太田述正コラム#11330(2020.6.4)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その41)>(2020.8.26公開)

 「・・・室町幕府は三代将軍義満の頃に全盛期を迎えたが、もともと武士集団の寄り集まり的な性格を持ち、将軍の力は必ずしも強くなかった。
 また、京に地盤を置いて朝廷とも協調的であったために、王権の二元的な緊張構造が弱く、対抗する相手を想定することで求心力を強めることも困難であった。

⇒「後小松<天皇(注123)が、院政を開始してからの>治天<の君時代>には、かつての伝奏を中心とした庭中(文殿・記録所)・雑訴沙汰・評定(議定)などは<既に>機能しておらず、伝奏を介して室町殿(足利義持)と密着して政務を行<い、>・・・後小松の崩御によって院政と治天の君という制度<もまた、>事実上の終焉を迎えることとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E5%A4%A9%E7%9A%87
というのですから、当時よりも前に、「王権の二元的な緊張構造」の前提たる「王権」が失われており、天皇/上皇は、純粋に権威だけの担い手になっていたのですから、朝廷と幕府の、権力面での「緊張構造」などありえようはずがありませんでした。(太田)

 (注123)1377~1433年。北朝天皇:1382~1392年。天皇:1392~1412年。「1412年・・・、後小松は皇子の実仁親王(称光天皇)に譲位し、院政を開始。これは・・・1392年・・・の南北朝合一の際の条件である両統迭立に反しており、その後南朝勢力はしばしば反発して武装蜂起する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E5%A4%A9%E7%9A%87

 専制を狙った六代将軍義教<(注124)(よしのり)が赤松満祐<(注125)>(みつすけ)に殺害されると(嘉吉の乱<(注126)>、1441)、幕府は一気に弱体化して、応仁の乱(1467~77)に突入し、それがひとまず収束しても、そのまま社会の混乱は収まらず、戦国の世を迎えることになった。」(90)

 (注124)1394~1441年。将軍:1428~1441年。「足利義満の子・・・1403年・・・に青蓮院に入室<し、>・・・1408年・・・に得度して門跡となり義円と名乗った。・・・1419年・・・に153代天台座主となり、・・・その後一時大僧正も務めた・・・恐怖政治を志向し<、>・・・嗜虐性<も>有していた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%95%99
 (注125)1381~1441年。「室町幕府侍所頭人、播磨・備前・美作守護・・・性格が傲岸不遜、横柄で気性が激しかった・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E6%BA%80%E7%A5%90
 「赤松氏は播磨の地頭であったが、鎌倉時代末期に赤松則村(円心)は後醍醐天皇の檄に応じて挙兵、鎌倉幕府打倒に大きく尽力し、その功績により守護に任じられた。しかし、恩賞への不満から南北朝時代の争乱では初代将軍足利尊氏に与して室町幕府創業の功臣となり、播磨の他に備前、美作を領し、幕府の四職の1つとなっていた家柄である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%89%E5%90%89%E3%81%AE%E4%B9%B1
 (注126)「<最終的に>満祐は・・・切腹した<が、>・・・1443年<に>・・・後南朝勢力が御所に乱入し、三種の神器のうちの神璽が奪われる事件が発生した(禁闕の変)。赤松氏の遺臣は後南朝勢力に潜入し、・・・1457年・・・12月に神璽を奪還して後南朝の後裔を殺害した(長禄の変)。この功により・・・満祐の弟の義雅・・・<の>息子<である>時勝の子赤松政則は赤松氏の再興を認められ、加賀半国守護に任ぜられた。応仁の乱では旧領の三国をめぐって山名氏と争い、三国守護の座を奪還した。」(上掲)

⇒義教(と、後に第4代将軍になる、その兄の義持)の母親は、三宝院の坊官(注127)の子で、侍女を経て義満の側室になった女性ですが、義教は、義満と別居状態にあったこの母親の下で育てられたと思われ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%85%B6%E5%AD%90
9歳くらいの時には青蓮院入りしているのですから、父からも、まともな武士とは言い難い家に育った母からも、武士教育・薫陶を受ける機会を得ないまま、仏門に入っており、30台半ば近くになって、急に第6代将軍にさせられた(注128)わけであり、慌てて弥生性を身に着けようとした結果、行き過ぎて、「恐怖政治を志向し・・・嗜虐性」を発揮する羽目になってしまい、その挙句、恨みをかって殺されてしまった、といったところではないでしょうか。(太田)

 (注127)「門跡家などに仕え、事務に当たった在俗の僧。剃髪し法衣を着るが、肉食妻帯し、帯刀を許された」
https://kotobank.jp/word/%E5%9D%8A%E5%AE%98-627259
 (注128)「第5代将軍・足利義量は将軍とは名ばかりで実権は父の足利義持が握っていたが、・・・1425年・・・に義量が急死した後も、法体の義持が引き続き政治を行なった。その義持も・・・1428年・・・1月に病を得るが、危篤に陥っても後継者の指名を拒否した。そこで・・・群臣たちが評議を開いた結果、石清水八幡宮で籤引きを行い、義持の弟である梶井門跡義承・大覚寺門跡義昭・相国寺虎山永隆・義円の中から次期将軍を選ぶことになった。
 1月17日、石清水八幡宮で籤が引かれ、翌日の義持死亡後に開封された。後継者に定まったのは義円だった。このことから「籤引き将軍」とも呼ばれる。結果は19日に諸大名によって義円に報告され、義円は幾度か辞退したが、諸大名が重ねて強く要請したため応諾した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%95%99 前掲
 足利義量(よしかず。1407~1425年。将軍:1423~1425年)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E9%87%8F

(続く)