太田述正コラム#11380(2020.6.29)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その64)>(2020.9.20公開)

 「・・・光格が没後、天皇号を付して「光格天皇」<(注202)>と称することが、幕府によっても承認された・・・(1841)。

 (注202)1771~1840年。天皇:1780~1817年。「閑院宮典仁親王(慶光天皇)の第六皇子。母は大江磐代(鳥取藩倉吉出身の医師岩室宗賢の娘)。・・・傍系・閑院宮家の出身であるためか、中世以来絶えていた朝儀の再興、朝権の回復に熱心であり、朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価されている。父・典仁親王と同じく歌道の達人でもあった。
 一世一元の詔発布(一世一元の制導入)以前に譲位した最後の天皇であり、以降、2019年(平成31年)4月30日に第125代天皇明仁が退位するまでの202年間、天皇が譲位する例はなかった。・・・
 天皇崩御の後、公家の間から「故典・旧儀を興複せられ、公事の再興少なからず、……質素を尊ばれて修飾を好まれず、御仁愛くの聖慮を専らにし、ついに衆庶におよぶ」という功績を称え謐号をおくる意見が出た。そこで朝廷から幕府へ強く要望が出され、特例を以て許可された。さらに朝廷は「御斟酌ながら、帝位の御ことゆえ、以後は天皇と称したてまつられるべき」と天皇の名称も幕府に認めさせたのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%A0%BC%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒現在の皇室の直系祖先である光格天皇の母親が、大江氏の末裔とはいえ一介の医師、と、その内縁関係の「妻」であった商家の娘、との間の子供であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%AE%A4%E5%AE%97%E8%B3%A2
ことは、私にとって、新鮮な驚きです。(太田)

 天皇と称された最後は村上天皇(967)であり、それ以後、正式には諡号(しごう)に天皇号は付されず、後桃園院のように院号が付されるのが慣例であった。<(注203)>

 (注203)「<村上天皇の子でその次の天皇となった冷泉(950~1011年。天皇:967~969年)の>追号は、後院(上皇の御所)となった冷泉院(現在の二条城の東北に嵯峨天皇が造営した離宮「冷然院」の後身)に由来する。
 「院号」については、これ以前にも宇多天皇と陽成天皇には特別に贈られていたが、その他の天皇は基本的には「天皇号」であった。しかし、冷泉天皇以降は安徳天皇と後醍醐天皇のみに「天皇号」が贈られたのみで、江戸時代後期の後桃園天皇に至るまでは「天皇号」ではなく「院号」を追号する慣例となっていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%B7%E6%B3%89%E5%A4%A9%E7%9A%87

 院号は天皇に限らず、広く戒名に用いられていたから、その点では天皇は特別視される存在ではなかった。
 しかし、天皇号の復活によって、天皇は他の公家や武士と同格化されない特別の存在として認識されることになった。
 また、光格と次の仁孝までは泉涌寺に仏式の石塔を建てて祀っていたのが、孝明天皇になって泉涌寺域内ではあるが、御陵(後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしのみささぎ))に祀ることになった。

⇒「仏式の石塔を建てて祀っていた」けれど、石塔は月輪陵(つきのわのひがしのみささぎ)に建てられた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%89%E6%B6%8C%E5%AF%BA
のですから、説明不足です。
 ちなみに、同陵には、「歴代天皇らの25陵、5灰塚、9墓が営まれている」(上掲)ところです。(太田)

 独自の御陵を建造する方式は明治以後も踏襲される。
 こうして天皇を特別の存在として別格化する流れが定着していくことになった。・・・
 もともとの中国の陽明学は必ずしも社会的な実践を勧めたわけではないが、陽明学左派の李贄(卓吾)<(注204)>のように激しく当時の儒教や学者たちを批判し、獄死した者もいた。

 (注204)1527~1602年。「朱子学では・・・「性即理」をテーゼとするが、性を発露するために読書などによって研鑽を積まねばならないとする。しかるに李卓吾はそのように多くの書物を読んでど道理や見聞を得ると言う研鑽そのものが「童心」を失わせるとして排し、否定的に捉えるのである。・・・李卓吾が仮(にせ)、端的に言えば偽善者と非難する具体的な対象は士大夫たちである。・・・その支配イデオロギーは儒教の中でも特にリゴリズム(厳格主義)の傾向が強い朱子学であった。すなわち士大夫は口を開けば「仁義」といった立派なことをいうが、実際の行動はそれに伴っていないことがままあったのである。こうしたダブルスタンダードに対し李卓吾は激しく反発し、士大夫やその価値観を激しく痛罵したのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%8D%93%E5%90%BE

 それに対して日本の陽明学は、しばしばそれをさらに過激化し、実際のテロリズム的な行為に及ぶようになる。
 大塩・・・平八郎<(注205)>・・・はその先緃<(せんしょう)>であり、吉田松陰もまた、李卓吾の著書『焚書』に感激した一人だった。

 (注205)1793~1837年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%A9%E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8E

 松陰はまた、『洗心洞箚記』<(注205)>も読んでいた。」(148、152)

 (注205)「読書録の形式で陽明学を説いた書。・・・吉田松陰はこの著作を「取りて観ることを可となす」と評価し、また・・・西郷隆盛も禁書となったこの著作を所蔵していた。」(上掲)
 「<大塩は、>明末清初の<朱熹と陸象山との間での>朱陸論争・・・に決着をつけようとした。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B4%97%E5%BF%83%E6%B4%9E%E7%AE%9A%E8%A8%98-310206
 ちなみに、「<王>陽明は、「陸象山文集叙」では象山の「心学」という立場を賞賛しながらも、その一方では「その純粋和平は周濂渓(しゅう・れんけい)・程明道には及ばない」と述べ、『伝習録』下巻でも「周濂渓・程明道の後といえば、もちろん象山であるが、その思想はちょっと粗雑である」と述べている、という。
 陽明が、象山の思想が「粗」である、つまり粗雑だと言うのは、言い換えれば、「象山の悟りがまだ精一に至っていない」 象山の悟りは今いちだ、というのである。
 では、どこが今ひとつなのか。
 世に言う「朱陸論争」で、あれほど物議をかもしたはずの象山であっったが、「学を〈講明(知識的研究)〉と〈踐履(実践)〉とに二分し、〈講明〉を〈致知格物〉とみなしている点は、朱子学となんら変わらない」というのである。
 つまり、「象山は〈先知後行(せんちこうこう)〉であって、真の〈知行合一〉を悟ってはいない」<という>のだ。
 <伊香賀隆は、>陸象山が、『孟子』に根底を置いたのに対し、・・・(中略)・・・陽明は『大学』を土台に思想を組み立てたために、象山に比べてその思想に〈条理正しく精察なる處(ところ)〉があるとする」
https://ameblo.jp/a-hayashida/entry-11169411567.html
 「森鴎外は、「平八郎の 思想は未だ醒覚せざる社会主義である」としながらも、けっきょくのところ「米屋こはしの雄」に過ぎないとして、大塩平八郎の思想からは「頼もしい社会政策も生れず、恐ろしい社会主義も出なかつた」と評したが(『大塩平八郎』)、三島由紀夫は、プラグマティクな観点からは評価しがたい大塩の行動に「能動的ニヒリズムとしての陽明学」を見い出して、賛辞を送っている(『行動学入門』)。」
http://library.joshibi.ac.jp/news/teachers-selection/%E6%91%98%E8%AA%AD%E9%8C%B2%E2%80%95%E2%80%95my-favorite-words%E3%80%80%E7%AC%AC%EF%BC%921%E5%9B%9E/

⇒陽明学の、大塩、松陰、西郷、に及ぼした影響については、別の機会にきちんと取り上げることにしたいと思います。(太田)

(続く)