太田述正コラム#11354(2020.6.16)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その53)>(2020.9.7公開)

 「三世因果説を認めるか否かは、倫理の基礎づけという点だけでなく、超常的な現象を認めるか、それともあくまで現世一元論に立つかという世界観の問題にも関わる。
 一見すると、世俗化の進展の中で、現世一元論が強まるように見えるが、単純にその一方向へと向かうわけではない。
 死後の霊魂(鬼神)の存在をめぐる論争(鬼神論)<(注165)>は、江戸中期の儒者による否定的な論調を経て、やがて平田篤胤(あつたね)の出現で、再び今度は鬼神を認め、現世主義に対する批判がなされることになる。

 (注165)「新井白石<は、《>・・・鬼神論<》>1800年(寛政12)刊<の中で、>近世思想史上の一争点であった〈鬼神〉の存在について,人間の生死を〈陰〉〈陽〉二気の集合離散と見る立場から,人間の死後,〈陰〉は〈鬼〉,〈陽〉は〈神〉となって天地に帰ると合理的に説明しているが,一面では超自然の怪異もみとめている。ために後年,山片蟠桃の《夢の代》の無鬼論,平田篤胤の《鬼神新論》の有鬼論の双方から批判された。」
https://kotobank.jp/word/%E9%AC%BC%E7%A5%9E%E8%AB%96-1158021
 『夢の代(ゆめのしろ)』(1820年)は、「西洋文明の実証性を評価し,地動説や無神論を説き,また神話と歴史を峻別(しゅんべつ)し,記紀においては応神朝から史実性をもつと主張。儒教道徳は堅持されていたが,社会経済学的視点と,徹底した合理思想をもって貫かれる。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A2%E3%81%AE%E4%BB%A3-652347
 平田篤胤の《鬼神新論》は、「1805年・・・完成<し、>1820年・・・に刊行<されたところの、完成時期で見た平田篤胤の最初の著書>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%94%B0%E7%AF%A4%E8%83%A4
 「日本の神こそが儒教でいうところの「鬼神」であること、そして、「鬼神」であるところの日本の神は、間違いなくこの世に実在し、今なお世界を包み込んでいる、ということをはっきり主張しようとした」
http://cs2593.blog.fc2.com/blog-entry-287.html

⇒「『論語』先進篇における孔子と子路との間でなされた周知の問答<に、>・・・「季路鬼神に事<(=つか=仕)>えんことを問う。子曰く、未だ人に事うること能わず、いずくんぞ能く鬼に事えん。敢えて死を問う。曰く、未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん。」(先進篇)<とあり、また、>朱子・・・<が>『中庸章句』「鬼神之為徳」章の注釈文中<で、>・・・「・・・愚おもえらく、・・・鬼とは陰の霊、神とは陽の霊なり。一気をもっていえば、すなわち至りて伸ぶるものは神たり、反りて帰するものは鬼たり。その実は一物のみ。」(第十六章)<と記している>」
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/11892766.html
ことを踏まえれば、新井白石は、朱子の鬼神論にトンチ的言説を付け加えることでもって、孔子の鬼神不可知論を乗り越えてみせた、といった感じでしょうか。(太田)

 もともと儒教にも祖先崇拝という形での来世論はあるが、徳川幕府はその機能を仏教に任せ、基本的には儒教式の葬祭を禁止する。

⇒御三家の一つである「水戸藩の第二代藩主徳川光圀<が、>・・・1658<年>には正室泰姫の葬儀を儒礼によってとり行ない、さらに・・・1658<年には>父頼房の葬儀を<朱子の>『家礼』や<支那>の儀礼にもとづきつつ実施するとともに、・・・儒教式の墓域を造営し<た>」
https://www.kansai-u.ac.jp/Tozaiken/publication/asset/bulletin/48/kiyo4802.pdf
こと、「江戸時代の儒学者が儒葬(儒教式の葬式と祭祀)され<、>・・・大塚先儒墓所(注)(おおつかせんじゅぼしょ)<が、現在の>東京都文京区に<設けられていた>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E5%85%88%E5%84%92%E5%A2%93%E6%89%80
こと、等に幕府が口を挟んだ形跡がないこともあり、「徳川幕府<が>・・・基本的には儒教式の葬祭を禁止」した、とは言えないのではないでしょうか。(太田)

 (注166)「この大塚先儒墓所に埋葬された儒者たちは、あくまで「個人」として葬られた。江戸時代はいわゆる儒教道徳が興隆し、「家の墓」が登場し始めた時期であるが、「儒教式の墓地」では一般的イメージとは異なり、「家の墓」は採用されなかった。
 その理由は幾つかあるようだが、「近世日本型儒教道徳」では、実は「家族」は、必ずしも「神聖不可侵」のものではなかったからであるというのも、理由の一つであろう。わかりやすい例を出すと、歌舞伎や文楽などで、いわゆるお家騒動の物語が多いのは、一つには「近世日本型儒教道徳」では、「家族」を必ずしも「神聖不可侵」のものではないものとみなしていたから、というのもある。・・・
 <なお、大塚先儒墓所の墓は、>元は「土饅頭」であった<が、>・・・孔子の墓(とされている史跡)・・・も、「土饅頭」の形状<だ。>」
https://www.sougiya.biz/kiji_detail.php?cid=604

 儒教は葬祭の「礼」を欠くことで、定着という点で仏教に及ばないことになる。

⇒確かに、徳川時代においては檀家制度があった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AA%80%E5%AE%B6%E5%88%B6%E5%BA%A6
ことが儒教式の葬祭を実施する制約にはなっていたでしょうが、寺の墓が土饅頭でこそなかったけれど、祖先崇拝の具現化であるところの「家の墓」になった、ということからして、むしろ、日本の墓は全て儒教式になった、と言うこともできそうですね。(太田)

 近代になって仏教教団が維持されたのに対して、儒教が組織としては残らなかった一つの理由はここにあるだろう。」(118)

⇒よって、このような末木の主張には今一つ説得力が乏しい、と言わざるをえません。(太田)

(続く)