太田述正コラム#11356(2020.6.17)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その54)>(2020.9.8公開)

 「儒教は華夷思想<、つまり、中国中心論だが、>・・・日本中心論は中世の神国論にすでにみられていた。
 それが、キリスト教への対抗から改めて日本を神国として捉え直すことになった。
 その際、当初は神国を実質的に支えるのは仏教だったが、儒教がそれに代わって名乗りを上げる。
 儒教はそれを二つのやり方で推し進める。
 一つは神道の再解釈あり、もう一つは歴史の捉え直しである。
 羅山においてはその二つは密接に絡んでいる。
 『神道伝授』<(注167)>(1644)<において、彼は、>・・・日本には周王の血統がつながっているのであり、王朝が断絶した中国よりも優れているというのである。・・・

 (注167)「儒教の立場から神道を説く者は古くから存在していた。北畠親房の『神皇正統記』や度会家行の『類聚神祇本源』などにその思想が見られる他、清原宣賢の神道説には宋学の理論が取り入れられていた。
 江戸時代に入ると、藤原惺窩が神道と儒教は本来同一のものであると説いている。林羅山の神儒一致思想はその師である惺窩の論を継承し発展させたものである。羅山が自ら理当心地神道と称した神儒一致思想の特徴としては、徹底した排仏思想が基本にあることが挙げられる。羅山が登場するより前の神儒一致思想には排仏思想は見られない。羅山の『本朝神社考』では神仏習合思想や吉田神道が批判されている。また、羅山は三種の神器が『中庸』の智・仁・勇の三徳を表すものであると考えた。『神道伝授』では、歴代の天皇はその心に清明なる神が宿り、神の徳と力によって国家が統治されてきた、その統治の理念が神道であり王道であるとし、神道と王道は同意であると主張した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%92%E5%AE%B6%E7%A5%9E%E9%81%93

⇒徹底した排仏思想とその論理的帰結としての神仏習合思想の批判は、私の言う、聖徳太子コンセンサスの重要部分の全面否定であるとともに、日本の歴代天皇を周王の血統とし、その血統が断絶しなかったが故に日本は神国である、とする論理は、尊王倒幕論の根拠を与えたようなものであり、徳川幕府の終焉を潜在的に決定づけた、と言えるでしょう。
 この点からも、私には、徳川幕府が幕末までもったことが、むしろ不思議であると思えてなりません。(太田)

 <すなわち、>太伯<(注168)>は、周の太王<(注169)>の長子であったが、弟に位を譲るために、南の夷狄の中に移ったと<する>のである。」(119)

 (注168)「<殷末のこと、>古公亶父<(ここうたんぽ)に>長子・太伯<(たいはく)>、次子・虞仲<(ぐちゅう)>、末子・季歴<(きれき。がいた。季歴が生まれる際に様々な瑞祥があり、さらに季歴の子の昌(<後に>文王<と追号された>)が優れた子であったので、古公亶父は「わが家を興すのは昌であろうか」と言っていた。・・・父の意を量った太伯と虞仲は、季歴に後を継がせるため荊蛮の地へと自ら出奔した。後になって周の者が二人を迎えに来たが、二人は髪を切り全身に刺青を彫って、自分たちは中華へ帰るに相応しくない人物だとしてこれを断った。太伯は句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従った。この国は呉ともいわれる。太伯が死んだとき子がいなかったため、弟の虞仲・・・が跡を継いだ。<季歴の子の文王の子で周の初代国王となった>武王は虞仲の曾孫・周章を改めて呉に封じ、その弟・虞仲(同名の別人)を北方の虞に封じた。これにより太伯・虞仲は呉と虞の二か国の祖となった。・・・
 髪を短く切るのは海の中で邪魔にならないための処置であり、刺青をするのは模様をつけることで魚に対する威嚇となる。この二つの風習は呉地方の素潜りをして魚を採る民族に見られるという。歴代<支那>の史書で倭に関する記述にも同じような風習を行っていることが記されている。
 <支那>では早くから、日本は太伯の末裔だとする説があり、たとえば『翰苑』巻30にある『魏略』逸文や『晋書』東夷伝、『梁書』東夷伝などには、倭について「自謂太伯之後」(自ら太伯の後と謂う)とある。これらはきわめて簡潔な記事であるが、より詳しい記述が南宋の『通鑑前編』、李氏朝鮮の『海東諸国紀』や『日東壮遊歌』等にある。日本では、南北朝時代の禅僧・中巌円月が、日本を太伯の末裔だと論じたといわれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E4%BC%AF%E3%83%BB%E8%99%9E%E4%BB%B2
 (注169)「古公亶父は、周王朝初代武王の曾祖父。周の先王の一人。・・・周が殷を滅ぼした後は太王と尊称される。あるいは太公とも呼ばれ、文王が<軍師として迎えた>呂尚の事を「太公が望んだ人だ」として「太公望」と呼んだ逸話は有名である(但し太公は祖父、あるいは父の事を指す普通名詞であるという異説もある)。異民族の侵略から逃れるために一族を連れて<、>彼の一族が治めていたとされる漆<(しつ)>、沮(そ)という川のほとりにあった邑である豳(ひん)の地から、後の周王朝の都の付近である岐山の麓に逃れたとされる。
 史記によれば、豳から財物をかすめようとした異民族に侵略される前に与えたが、その上、人や土地を奪おうとしたので民が怒って戦おうとした。しかし、古公は「民が君を立てるのは民の利益のためで、異民族でも利益を図るなら民にとってはそれでかまわないはずだ。自分が必ずしも国を治める必要は無い。民が戦うのは私のためで人の父子を殺して恨まれれば君主であることはできない」と、自分の一族を率いて岐山の麓に逃れた。国人はそれを慕って豳から岐山の麓へと移住した。・・・
 詩経の大雅の緜編には、姜族の妻と共に岐山の麓へやってきたこと、住むべき洞窟すらない岐山の麓で古公が一から国を建国する様子、その後の繁栄などがうたわれている。
 その後、殷王室と親交を結び、息子の季歴に王室から嫁(太任)をもらう(列女伝では、摯の任氏の娘で王室の娘ではない)。その嫁と季歴の息子が後の文王である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%85%AC%E4%BA%B6%E7%88%B6

⇒ヤマト王権の側が(も?)、太伯の子孫だと称していたというのですし、それが、江南人が呉地方経由で日本列島に渡ってきて弥生人となった、という有力説(コラム#省略)と比較して、呉の有力者達が江南人達を率いてやってきたと考えれば齟齬がないだけに、この部分に関してだけは、羅山、結構いい線をいっている、と思いますね。(太田)

(続く)