、群馬県立女子大文学部教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E5%B7%9D%E6%B5%A9%E5%8F%B2

 唯一救われるのは、虎関師錬が(私自身が高く評価している)厩戸皇子と北条時頼を高く評価している(上掲)ことです。(太田)

(続く)