太田述正コラム#11326(2020.6.2)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その39)>(2020.8.24公開)

 「・・・尊氏によって制定された『建武式目』<(注117)>(1336)は、「遠くは延喜・天暦両聖の徳化を訪ひ、近くは義時・泰時父子の行状をもって、近代の師となす」と、公家の理想である延喜・天暦時代と、武家の理想である義時・泰時時代を併せることで、公武協力体制を取ろうとした。・・・」(77)

 (注117)「建武3年(1336年)に湊川の戦いで新田義貞・楠木正成らを破り京都へ入り、施政方針を定めた建武式目を制定する。尊氏は後醍醐から三種の神器を接収して光明天皇を即位させ、2年後の・・・1338年・・・に征夷大将軍に任命されて正式に武家政権を成立させた。
 明法道(公家法の法学者)の家系である中原氏出身の是円(中原章賢)・真恵兄弟を中心に、藤原藤範、玄恵ら8人の答申の形で制定された。武家の基本法である御成敗式目に対して建武式目は武家政権の施政方針を示すもので、拘束力がある法令ではないとも、御成敗式目の改廃をともなう法令ではないともいわれている。・・・2項・・・17条から成る。
 尊氏は政務を弟の足利直義に任せており、式目の制定には直義の意思があったとも指摘されている。
 また、太子信仰の風習から、聖徳太子の制定した十七条憲法に影響されたとも考えられている。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E6%AD%A6%E5%BC%8F%E7%9B%AE (下の[]内も)
 「内容は、前文で、幕府の本拠地を鎌倉に置くべきか否かが問題とされ、鎌倉は不適切で、京都が適切であると明言しているわけではないが、京都とすることが適当であると主張されている。次に本文17か条では、一般的な倹約、賄賂の禁止、進物の抑制、礼節・名誉を重んずることなどの道義的規定がなされ、さらに訴訟の公正、裁判手続の維持、戦乱中の京都の混乱を正し、宅地・家屋を元の持ち主に返還し、狼藉を取り締まることが定められている。幕府の支配体制としては、とくに守護に器用の人材を登用することを強調し、また無尽銭(むじんせん)・土倉(どそう)などを保護して市中の経済活動を円滑にすることを意図している。[また、南北朝時代の社会的風潮であった「ばさら」を禁止している。]・・・さらに後文では、公家社会の延喜・天暦(てんりゃく)の時代、武家社会の[得宗専制以前の]北条義時・泰時の時代を理想として掲げる。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BB%BA%E6%AD%A6%E5%BC%8F%E7%9B%AE-61108
 「ばさらは、・・・身分秩序を無視して実力主義的であり、公家や天皇といった名ばかりの時の権威を軽んじて嘲笑・反撥し、奢侈で派手な振る舞いや、粋で華美な服装を好む美意識であり、室町時代初期(南北朝時代)に流行し、後の戦国時代における下克上の風潮の萌芽ともなった。・・・
 源氏足利将軍執事で守護大名の高師直兄弟や、近江国守護大名の佐々木道誉(高氏)、美濃国守護大名の土岐頼遠などの・・・大名は「ばさら大名」と呼称され、ばさらの代表格とされている(師直や頼遠は建武式目を主導した直義と後に対立する)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B0%E3%81%95%E3%82%89
 高師直、佐々木道誉、土岐頼遠、に関しては、建武式目中の「ばさら」に関してはあてはまりえないことに注意が必要。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B8%AB%E7%9B%B4 a
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E9%81%93%E8%AA%89 b
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E9%A0%BC%E9%81%A0 c
 但し、建武式目が制定された後には、高師直、佐々木道誉はともかくとして(a、b)、土岐頼遠は、まさに「ばさら」的な事績を残してその生涯を終えている。↓
 「1339年・・・、父の死により家督を継いで土岐氏惣領となり、美濃守護に就任する。同年に本拠地を土岐郡から厚見郡に移動、守護所を長森城に定める。その後も各地を転戦して武功を挙げたが、自身の高名をいいことに奢り高ぶることも少なくなかった。
 ・・・1342年・・・9月6日、笠懸の帰りに行き会った光厳上皇の牛車に対して、酒に酔った勢いに任せて「院と言うか。犬というか。犬ならば射ておけ」と罵って牛車を蹴倒す(矢を射たとも)という狼藉行為を行った。これを知った尊氏の弟・足利直義は激怒して頼遠逮捕を命じる。頼遠は一度は美濃に戻って謀反を計画するものの失敗、夢窓疎石のいる臨川寺に逃れ助命嘆願をした。また各所から助命嘆願が相次いだため足利直義は「国師(夢窓)の口添えならば頼遠は厳罰とするが土岐子孫は許す」とした。頼遠は臨川寺を囲んでいた幕府軍に捕らえられ、侍所頭細川頼氏に渡され12月1日に京都六条河原にて斬首された。」(c)

⇒南朝方重鎮の北畠親房も北朝方総帥の足利尊氏・直義兄弟も、どちらも、北条義時・泰時父子を高く評価していた、というのは面白いですね。
 それぞれ、その旨を記したのは、1339~43年、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%9A%87%E6%AD%A3%E7%B5%B1%E8%A8%98 
1336年、ですから、後者の方が先で、足利宗家は北条得宗家と表裏の関係にあった(前述)ことから、さほど不思議ではない一方、北畠親房は「正理」論に基づく評価である、という違いがあったわけですが・・。
 ちなみに、北畠親房と足利宗家とはもう一つご縁があり、村上源氏の親房が後醍醐天皇の時に源氏長者に任命されているところ、清和源氏の足利義満(足利幕府三代目将軍)が武家源氏として初めて源氏長者に任命されています。(注118)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E9%95%B7%E8%80%85

 (注118)「源氏長者(げんじのちょうじゃ)は、源氏一族全体の氏長者の事を指す。原則として源氏のなかでもっとも官位が高い者が源氏長者となる(現任上首)。源氏のなかでの祭祀、召集、裁判、氏爵の推挙などの諸権利を持つ。一般的には、奨学院・淳和院の両別当を兼任するといわれているが、自身も源氏長者だった北畠親房の『職原鈔』によれば、奨学院別当のみでも要件を満たす(その場合、次席が淳和院別当となる)と解説している。・・・
 義満以後、源氏長者に就任した足利将軍は義持・義教・義政・義稙の計4名、長者の宣旨を受けなかった事実上の長者(淳和奨学両院別当のみ務めた。ただし、宣旨を受けたとする説もある)義尚を含めても5名であり、実態としては清和源氏足利家と村上源氏久我家が交替で務めており(在任は前者の方が長い)、他の源氏系公家の就任を排除することになった。戦国時代にはいると再び村上源氏久我家から源氏長者が任ぜられている。この背景としては足利将軍の地位が不安定となり、官位の昇進が停滞したことや公家社会との関係の希薄化によって足利家の源氏長者への関心が低下したことがあったとみられている。徳川家康以降は、源氏長者は徳川家が独占した。」(上掲)

(続く)